褪色の記憶 下
エイガストの父ルーヴァンは、自分たちを狙う追手に気付き、エイガストを近くの避難壕に潜ませた。しばらくはエイガストも大人しくしていたが、遠くなる魔法の音と孤独の恐怖から、父を追って避難壕を飛び出した。
木々に影る山道は薄暗く、反響する音に集中し過ぎて何度も足を滑らせた。
「ってェ……」
地滑りで出来た小さな崖から落ちたエイガストは、弓を抱えていたせいで受け身を取れず、身体中に擦り傷を作りながら立ち上がり、空腹な事も忘れて再び山を歩く。
ゴウと強い風が正面から吹き抜けて、エイガストは目を閉じる。風が落ち着き目を開けると、人の頭程の大きな蜘蛛が目の前にぶら下がっていた。
「うわあ!?」
驚いて尻餅を着いたエイガストは、咄嗟に抱えていた弓を振る。ガツンと叩き落とした蜘蛛が目を回したのか、肢を畳んで縮こまる。
過呼吸気味に肩で息を繰り返し、混乱しているエイガストの上空で一際強く大きな風が吹き荒れ、舞い上がった葉と枝と未熟な木の実が地面に雨の様に降り注ぐ。頭を抱えて蹲っていたエイガストがゆっくり目を開けると正面に靴があり、見上げた先には驚きと怒りの表情を浮かべたルーヴァンが立っていた。
「どうして出てきた!?」
「ごめ…なさ…こ、こわ、くて……」
父に会えた安堵と、言付けを守らなかった罪悪感と、叱られた事実にエイガストは声をあげて泣いた。
ルーヴァンは泣きじゃくるエイガストを素早く抱き上げ、風に乗って上空へ舞い上がり林を抜け出す。眼下に注意しながら、エイガストの背を撫でて宥める。
「怒鳴って悪かった。敵はお前の存在に気づいてなかったから、俺から離れている方が安全だと思ったんだ」
「ぅぅ…ごめ……さぃ…」
「怖かったな。もう大丈夫。父さんが絶対守ってやるから、もう涙を止めてくれないか?」
「……ぅん…」
「強い子だな。お前の水晶は首に提げてある、今のうちに治癒しなさい」
無理やり涙を押し込めたエイガストは、ルーヴァンの首の紐を引っ張って水晶を取り出す。赤の鱗が閉じ込められたエイガストの宝物。父の安全を願って、旅に出る時はいつも持って行って貰っている。
小声でアゲイドの名を呼んで水晶を握りしめると、体の魔力が強く循環し、傷の痛みが和らいでいく。同時に父を守ってと言うエイガストの願いは、ルーヴァンの肩の傷を癒す速度を早め、エイガストの魔力を分け与えた。
安堵した束の間、強い力で弓が地面に引っ張られた。弓を握って離さなかったエイガストの体も引きずられ、エイガストを抱いていたルーヴァンごと落下する。
地面に叩きつけられる直前に暴風を起こして衝撃を緩和させるが、エイガストを庇ったルーヴァンは背中を強く打ち付けた。
「…と…さん……」
起き上がれないルーヴァンは、腕の中で震えるエイガストを力なく抱きしめる。大きな怪我はしていないようだが、また泣き出しそうな表情をしていた。
辺りには魔力の糸が張り巡らされ、二人は大きな蜘蛛の巣の中央に捕らえられている。ルーヴァンの視線の先には、糸を辿って大きな蜘蛛が近づいてくるのが見えた。
「エイガスト、必ず生き残れ」
守りながら戦えない事を悟ったルーヴァンは、転移の魔法をエイガストにかける。
エイガストの視界はグニャリと歪み、全身を何かが這いずるような気持ち悪さと目眩に両手をついて項垂れる。そして顔を上げれば、目の前で倒れていた父が忽然と消えていた。
「とうさん……?」
周囲を見回しても誰も居ない。周囲から感じていた殺気の様な感覚も今は無く、エイガストは父が敵と一緒に消えたのだと思って探し回った。
「父さん! どこ!? 父さん!!」
戦闘の音も、魔法の音も聞こえない。暗がりつつある林を走って山を登り、開けた場所を見つけて風景を見渡す。帰る方向が分からなくなった時の目標の木、見下ろす川や畑の形、一番近い場所にあった村の家の配置。全てが記憶と一致しない場所だった。
そこでようやく、エイガストは転移したのは自分なのだと気づいた。
「父さん……!」
父が、もうそこには居ない事を理解して崩れ落ちた。
「母さん……!」
どんなに泣き叫んでも。
「姉ちゃん……爺ちゃん……!」
家族が迎えに来る事はなかった。
僅かな木の実や泥水だけでは生きてはいけず、諦めたエイガストが山を降りたのは、随分と日が経ってからだった。
街道を見つけて道沿いに街を目指したが、とうとう限界を迎えて道端に倒れこむ。
意識が薄れる中で思い出すのは、父の遺した言葉だった。
ふと、額に冷たいものが触れた事に気づいて、エイガストは目を覚ます。
「おはよう。私の声が聞こえる?」
薄水色の髪の長い女性が、エイガストの額に濡れた布を当てながら尋ねる。ゆっくりと頷くエイガストに、女性は良かったと安堵の表情を見せた。
頭痛と倦怠感と熱り。起き上がれないエイガストの口に、女性が小さな水差しを咥えさせてゆっくりと水を飲ませる。酸っぱくて苦い味にエイガストは顔を顰めた。
「ちょっと苦かったかしら。でもカール特製の熱冷ましはとっても効くのよ。すぐに良くなるわ」
そう女性が言った通り、翌日にはエイガストの熱は下がり、食事を摂れる程に回復した。
女性の名前はミレイニア。治療院の看護師である彼女はエイガストに名前や出身などの質問をする。しかし、名前以外の出自に関する事に対して思い出せず、それ以上踏み込むと怯える事から、強いショックを受けたのだろうと判断した。
数日間療養して体力も戻り、生活に問題ないとして治療院に併設された養護施設に入ったエイガストは、両親を探してもらう依頼を役場に提出し、その支払い金を稼ぐために農作業や配達などの子供でもできる小さな仕事をこなしていった。
しかし、何日経っても家族の情報を得られる事はなかった。
雨が降ったある日。
いつもの様に皆が室内で読み書きの練習をしている中、エイガストは書棚の隅にあった、本と呼ぶには粗末な紙束を広げていた。
「面白いかい?」
他にも席は空いているのに、エイガストの正面に男性が座った。
彼はカール。時々施設に出入りしているのを見かけていて、ミレイニアから夫だと紹介されているので知ってはいるが、直接話すのはこれが初めてだった。
「えっと、多分……」
「君はずいぶんとしっかりした教育を受けていたんだね」
「そうなんですか?」
「この町でソレを読めるのは、僕も入れて数人くらいしか居ないよ」
この紙束を置いたのはカールだった。
世界中を旅していた頃に書いた手記や、現地で手に入れた報知紙をまとめたものだという。
外国語の教材として書棚に置いていたが誰にも興味を持たれずに、いつの間にか隅の方に追いやられてしまった所をエイガストが引っ張り出して見つけたらしい。
他の国の文字も読めるのかと、カールが別の頁をめくる。いくつか知っている単語の文字を読めば、カールは感心して頷いた。
「エイガスト君、僕の商会で働いてみないか?」
そうしてカールに誘われたエイガストは施設からカールの家に移り住み、身重のミレイニアの代わりに家政人兼カールの補佐としての仕事に就いた。
そして数ヶ節が経ち、ミレイニアが女の子を産んだ頃に、エイガストは正式にカールの養子となった。
ミレイニアが祖父から継いだと言う温室を共に管理して薬草学を覚え、どこまでもマイペースで魔動装置弄りが大好きな妹の世話を焼き、ヴィーディフの後継としての鑑識眼を鍛えられて日々を過ごす。
体が成長して魔装具が扱える様になると、近隣に出現する魔獣討伐隊にも率先して参加した。その度に逼迫した様子を見せるエイガストに、カールとミレイニアは魔獣によって家族と記憶を失ったのだろうと結論を付ける。
季節は流れてエイガストが十五で成人を迎えた夜、大事な話があるとエイガストはカールに呼び出された。
「俺とファスが、子供を……?」
突拍子もない話だった。
エイガストの妹のファイレスは、他の女性陣と一緒に糸紡ぎや刺繍といった家庭の仕事より、機械装置弄りが好きな変わり者。
宝飾や化粧にも興味がなく、恋愛にも興味を示していないが、十になったばかりの少女に対して気が早過ぎるとエイガストは困惑した。
「ファイレスが成人を迎えても、異性に興味を持たなかった場合の話だ。少なくともあの子は、お前のことを嫌ってはいない様だからな」
「それは俺が兄だからですよ。ミルドやカラヘイの方が妥当では?」
エイガストは同じ商会で働く男性の名前を挙げる。彼等の方がファイレスの年齢に近く、魔動装置にも理解を示すだろうと考える。
しかし、カールはゆっくりと首を横に振った。
「歯牙にもかけなかった。彼等も理想の家庭が築けると思わなかったのだろう、断りを入れられたよ」
「そうですか……」
「このままいけば本当に生涯の伴侶が魔動装置に成りかねん」
「……少し、考えさせてください」
「勿論、成人まで何も手を尽くさない訳じゃないが……本当の最後の手段だと心に留めていてほしい」
カールはミレイニア含めて妻を三人持っているが、子供はファイレスの一人だけ。彼女が子供を儲けなければヴィーディフの血が途切れる事を危惧しての発言。
カールの血が途絶える事はエイガストも望んでなどいないが、かと言って自分が妹の伴侶になるのも受け入れ難かった。
「それで、出発の日は決めたのか?」
ファイレスの件は終わりと言う様に、カールは話題を変えた。
エイガストは成人した時に、昔のカールの様に旅がしたいと公言していた。その為に必要な知識や道具の他に、狩猟や討伐に出る以外でも体力を鍛えて弓の技術を磨いた。
世界中を旅して回って知見を広めたいといった尤もらしい理由の裏に、己の出自が知りたいといった本音もあるのだろうとカールは気づいていたが、無粋なので知らないふりをする。
「はい。雨季の明ける来節に」
「そうか。少し寂しくなるな」
エイガストが登録した逓送組合の識別番号を控えたカールは、クローゼットの中から大きな箱と封筒をテーブルに置いた。
目の前に置かれた箱を開けたエイガストは、目をまん丸にして驚いた。入っていたのは大きな鞄。それも行商人なら誰でも欲しがる、収納の魔法がかけられた高級なものだった。
「餞別だ、持っていくと良い」
「ありがとうございます。大事に使います」
「封筒はスフィンウェル国にいる会長代理のシュウに渡してくれ」
「わかりました」
エイガストは封筒を受け取って鞄に収める。スゥっと封筒が消えていく様を面白がる姿に、カールは苦笑する。
「エイガスト」
呼ばれて顔を上げたエイガストの前には、いつになく優しい表情をする父親がいた。
「必ず生きて帰って来なさい」
「はい!」
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