~雨雲~
~~ どろろ - さよならごっこ
グレーイが町を飛び出してきてからもう3日が経過していた。雨雲の姿に戻ったグレーイはその3日間、ずっと雲の上を漂い飛び続けていた。どれくらいの時間が経過したのか、何度太陽が昇り沈みを繰り返したのかも分からなかった。耳鳴りが止まず、誰かに頭を棍棒で殴られたかのような痛みに苛まれていた。
太陽がほんの少し顔をのぞかせた頃、グレーイはついに力尽きた。体の力を抜き、そのまま地上へと落下した。不思議と心地よさと安堵感に包まれ、そのまま地面にドサッと倒れ込んだ。しかし、その地面が温かく、気持ちがいい。雨雲の重さに合わせて地面が盛り上がったかのようだ。
グレーイのまぶたは鉛のように重く、開けたくても開ける力がもう残っていなかった。ジンがもう底をつきそうである。これで死ぬのだろうか…そう確信したグレーイは、ネフェリアを出てきてからずっと流し続けてきている涙を流しながら、深い眠りへと落ちていった。
眠りの中で、今まで訪れたことのある場所を思い返した。自分が生まれたクレーター、ネフェリアの町、神の園、ベール大陸…あれほど未知なるものを渇望していたのに、結局のところ、この星の広大なる大地の一部しか見られなかった。もしあの時、自分の運命の結末を知っていたら、旅なんて始めなかったのに…
次に、旅の途中で出会った、全てのエルムの顔が次々に浮かんできた。ウルナー、他の雲の子供たち、アンジール、多くのことを教えてくれたアンシャンドラクト、ニヴォーラ、その夫のスラゼ。そして、初めて出会ったエルムであり、父親同然だった存在である、アンシャンバーダル。
それから、今や家族と呼べる大切な仲間のことを考えた。パリ、アグニズ、そしてアプル。飛び立つ前に見た彼らの表情を、反芻するように思い出してみた。アプルがこちらに見せた、あの意味深な視線…人生最後の時だというのに、アプルのあの視線を思い出すだけで、後悔の味が口いっぱいに広がって、苦い。
最後の最後まで、みんなを失望させることしか出来なかったことを後悔した。仲間でいる資格がない。みんなに合わす顔がない。
その頃、世界の反対側では太陽が既に沈み始めていた。グレーイの仲間たちは、アンシャンバーダルの小屋に集まっていた。師弟がかつて数ヶ月間、寝食を共に過ごした場所だ。
パリは、未だエルムの姿のままで少し離れた場所に立っていた。その視線の先には、アプルの前で膝をつくアグニズの姿があった。その表情は今にも泣き出しそうだった。りんごのエルムは憂いを帯びた瞳でいながら、無理に微笑みを浮かべようとしていた。ここ数日間の激務による、極度の疲労の色が見て取れる。
「頼む、許してくれ!」と石炭のエルムが懇願していた。「あの時はどうかしちゃってた。なんかこう、カーッと熱くなっちゃって…あそこまでするつもりはなかったんだ!本当だよ、信じてくれ!もっと上手くやれたはずなんだ…でも全て俺の責任であることに変わりはない。だから殴りたいなら、さあ!思う存分殴ってくれ!」
アプルはそっとしゃがみ混み、アグニズの肩に優しく手を置いた。そして、数秒間の沈黙の後、こう言った。
「気にしないで。」笑顔だ。「私たち友達でしょ、アグニズ。」
「で、でも、グレーイを引き留めることも出来たかもしれないのに…あのまま行かせちまった…お、俺…」
「あなたのせいじゃないでしょ。それにいつか必ず、グレーイにはまた会えるって信じてるんだ。現世か…ひょっとしたら来世で…」
「え?」アグニズが不思議そうに聞き返した。
アプルは目を閉じ、返事をしずに立ち上がった。感情を抑え込むのに必死だった。これ以上友達たちに負担をかけたくない。だが、もし出来るなら、涙が枯れるまで、大声で泣きわめきたかった。子供の様に、思うが儘に感情を爆発させたかった。白の貴婦人はアプルの溢れんばかりの悲しみを感じ取り、話題を変えた。
「気付いたかどうか知らないけど、グレーイとの戦いでデュオルクは、ハルの石の力を利用してた。」
「ああ、聞いた。」アグニズも立ち上がりながら答えた。「まさか、ハルの石が一つじゃなかったとは、俺も知らなかった!これでカザンの態度の説明がつく。だからあの日、俺たちを消し去れたのにそうしなかったんだ…くそ、実は一歩先を行かれてた、ってわけか!」
「しかも、今回の石はかなり小さかった。」パリは続けた。「アタシ、対抗軍がアロイ、つまり前にいた灰色の雲を倒す事が出来たのは、あの石のお陰だと思うのよ。父は一度もあんな石の存在は話してくれなかったけど、理由が分かった気がする。何か不思議なものが中に入ってたんじゃないか、って…デュオルクがそれに取り込まれかけてたくらいだからね。」
「待てよ、あいつ石を食っちまったのかよ?」アグニズが尋ねた。
「そこまでは分からない。でも、あの石の力と精霊たちは、無関係ではなさそうなのよね。デュオルクが力を使った時、マジマルが力を使った時と同じ力を感じた。でも、その力がミナモトから作られてる感じはしなくて…ともかく、なんか変だったの!!!」
「ミナモトって基本的な元素のことだよな?」アグニズが聞いた。「もしその石の力がそんなに危険なら、あのカザンが石を一つでも手に入れちまったら、ヤバいことになるな…あの巨雲なんて、それこそ小石みたいなもんだぜ。今すぐにでも残りの石を探しに行かないと!」
パリは無言で話を聞いていたアプルの方に顔を向けた。白の貴婦人は、アプルが何か反応してくれるのを待ったが、アプルはただ肩をすくめるだけだった。疲労困憊と悲しみとで、頭が回らなかったのだ。
その時突然、ウルナーが小屋の陰から飛び出してきた。みんなが一斉に目を丸くしてその姿を見た。パリでさえ、話に夢中になり過ぎてウルナーの気配に全く気が付かなかった。
「待って!」ウルナーが叫んだ。「グレーイを探しに行こうとしてるんでしょ!違う!?」
すぐには誰も答えられなかった。その質問にどう答えるべきか困惑した…その様子を見て、勇敢なウルナーは更に大きな声でこう言った。
「うちも一緒に行く!!!」
ウルナーの言葉は、まるでそれ自体が爆弾であったかのように、それぞれの脳内で弾け、衝撃をもたらした。しかも、初っ端からお願いではなく、意思表示をしてきている。本気のようだ。その本気度は、眼差しに現れていた。まるで何千もの水晶がを閉じ込めているかのように、ウルナーの大きな目はキラキラと輝いていた。
「ダメよ。」パリがすぐに眉をひそめた険しい表情で制した。「あんたはまだ子供じゃない。町に残りなさい。親や友達がいるでしょ?ネフェリアはこれから新しい長を見つけて、安定の日々を取り戻して、再建していかなきゃいけないし…」
「大丈夫だよ!ネフェリアはうちのことなんて必要としてないし、そもそもうちの親は、一緒に旅に出ることなんて絶対に許してくれっこない。例え私が100歳になったってね。しかもうちね、兄弟がいるの。お兄ちゃんと弟。だからうちの代わりに、兄弟が親の傍にいてくれるから大丈夫なの!みんなの役にきっと立てるよ!それにほら、グレーイがいないから、雲の席が空いてるでしょ?」
ウルナーを連れて旅に出るなんて、パリにとっては、地球がひっくり返ったってあり得ない選択肢だった。どうやらそう思っているのは、フクロウだけではなかったようだ。
「おい、親をもっと大事にしろよ!」アグニズが厳めしい顔付きで言った。
「あんたにだけは言われたくないと思うけどね!」パリが笑いをこらえながら反論した。
「言っとくけどな、俺は母さんのことは大事にしてたぜ。最後の瞬間まで傍にいたしな。俺に父親はいないし。」
「グレーイを見つけたらちゃんと家に帰るって約束するから!」ウルナーが反撃した。「一生戻らない、なんて言ってないでしょ!?」
「なあ、おチビさん。もう俺は既に2つのレディーに囲まれてるんだ。」アグニズはため息をついた。「数で負けてる。だからこれ以上俺を不利にしないでくれ、頼むよ…」
パリとアプルはそのやり取りに笑い、とりあえず今日のところは帰りなさい、とウルナーを家に帰した。彼女の提案を検討するとは言ったものの、実際はもう答えは決まっていた。ノーだ。未来ある幼い雲の命を、危険に晒すことなどできない。どんな道を選ぼうとも、かならず危険が待ち構えていることは明白なのだから。
その晩、アプルとパリは、アグニズを残してそっと姿を消した。パリがアプルに何か見せたいものがあると言って誘ったのだ。アプルを案内したのは、ネフェリアの近くに広がる森の中で、最も大きな木だった。そこは、かつてパリが、まだ生きていた頃の父と、よくお喋りしにきた場所でもあった。
その木は他の木々と比べると、異常なほどに大きかった。その高い木の、最も高いところにある枝に腰かけると、目の前には息をのむほどの絶景が広がっていた。雄大な山々と無数の草原が、夕焼けの柔らかなオレンジ色の光に染まって輝いていた。
アプルは美しいものに目がない。だからいつも、花々の近くや庭園で時間を過ごしていたのだ。そんなアプルが、この光景を見て絶句した。神の園の出身であるりんごですら、こんなにも神々しいものを今までに目にしたことはなかった。
この光景はかつて叔父がアプルに話して聞かせたとある場所のことを思い出させた。彼が『天国』と読んでいた場所のことを。
「どうしてこれを私に見せたかったの?」アプルが問いかけた。
「あんたの心が癒されるかな、って思って。」と、パリは微かに微笑んだ。
その言葉を聞いてアプルは、驚いたようにパリを見つめたかと思うと、力いっぱい抱きしめた。そして、声を上げて泣いた。パリの方に涙がどんどん零れ落ちていくが、止められなかった。アプルは、グレーイがグレーイ自身を、自分を、仲間を見捨てたことが許せなかった。しかし最も許せなかったのは、自分自身だった。グレーイに何の言葉もかけてやれず、ただ責めるような目で見てしまった自分のことが。
もしあの時、見つめるのではなく、何か言葉をかけてあげていたら、グレーイは町を、離れ、私たちからも離れなかったのではないだろうか…そう思うと、アプルの泣き声は増々大きくなった。
その頃、古びた小屋の近くで、アグニズは独りで横たわっていた。風の音をBGMに空をじっと見上げていた。まるで、雲が燃えているようだった。この空を見ていると、もう何年も前に離れた地元を思い出した。これだけの時が経っても、戦いはまだ始まったばかりだった。
しかし、諦めるつもりは毛頭ない。むしろ逆だ!真っ赤な夕焼け雲のように、その時をじりじりと身を焦がす思いで待っていた。カザンを打ちのめす日を!
母の命を奪ったエルムに、王の称号も、アグニズとの絆も与える価値がない。アグニズの進むべき道は一つ。いつの日か、今まで犯してきた全ての罪をカザンに償わせ、カルシネ大陸の王になってやる!
アグニズが熱い思いに心を燃やしている中、そこから何千も何万キロも離れた異国の地で、灰色の雲は動かなくなっていた。空から落ちてから、ピクリとも動かない。太陽が容赦なく燦々と照りつけ、地面は焼けるように熱くなってきたのに、依然として目を覚まさない…
突如、何かがグレーイの鼻をくすぐった。ガバッと起き上がり、目をこすった。埃が中に詰まっているような感覚がした。
最初は、まるで千の暈が一か所に集まったかのような、強烈な太陽の眩しさで目が開けられなかった。しばらくして目が慣れた時、そっと開けてみて自分がどこにいるかをようやく認識した時、腰を抜かしそうになった。
グレーイは柔らかいオレンジ色で、巨大な丘の連なりの中にいた。それは無数の小さい粒子で出来ている。そう、辺り一面砂漠だった。雨雲は初めてみるこの光景に驚嘆した。しかし、その光景は次の瞬間には消えてしまった。
唐突に砂漠は雲よりも白くなった。グレーイがこれまでに見てきたどんなものよりも白い。さっきまで辺りを覆っていた熱気は消え、代わりに凍るような空気がなだれ込んできた。空を見上げると、太陽の隣に月が浮かんでいた。
二つの天体は不思議な輝きを放っていた。その場所で、グレーイは神秘的なオーラを感じた。美しく、優しさと慈愛に溢れ、しかし今までに感じたことのないほどの強力なオーラだった。
そのオーラに圧倒されていると、その風景は現れたのと同じくらい突然消えた。
そしてグレーイは再び、先ほどまでいた熱砂の真っ只中にいた。今体験した出来事は一瞬の様でもあり、同時に長くもあり…また誰かに錯覚を見せられたのだろうか?
立ち上がろうとしたその時、砂の中で煌めく不思議な小さい点を見つけた。近付いてみると、まるで太陽の光を宿しているかのように光るアリがいた。さっき鼻をくすぐった犯人は、きっとこいつだ。
アリの行動を見つめながら立ち上がり、横に並んで歩いた。アリは間もなく仲間のもとに合流した。数珠つなぎのように一列になって進んでいる。グレーイは暑さのあまり体が重く感じたが、彼らの後を追った。日光の照りつけに慣れていなかったグレーイは、このまま溶けてしまうのではないか、と怖かった。
気が付かないうちに空気が冷たくなり、夜が訪れた。暗闇の中、光るアリたちはまるで地面に無限にひろがる星空のようだった。
生きているものが自分以外いないのではないか、と思える場所で、アリだけが真摯に輝き続けていた。そしてグレーイを新たな世界へと導いた。
前回は失敗したかもしれない。だから、今回は全く違う方法で物語を紡ごう。グレーイの探求心の火は消えてはいなかった。この道の先に探している答えがあると信じ、グレーイは光るアリたちの横を歩き続けた。
何があろうとも進み続け、人生の意味を見つけよう。そしていつの日か、「神」と呼ばれるものたちに会いに行こう。その時まで旅は続く。生まれた時のように雨雲を呼び、未来へと背中を押す声と力に逆らうことはできない。
歩みを進めていると、風が砂粒を巻き上げ、グレーイの灰色の顔に降りかかった。少し不快だったが、グレーイは生きていると実感した。そして、控え目な笑みを浮かべた。




