別れ
「じゃあ、行ってきます」
玄関のドアの前に立ち、なるべく平然を装いながら言った。
「気をつけて」
背後から声がした。
その声を聞いた瞬間、本当に情けないが泣いてしまいそうになった。ここで泣いてはシナリオが成り立たないだろう。僕は最後までやり抜くと決めたのだ。
「うん」
どうにかこうにか返事をして、玄関のドアを開けると、おだやかな春の日差しが差し込んできた。その日差しがなんとも優しく思えて、さらに感情的になってしまいそうだった。
そのまますぐにでも格好をつけてなんでもない振りをして立ち去ってしまいたかったが、最後の最後にはきちんと向き合って別れを告げようと決めていた。
「あの、母さん」
後ろを振り返ると、先ほどまでソファに座っていた母が僕の目の前に立っていた。
目が合った。僕の胸はこれでもかってほど鳴っていた。聞かれているのではないかと心配になるほどに。
「うん?」
「今まで本当に、ありがとうございました」
深々と頭を下げた。きちんとお礼を言いたかった、ずっと。
しばらく返事がなかった。玄関下の床しか見えなかった。だが、母はびっくりして言葉に詰まっているのだろう。そのような気配がした。
「・・・ごめんね」
しばらく経ってから、母の口から言葉がこぼれた。何度聞いただろう。もう聞きたくなかった。もう言わないでくれと、ずっと思っていた。だけど最後だから。そのセリフを、僕の耳や脳や心が必死に吸収していく。拒絶したかったはずのその言葉を、今は脳のどこかに焼き付けて録音して、ボタンを押したらいつでも再生できるようにしたいと思うほどに僕自身が吸収する。
「ごめんね、志穏」
顔を上げた時、潤んだ母の目が僕の目をとらえた。
「ありがとう、今まで」
僕はそう言うのが精一杯だった。いろいろな思いと感情でいっぱいで頭はフル稼働しているのに、それ以上の言葉が出てこなかった。
「体に気を付けて。無理しないように」
「うん」
目を逸らしてしまった。そうでないと耐えられないと思った。
「じゃあ、行くよ」
「うん。行ってらっしゃい。どうか元気で」
母は最後、少し微笑んだように見えた。僕はどうしようもなく言葉を返せなくなり、再度頭を下げて、玄関のドアを閉めた。
終わった。終わったんだ。
心の中にサアッと寒い風が吹いて、どうしようもなく涙があふれた。古いアパートの廊下、情けない嗚咽の音を、スーツケースを引きずる音がかき消していく。
僕と母の家族ごっこのストーリーはここでエンディングだ。