055
国都の南側を治める領主が所有する広大な麦畑。いくつかの小さな農村が共同で管理しており、街道を挟んだ向かいに側にある三十人規模の農村はその中の一つだ。
少し距離があるので今までは滅多に交流する事はなかったが、街道で休憩所を開いてからは共に露店を開き、互いの生産物を交換し合うくらいに親しくなっていた。
晩夏に入ってからは露店を出す暇もないほどに収穫が忙しい様子だった。
「野焼きでしょうか」
「野焼き……?」
「うん。刈り取った後は枯れ葉や茎を焼却して、畑の養分にするんだ」
「じゃあ……火事じゃ、ない?」
ノーマの報告を受けて外に出たエイガストと村長は、陽が沈みかけた空に立ち昇る煙を見た。黒く大きな煙は、台所ではなくもっと広い範囲を焼いている煙だった。
収穫を終えた後の残渣が腐る前に焼いて灰にし、また春に種を撒くための畑の養分にするのは、どこの農家も行う事で珍しくもない。
「すみません、俺……勘違いを」
「こんな時間に大きな煙が見えたら誰でもビックリするよ。教えてくれてありがと」
早とちりして慌てていた自分を恥ずかしく思いながら、ノーマは吃ってしまう。急いで報せてくれたノーマに礼を言ってからエイガストは村長に確認する。
「隣村はいつも夜に野焼きを?」
「隣村の方針は知らんが、流石に範囲が広すぎるような気が……」
「なら俺、ちょっと様子見てきます。ゼミリアスは」
「ボクも行く!」
エイガストに居残りを命じられる前に、ゼミリアスは同行の意思を示した。隣村が火事であれば水を出せるゼミリアスがいる方が良いとエイガストは判断する。
ノーマには帰りが遅くなるとトグニーへの伝言を頼み、ウエルテに乗ってエイガストとゼミリアスは隣村へと向かった。
燃え上がる炎に近づくにつれて、水桶を持って激しく往来する人の影と叫喚の声で、意図せぬ火である事がわかった。
「エイガスト、針が……」
ゼミリアスの胸元に刺している金の針が、僅かに点滅していた。それほど遠くない距離に、魔獣がいる。
ウエルテの向かう先で両手を振って制止の合図を送る人が見え、エイガストはウエルテの手綱を引いて足を止める。
「すまん、手を貸してくれ!」
「何があったんですか?」
「魔獣が火を噴いたんだ!」
ウエルテを火の届かない安全な位置に残し、村人を追いかけながらエイガストは鞄から弓を、ゼミリアスは羽団扇を出す。
青の魔晶石から見ていたレイリスは、水を打ち出す準備ができていると、エイガストが目を合わせた時に小さく頷いた。
「軍への要請は?」
「さっき向かった!」
村の人は魔動散水装置を起動して水をかけるが勢いは弱く、乾いた風に煽られて燃え上がる炎は消火するより速く広がり、収穫をしていない畑にまで及ぶ。
エイガストは火の手より先で、まだ燃えていない麦を刈る村人の応援にゼミリアスを向かわせた。エイガストは弓を使って水を打ち上げ、広範囲の消火に当たる。
その間にも周囲に気を配るが魔獣の姿は見えない。
鎮火する頃にはすっかり辺りは暗くなり、畑の惨状は闇で覆い隠されてしまったが、まずは鎮火した事に皆胸を撫で下ろした。
警邏中の兵士を捕まえる事ができ、比較的早く三人の兵士が村に到着した。班長の兵士は青の魔晶石を持っていて火を噴く魔獣に対抗できるが、後の二人は魔法が使えない。
エイガストとゼミリアスは班長に申し出て、協力して魔獣退治を行う事になった。
目撃した者によると魔獣は鼠の様な小型のもので、とても素速いらしい。草葉に隠れ、手元の灯りのみでの夜の捜索は非常に難航した。
金の針の点滅は遅速を繰り返し、指し示す針の先も左右に振られていて、魔獣が今も走り回っている事がわかる。
「では最終確認だ。私たち三人とエイガストさんで追い込み、広場に現れた魔獣をゼミリアスくんが討つ」
「ウィ…わかった!」
村の集落としている場所と麦畑に至る間に広場があり、いくつかのカンテラを吊るして周囲の明かりを確保した。ゼミリアスにはそこで待機し、追い込まれて出てきた魔獣を退治する。
金の針は魔獣の方向を示すものの、血い石を貫くには相応の魔力と目視する必要があり、闇に紛れた現状では未だ使えない。もし投げてしまったとしても投げた本人の手元に戻ってくるので失くす事はないというのは、長い滞在期間中に確認しておいた。
追い込む四人は二手に別れて麦畑に入り、鼠が走り回る草の音を確認しながら、少しずつゼミリアスの待つ広場へと追い込んでいく。時々足元から火が上がるが、班長とエイガストが即座に消火する。
「行ったぞ!!」
小さな黒い影が麦畑から飛び出し、広場でじっと佇むゼミリアスに向かって走る。子供の手のひらに収まるほどの、小さな鼠の魔獣。
羽団扇を正面に構えていたゼミリアスは、鼠が飛び上がった瞬間に羽団扇を引き、魔法の糸を編んで作った網で包み捕らえる。そして胸元で光る金の針に魔力を通して魔獣へと放った。
三人の兵士とエイガストがゼミリアスの元に駆けつけた時には、魔獣は消えて無くなっていた。
後日、兵士たちによって領主と国へ報告がなされた。
焼けた畑にはまだ収穫していない所も含まれていたが、市場に影響するほどの被害はなく、ひとまずは安堵した。
魔人に成り損なった魔獣が人間に打ち倒された。
同じ人間に魔人カルトイネスを討ち倒された。
「エイガスト」
ギヴは、もう二度と呼ぶ事の無いだろうと思っていた懐かしい名前を呟く。
柑橘色の金髪と紫の目をした、大弓を携える青年。幼かった子供が立派な大人になる程の月日が、既に流れていた事を実感した。
しかし出会ったエイガストはギヴの事を覚えていなかった。
忘れてしまったのならば、思い出さない方が幸せならば、関わらない方が良いのだろう。そう考えている頭とは裏腹に、ムルクを倒した後、独りで魔法の訓練をしているエイガストをギヴは遠くから眺めていた。戦闘時とは違って下手くそな魔力の操作に、記憶の中の知っているエイガストが重なり、気づけばエイガストに声をかけていた。
警戒と恐怖と緊張。
エイガストにとって敵でしか無いギヴに抱く感情は、人間として正しい感情だった。
しばらく見合った後に苦し紛れに出した生薬水の話。材料を取りに行くと言って走っていったエイガストの背中を、ギヴは追いかけなかった。きっと戻っては来ない。そう思っていたのに、エイガストは震えながらも律儀に作り方を教えてティーポットまで押しつけてきた。
ギヴは目頭が熱くなるのをぐっと堪えてその場から去る。エイガストがギヴから顔を背けていたおかげで、表情を見られずに済んだ。
日を置かずして、カルトイネスが消えた。周囲の物を手当たり次第に奪いながら肥大していった魔人の一人。
それによって赤紫色の髪と二本の角を持つもう一人の魔人、ランと名乗る女が益々興味を持ち、いつでもいいと言っていた予定を繰り上げる事になった。気づいたら寿命が尽きていた事にしようと、協力するフリで済まそうと思っていたのだが。
誰もいない静かな廃墟の城を出る前に、ベッドで眠る子供の手を握る。離れる時は事前に魔力を与えておかなければ、魔力の少ない人間はすぐに死んでしまう。
「アイゼルト」
眠り続ける柑橘色の金髪の子供の名を呼ぶ。反応はない。
数日後に帰ってきたら、また手を取って魔力を分けて、外の様子を語って聞かせるつもりでいた。
もぬけの殻のベッドを目にするまでは。
即座に周囲に魔力を放って索敵するが、小鼠一匹分の魔力すら捕まらない。焦りと怒りに任せて一度だけ強く踏み鳴らせば、静かな廃墟からどこかの豪華な屋敷の部屋へと切り替わる。
転移の魔法でギヴが現れる事がわかっていたのだろう、ギヴの正面には豪奢な椅子に浅く腰をかけて足を組み、楽しそうな笑みを浮かべるランと、その傍らに立つのは痩せ細り寝乱れた金髪の子供、アイゼルト。
言葉より先にギヴはランに向かって飛び出し、左手のガントレットから伸ばした爪を振りかぶる。それを剣一本で防いだのはアイゼルト。
ギヴの爪を弾いたアイゼルトの剣は、怯んだギヴの左胸を深く突き刺した。
「悪いなギヴ。俺、こっちに付くわ!」
数年ぶりに聞いたアイゼルトの声は、ギヴへの殺意に満ちていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
よろしければ下記の★にて評価をお願いします。
誤字脱字も気を付けておりますが、見つけましたらお知らせください。