【練習】天平十年の復讐
フィクションです(保険)
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文月(七月)のある日
その日の勤務を終え隅中(午前10時前後)に差し掛かったころ、右兵庫頭は珍しく同僚である子虫から碁に誘われた。
秋に差し掛かったとはいえ、まだまだ暑く額には玉の汗が吹き出る。
安嘉門そばの兵庫寮の建て屋の日陰の場所を探して、どこから調達したか酒の入った椀を手に二人は碁盤を囲んだ。
「其方とは同じ寮に居るにも関わらず、何かと接点がないな。」
椀の中の酒を呷り右兵庫頭はそう言った。
彼との付き合いも、もう10年を超えようというとこではあるが、あまり個人的な接点がなかった。
「それは致し方がありますまい。吾は左兵庫の三等官。貴殿は右兵庫の頭であれば、立場というものが違うゆえに。」
「それを言えば此方は中臣も末端の末端、其方は軍事貴族たる大伴の直系に近い。」
「なるほど、そこまで違う二人が、よく今日までの付き合いをしてきたものでありますな。」
子虫はそう答えたのだった。
対局も進み、子虫は那智の黒石を右手でもてあそびながら、こうつぶやいたのであった。
「それにしても、右兵庫頭殿は上手くやられた。」
「何をだしぬけに。」
右兵庫頭は片眉を釣りあげると、怪訝な顔を子虫に向けた。
「そうではござらぬか? 吾も貴殿も王邸に世話になっていたものだが、片や庶人から異例の出世を遂げた時の人で在らせられる。」
子虫は右兵庫頭の顔などみもせず、盤面を凝視しながらため息をついて見せた。。
「はっは、何かと思えば。其方は吾の昇進が面白くないと? それを言えば其方は内位、此方は外位にてこれ以上の昇進は望めまいよ。」
汗をかいた上にすきっ腹の酒は思いの外酔いを進たのか、右兵衛頭の顔は赤くなっていた。
「吾の場合は、偶さか偉大なる先祖のおかげでこの位にあるに過ぎず。 その証拠にもう5年ほどこの位に留まっている有様にて。」
そう言って、子虫は黒石を盤面に置くと手首を柄頭に載せ、顔を右兵庫頭に向けた。
「ゆえに吾は言うのです。 上手くやられたな、と」
子虫と右兵庫頭の視線が交錯した。
子虫の目は、碁盤の上の黒石も斯くやというほどに黒く、奥が見えない。
あるいは右兵庫頭はここで気づくべきであったのかもしれない。
なぜ、子虫が珍しく碁に誘ってきたかを。
そしてそれでも兵庫寮の上級職である子虫が、なぜ帯刀しているのかを。
しかし、酒で思考が濁った右兵庫頭は気づかず口を滑らせる。
「君足の誘いに乗ったまでよ」
「ほぅ、それは塗部の?」
塗部君足。木工寮の技術者の家に生まれるも、素行が悪く家から放逐されてふらふらとしていた彼奴か。
「然り。一つ証言をしただけで、この通りこの身は従五位 右兵庫頭様だ。」
右兵庫頭の口は止まらない。目の前の子虫に、嘗てのルサンチマンを晴らすが如く、顎をそらし歌い上げるように喋る。
「しかし、それは貴殿が王の儀式を垣間見たからでは?」
子虫は目を細めた。
「知らぬ。実際に左道だなんだと、此方は見ておらん。証拠も君足が用意したゆえにな。
しかし其方も惜しいことをしたものだ。 おおかた君足が前帥殿を憚り其方には話をもっていかなかったのだろうが」
おそらく、ここが右兵庫頭の絶頂だっただろう。しかしそこまで右兵庫頭が言うと、ドンと衝撃を感じた。
顎を引き目を見開くと、眼前に憎悪に燃える子虫の瞳が見えた。
「やはり・・・やはり貴様っ!!」
胸が熱く、呼吸が苦しい。
視線を胸元に向けると、子虫の直刀が半分ほど胸に吸い込まれているのが見えた。
「何をs・・・」
口からひと塊の血が溢れ、言葉にならない。
右兵庫頭の左手が、子虫を払いのけようと宙を切り、床にあった酒の椀が倒れる。
「前内臣の策だろうことは何とはなしに気づいていた。
だが、貴様が良心の痛みから反省していたとしたら・・・」
子虫は絞り出すように吐き出すと、なおも直刀を捻り、突き刺した。
右兵庫頭は血だまりに尻もちをつき、なおも声を出そうとするが、ヒュッと呼吸の音が漏れるだけである。
これだけの物音で周りが気づかぬはずもなく、こちらに駆け寄る足音が聞こえてくる。
子虫は直刀を手放し・・・
「あの世で王と内親王に謝罪するがいい。だがな、貴様一人の命で贖えると思うなよ?」
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秋七月丙子
左兵庫少属 従八位下 大伴宿禰子虫 以刀(石斤)殺 右兵庫頭 外従五位下 中臣宮処連東人。
(中略)東人 即誣告 長屋王 事之人也。
(続日本紀巻十三より)