034
辺り一面の深い霧に包まれて、動力を失った船が漂流を始めて五日が経過した。
船を取り囲む霧には強い魔力が含まれ、それが蒸気機関のみならず羅針盤をも狂わせた。方角が正確にわからない以上、下手に進む事はできない。
そして魔力に当てられ体調不良を訴えるサディアル国出身者が多い事で、海獣によって霧が発生している事が判明し、恨みを抱いたあの海馬だろうと結論がだされた。
船守のコゥメイや船員のハオも臥せってしまった中でセイが無事なのは、海獣の血のお陰なのだとか。
霧を払うべく乗客の手も借りて風の魔法を周囲に放ったが効果は得られず、ゼミリアスが烏を飛ばして霧の先を偵察するも、まっすぐ進んでいた筈の烏が何度繰り返しても戻ってきてしまう。
伝令係や法使の客が伝信の魔法で、陸の者と連絡を取ろうと試みたが上手く送信できなかった。それどころか水を魔法で生み出す事も難しくなっており、これも霧に含まれる魔力のせいだとするなら、一部に魔力を使用する蒸気機関を動かすためにも霧を晴らさなくてはならない。
目下の問題は食糧。天候などで運行日程が伸びる事もある為、食材はある程度の余裕を持って積載されている。しかし、この船は蒸気機関の燃料も積んでいるため、通常の帆船よりも食糧庫が小さい。船に乗っている全員を賄える量はそれほど多くない。
そういえば漂流を始めてからドーガンの行方が分からなくなっている。食堂に現れる事も食事の配膳を頼まれる事もなかったので船員が部屋に確認に向かうが、散らかった手荷物が残されたまま姿を消していた。
まさかと思いつつエイガストは船尾側の甲板で蝶の硬貨を拾った事を報告、手の空いている船員で調べたところ、僅かな血痕と壁についた魔法による傷跡が発見された。
壁の傷が海馬の放った閃光跡と酷似しており、海獣の犠牲になったのだと結論づけられた。
「いい加減に話して貰えないかな? 僕も暇じゃないんだ」
体調を崩していたハオがセイを呼び出した。
大事な話だろうと看病していたエイガストは出ていこうとしたが、エイガストにも聞いてほしいとハオが呼び止めたものの、言葉にならないのか未だ彼女の口からセイを呼び出してまで話したい事を聞けていない。
「セイさん、そこまで強く言わなくても」
「だってそうだろう。ここに来てからもう随分経つと言うのに、なんで黙ったままなんだ。邪魔をしたいとしか思えない」
「そんなに怖い顔をしてたら、誰でも口を閉ざしますよ」
「それでも今は時間的余裕はないだろ。いつまでも待ってたら干からびてしまうよ」
苛立ちを隠さずに毒吐くセイをエイガストは嗜めつつ、小さくなるハオを気遣う。
「わ…私の……せいなんです」
「詳しく頼むよ」
若干喧嘩気味の二人だったが、ハオが口を開けば互いに口を噤んで耳を傾ける。
ハオは幼い頃に傷を負った海馬のを見つけ、治療の為に何度も会う内に海馬と仲良くなった。
数年後、ハオが漁をしていると海馬が再び現れた。そして再会を喜ぶハオに「久しぶり」だと語りかけた。
海の色を持たない者に海獣が語りかける事は滅多にない。海獣に信用して貰えた事を嬉々としていたハオは、海馬が続ける"お願い"の言葉に二つ返事で了承した。
「友である鯨を探してほしい、と」
人に捕まり陸へと上げられた友の鯨。探したくとも海馬は陸に上がれない。だからハオに頼んだのだと。
鯨の一部という大きな牙を受け取り、その魔力を追って一年、ハオはシルフィエイン国の港街にある造船場に辿り着いた。
「船が完成して、海に出たらもう一度呼んでほしいと言われたので、出港して三日目の夕暮れ時に呼びました……」
「三日目? 七日目の夜ではなく?」
「は、はい。海馬は遠くからこちらを確認した後すぐに消えてしまいました。再会できて良かったなんて、思って……まさかこんな事に……」
自責に苛まれたハオの目からは涙が溢れ、咽び泣きはじめた彼女に寄り添うエイガストは慰めの言葉をかける。
セイはハオの発言に思うところがあるのか、顎に手を当てて思考を巡らせた後、嗚咽を漏らすハオに問いかける。
「海馬はどうやって呼び出した? 道具か、伝信か」
「セイさん……」
厳しい口調のセイを不服な目でエイガストが見たが、セイは一瞥するだけですぐにハオに視線を戻す。ハオはエイガストを制し、嗚咽を殺しながら震える手で服の下に提げていた首飾りを引っ張り出した。
それは小さな楕円の筒に穴の空いた小さな獣笛。耳鳴りの様な感高い音を出して獣を誘導する道具。
セイは笛を受け取り繁々と眺めてから、ハオにもう一度確認する。
「これを海馬が君に渡し、吹いて呼ぶ様に言ったんだな?」
「……はい。間違い、ありません……」
「わかった。君の沙汰は追って報らせる」
「はい……」
立ち上がったセイはエイガストに外へ出る様に目配せる。小さく頷いたエイガストはハオに自分も退室する事を告げる。
泣いて体力を消耗し、まだ万全の体調ではないハオはそのままベッドに横になる。
「少し、寝ます……」
「後でまた来ます。おやすみなさい」
先に退室したセイを追ってエイガストも部屋を出る。
向かう先は会議室としている広間。船員と共に海獣と戦う意志のある乗客にも参加して貰い対策を話し合っている。
「君はどう思う?」
「どうと言われましても…」
廊下を歩くセイが後ろに問いかけるが、エイガストは答えに倦んだ。それでもお構いなしにセイは言葉を続ける。
「彼女が使ったと言うこの獣笛、明らかに人工物だ。野生の獣がこんなものを持っている事が、まずおかしいんだ」
「海馬に笛を渡した人が居る……?」
「もしくは、彼女が嘘を吐いている。理由はわからないけどね」
「彼女を疑っているんですか?」
「当然だろう。彼女は海獣の恐ろしさを知っていて、逃げ道のないこの海の真ん中で呼びだした。鯨の守護がなければ沈んでいたかも知れないんだよ」
「彼女とは数日の付き合いですが、とても親切な方です。悪気があった訳では無いと俺は思ってます」
「そうだね、唯々純粋に海馬を友に会わせたかっただけかも知れないね。だからと言って何百人もの命を、危険に晒して良い訳じゃ無い」
突き放すセイの言葉には怒りが含まれている。動機がなんであれ、ハオは手段を間違えた。
水棲人が海獣を使って船を沈め、多くの犠牲を出したなどと言う悪報が知れ渡れば、良好を保っていた人間との関係に亀裂が入る恐れがある。
「海獣の脅威や周囲への影響を鑑み、単独で行動せず誰かに相談していれば違った方法があったかもね。まァ既に起きた事に、たられば使っても仕方ない。目下の霧をなんとかしないとね」
広間に集まった者たちで話し合った結果、海馬を倒す方向で決まった。
乗り合わせた三人の法使は船の防御に徹して貰い、船内に籠る乗客の保護を担当する。船守のコゥメイとセイは鯨の守護を強化するという。
邀撃は投擲系の武器を持つ戦士と弓を持つ船員で構成され、エイガストとゼミリアスとパールもそこに加わる。
作戦の開始までの休憩中、エイガストとゼミリアスはパールの部屋に訪れていた。
「魔力は平気?」
「はい。今日は殆ど魔法を使ってませんし、魔力補給剤も持ちましたので、前回の様にはならないかと」
海馬と遭遇した夜。エイガストは気づかなかったが魔力が随分減っていたらしく、使いすぎない様レイリスが倹約して防護壁を張った結果、閃光を防ぐ事ができなかった。
今回は十分な魔力があるが、強い防護壁を数回使用すれば同じ事になるだろう、回復手段として魔力補給剤の他にもジャムや飴を忍ばせている。
「エイガスト様、少しよろしいでしょうか?」
「はい。構いませんよ」
レイリスに呼ばれたエイガストは部屋の隅へ移動する。二人は会話を交わしているのだが、側から見ると弓を抱えたエイガストが独り言をしているだけの異様な姿でしかない。
「ボクたちも、レイリスと話、出来たら良いね」
「そうね」
エイガストの魔力を使って作る氷の形で、レイリスと簡単な意思疎通は可能になった。文字の形にして文章を作ろうとした事もあったが、当然長文になるほどエイガストの疲弊が激しく、まともな会話をするにはゼミリアスの魔力を借りなければならない。
余程の重要な事でない限り、今はまだエイガストに代弁して貰っている。
「薬、沢山飲ませる?」
「駄目よ。エイガストが馬鹿になっちゃう」
「それは、嫌」
「でしょう。こればっかりは、エイガストに頑張って貰うしかないわ」
「……パール楽しそう?」
「そう見える?」
「ワ」
出会った頃から射撃の精度は高かったが、戦術や魔法は未熟だったエイガスト。毎日少しずつパールの特訓を受けて、着実に強くなっているのだ。パールが楽しくない訳がなかった。
「物騒な会話が聞こえる……」
背後で交わされる会話に不穏を感じて、エイガストは小さく呟く。そんなエイガストの反応にレイリスは微笑む。
笑われた照れを隠す様に、エイガストはレイリスに話の先を促す。
「何かありました?」
「鯨の事で、少し……」
会議の後、レイリスには"青"を通して船内の情報収集をお願いしていた。
現状に怯える者、憤る者、戦いに向けて勇む者、作戦を練る者。各所で交わされる話の中からレイリスが気になったのは、やはり鯨とセイの会話。
「鯨の友である海馬は数年前に亡くなっているそうです」
「なら、あの夜に現れたのは別の個体ですか?」
「それが、同一であるらしく鯨は酷く混乱しております」
「死んだ海馬が蘇った……それって……」
ゼミリアスを助ける為に、シルフィエイン国でエイガストたちは赤い石や刻印によって動く死体と戦った。
そんな事ができる者の心当たりは一人しかいない。
「海馬の脅威から守るために、鯨は蒸気機関を停止させ、海馬が近づけない様に船を取り囲む霧を発生させました。セイ様とコゥメイ様が霧の解除をする様に説得しておりますが、いまだ応じていません」
「ありがとうございます。二人にはこちらから当たってみます。それから、すみません。盗み聞きなんて真似をさせてしまって」
盗み聞きと言う役割に嫌な顔一つせず引き受けたレイリスに、エイガストの方が少し心苦しく感じていた。
「お気遣いありがとうございます。嫌な事でしたらちゃんとお断り致します。それに……」
「それに?」
「私、いつでもエイガスト様の呼びかけに答える為に、ずっと攲てているんですよ?」
そう言ってレイリスは自分の右耳に触れる。エイガストのその位置には青の魔晶石が飾られている。
エイガストは魔力を通す事でレイリスを視認するが、レイリスは"青"の色である限り見聞きする事ができて、つまりは同じ事をエイガストにもしていると言う申告で、そんな事は分かりきっているのに、改めてレイリスから口にされると意識してしまってエイガストの顔が火照り始める。
動揺を抑える様に片手で口元を隠しながら、エイガストは耳飾りを付けてからの自分の行動を思い返す。余程の醜態は晒してない筈だと思いたい。横目でレイリスを覗き見れば楽しそうに笑う彼女の表情に、エイガストは揶揄われた事に気づいた。
「ですから、その様な表情しないでください。私は大丈夫です」
エイガストを和ますためだとわかれば、揶揄った事を責める事もできなくなってしまった。
レイリスの笑みに弱いと自分でも思いながら、エイガストはまだ少し照れの残る微笑みを返した。
「わかりました。……ありがとう」
「はい」
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