生活
「入井さん、本当に申し訳ないんだけど、これ、急ぎでお願いしても良いかな」
上司が大量に書類を運んできた。
「はい」
やや苦笑いを浮かべながら、書類を軽くチェックする。
腕時計に目をやる。17時20分。今からこの量をこなしていては帰りはかなり遅くなりそうだ。
「いつまでに必要ですか」
「ほんとごめん。できるだけ早く、できれば明日の昼までに欲しいかな」
「・・・わかりました」
「あ、でももうこんな時間だし、明日にしてね。」
いやいや、こんな時間に頼んできたのはそっちじゃないの。不満に思いながらも、明日の予定を確認する。明日は午前中に取引先との会議が入っている。明日の昼までに書類のチェックを確実に間に合わせるには、やはり今日中に終わらせてしまいたい。
「そうなんですけど。でもやって帰ります」
「悪いね。他に頼める人がいなくて」
上司が申し訳なさそうに言った。
建築関係の小さな会社。4月の人事異動で、私の部署ではそれなりに人が入れ替わった。そのおかげで、私の仕事が格段に増えた。
現在、23歳。入社3年目。高卒で学歴がなく、派遣の仕事やアルバイトを転々としていた私を雇ってくれた会社である。慢性的に人が足りず、だからといって新しい人を雇うこともあまりなく、私たちは毎日当たり前のように残業をする。
ふと、かばんから携帯電話を取り出してみる。
いや、いいや。
息子に電話をかけようとして、携帯を開こうとしたところでやめた。
息子がどうしているかを考えたくなかった。きっと今頃一人で宿題をしているはずだ。
遅くなるのは毎日で、その生活に息子も慣れきっているはずである。この頃は、何時に帰るとか、遅くなるとかそういうことを息子に伝えることをやめていた。
はあ、と誰にも気づかれないように小さくため息を吐いてから、書類に向き合い始めた。
「ただいま」
職場を出たのは8時半を過ぎていた。電車に乗り、最寄駅から徒歩で10分。アパートに帰りついたのは夜9時を過ぎていた。部屋に入ると、息子はリビングでテレビを見ていた。
「おかえり」
小学校2年生、8歳の息子の志穏が返事をする。
ソファから立ち上がって、息子が言った。
「お母さん、今日ね、かけっこをしたんだよ。えっとね、運動会の練習。ぼく、3番目だった!」
「へえ、そうなの」
興奮気味に話しかけてくる息子に、適当に返事をしてしまう。
「りょうちゃんが1番で、りょうちゃんは、いちばんはやい。ゆうたくんが2番。つぎはしおんが1番になるようにがんばるよ」
「うん、そうね。それで、ごはんは食べ終わってるね」
「うん。食べたよ」
「お皿は?」
「流しにある」
「お風呂は?」
「まだ入ってない」
「お風呂、先に入っておいてっていつも言ってるよね」
「うん」
「お湯の入れ方、教えたよね。シャワーでもいいから、はやく入ってきて」
「お母さんは?お風呂にお湯入れる?」
「いい。今から湯を溜めたら時間がかかる。あんたが寝るの遅くなるし。給湯器つけておくから、もう今日はシャワーしてきて」
給湯器のスイッチを押し、息子をお風呂に促す。
「はい」
タンスからパジャマと下着を取り出し、志穏はお風呂へ向かった。
はあ、とまたため息をつき、冷蔵庫からおかずを取り出す。朝、作っておいた卵焼きと、スーパーで買った3個入りのパックに入ったハンバーグ。冷凍庫から、冷凍の白米。
最近は夜ご飯用にお惣菜や冷凍食品を息子に温めるように言ってから仕事に出る。
私が帰るのが遅いため、志穏は先におかずと冷凍のご飯を温めて食べている。
健康に良い食事とかそんなもの、余裕がなくて考えられない。食べられたらなんでもいいやという気持ちで、その日その日をやり過ごしている。
適当な夕食を並べて、食べ始めたところでテーブルの上の文書に気づく。志穏が学校から持って帰ってきた手紙だ。PTA役員選出のお願い、学級通信、運動会のお知らせ・・・。
疲れたし、また明日見るか。いや、これ、いつ持って帰ってきたんだっけ。日付を見ると、3日前だった。PTAの文書は、返信しないといけないようだ。PTA役員なんて、やってられるわけないじゃん。役員をできるかどうかを問う立候補の欄には、不可に丸をつけた。他薦の欄を見た。ずらりと息子のクラスの保護者の名前が並んでいるが、知っている名前がほとんどない。知らない人に丸をつけるのも気が引ける。つけなかったらどうなるのかな。志穏の友達も、お母さんもほとんど知らない。ママ友付き合いが苦手で、というのもほかのお母さんは自分よりも年上ばかりだから、話しづらく関わらないようにしてきた。何か噂されるのも嫌で、できるだけ距離を置いた。
15歳で子どもを生んだ。
周りからどう見られているのかは今はあまり気にしていない。しかし、志穏が保育園に通っていた時、迎えに行くと他の保護者から志穏の姉だと間違えられたことがあった。まだ10代だったからだ。自分は母だと控え目に説明するも、なんだかとても気まずい気持ちになった。その一件からできるだけ服や身に着けているものを大人っぽくしようと意識するようになった。