走らなかったメロス
メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。しかし、メロスはかつての単純な牧人ではなかった。長い放浪生活で、彼は人間の本性、社会の複雑さを知っていた。策略、裏切り、権力闘争。美しい理想だけでは世の中は動かないことを、身をもって体験していたのだ。
メロスは、村の羊飼いをしていた頃、隣村との些細な水争いが、血で血を洗う抗争に発展していく様を目の当たりにした。平和な村社会の仮面の下に隠された、人間の醜い欲望、保身、猜疑心。その経験が、彼を故郷から追いやり、孤独な放浪の旅へと駆り立てたのだ。
彼は各地を転々とする中で、様々な人と出会った。盗賊、商人、貴族、僧侶。善人、悪人、様々な人間の生き様を見て、メロスは学んだ。人の心は、善と悪、光と闇が複雑に絡み合った、混沌としたものであることを。
そして、シラクスに流れ着いたメロスは、石工のセリヌンティウスと再会する。かつての竹馬の友は、逞しい男へと成長していた。セリヌンティウスは、メロスの話を聞き、ディオニス王の圧政に苦しむ人々の窮状を訴えた。メロスは、友の言葉に心を揺さぶられる。友を救いたい。そして、この街の人々を救いたい。しかし、かつてのように単純に王宮へ乗り込むだけでは、何も変わらないことを、メロスは知っていた。
メロスは、まず情報収集を開始する。ディオニス王の性格、側近たちの権力関係、兵力、市内の守備体制。そして、反体制派の動き。彼は、闇市で情報屋と接触し、高額な報酬と引き換えに、必要な情報を手に入れていく。
情報収集を進める中で、メロスは、ディオニス王が、側近である宰相の策略によって孤立させられていることを知る。宰相は、王の猜疑心を巧みに利用し、自分に反対する者を次々と粛清していたのだ。ディオニス王は、猜疑心のあまり、忠臣までも遠ざけ、孤独を深めていた。
メロスは、王の孤独につけ込むことを思いつく。彼は、王宮に潜入し、ディオニス王に近づき、忠誠を誓うふりをしながら、巧みに王の心を操っていく。王の猜疑心を煽り、宰相への不信感を植え付ける。そして、王に、真の忠臣とは誰かを見極めさせるのだ。
同時に、メロスは、セリヌンティウスと共に、民衆の間に潜む反体制派と接触し、蜂起の計画を進める。武器の調達、決起のタイミング、そして、王宮への突入経路。綿密な計画を練り上げていく。
決行の日は、三日後の夜と決まった。メロスは、王宮でディオニス王に、反乱の兆候を告げ口する。王は、宰相を疑い、彼を捕らえるように命じる。宰相は、反逆の罪を着せられ、処刑されることになる。
その夜、メロスとセリヌンティウスは、民衆を率いて王宮に突入する。混乱に乗じて、ディオニス王を捕らえ、民衆の前に引き出す。王は、メロスの策略に気づき、激しく罵倒する。しかし、もはや民衆の心は、王にはなかった。
メロスは、民衆に向かって演説する。「我々は、自由のために戦うのではない。正義のために戦うのだ。ディオニス王は、猜疑心にとらわれ、多くの罪のない人々を殺した。しかし、彼もまた、宰相の策略によって苦しめられていたのだ。我々は、王を許し、共に新しい国を築いていこうではないか。」
メロスの言葉に、民衆は歓声をあげる。ディオニス王は、驚きと後悔の念に打ちひしがれる。メロスは、王に手を差し伸べ、和解を申し入れる。王は、メロスの手を握り返し、涙を流す。
こうして、シラクスに平和が訪れた。メロスは、英雄として称えられ、新しい国の指導者となる。しかし、メロスは、権力の座に安住することはなかった。彼は、常に民衆の声に耳を傾け、正義と公平を貫く政治を目指した。
メロスは、かつての単純な牧人ではなくなっていた。しかし、彼の心には、正義と友情という変わらない炎が燃えていた。