032
出港から七日も過ぎれば、勝手も知り仕事も慣れて初日の様な混乱は殆どなくなり、どの仕事も滞りなく済まされる。
船という限りある広さでは共に働く仲間たちや乗客とも、ほぼ顔見知りばかりになり空き時間には交流をする者もいる。
昼の食堂。ピークを過ぎてもテーブル席はまだ半分以上埋まっている。エイガストは給仕係として従事していた。
「……お呼びでしょうか」
「珈琲を」
今朝、最高級客室から掃除の要望を請けてエイガストが訪れた部屋にセイがいた。この時まですれ違う事もなかったので意図的に隠れていた事は明白で、紫の目の事を探っていたのだろうとエイガストは勘繰る。
姿を現したと言う事は何かに気づいたのか、何も判らなかったのか。
そして現在、セイは昼食を部屋ではなく一般食堂に訪れ、やれ料理の追加だの、やれ水が無くなっただのエイガストを呼びつける。
パールとゼミリアスは今は居ない。他の船員も、貴族と思われるセイから絡まれるエイガストを遠巻きに見守るだけで庇う者はいなかった。
そうこうしている内に交代のハオがやってきた。ようやく逃げられると安堵したエイガストの表情は、唐突に明るくなった。
「交代ですね。では後をお願いします」
「へ、えっ、あ…はい」
「それじゃ僕も行こうかな」
「付いて来ないで下さい」
「出口そっちにしかないでしょ」
ハオに捲し立てて引き継いだエイガストは食堂を足速に出て行く。その後にセイが続く。
「王……?」
圧倒されながら二人の背中を見送るハオの呟きを、耳聡く拾ったセイは僅かに振り向いて口元に人差し指を立て、沈黙の合図を送る。その返事として、ハオは勢いよく頭を下げた。
「どうなってるの……?」
食堂の扉が閉まり、頭を上げたハオの困惑に答える者はいなかった。
セイの目から逃れる為に船員用の休憩室に逃げ込んだエイガスト。部屋にはテーブルや椅子などなく、床板と薄い毛布が部屋の隅に乱雑に積まれている。仮眠や談笑する船員に紛れてゼミリアスが隅っこで膝を抱えて座っていた。
「エイガスト! こっち!」
手を振ってエイガストを呼ぶゼミリアスの隣に腰をかける。ゼミリアスの抱える膝の上には菓子が沢山あった。
「沢山、貰った。エイガスト、食べる?」
「ありがとう。何を貰ったの?」
「えっと、クッキーと、飴と、クーヘンと」
「うん」
包んだハンカチーフいっぱいの菓子。ひとつひとつ、誰から貰った物だと紹介するゼミリアスの話を聞く。
「あとは、蝶々の硬貨」
「うん?」
その中から菓子では無いものの登場に、エイガストの思考が一瞬停止した。
エイガストの様子に気づいていないゼミリアスは、蝶の絵が刻まれた硬貨を手に尋ねた。
「エイガスト、これ、どこの、通貨?」
知らないゼミリアスを余所に頭を抱えたエイガスト。
休憩室は沈黙が訪れ、談笑していた船員までもが呆けた顔でゼミリアスの硬貨を見ている。
周囲の反応にゼミリアスの表情は不安に変わっていく。一度深い溜息を吐いたエイガストが、ゼミリアスの頭を撫でて不安を落ち着ける。
「ごめん、ちょっと驚いた。えーっと、ソレはお客さんから?」
「ワ。三前四号室の、ドーガン」
「そう……。その硬貨は青楼宿で使われるものだよ。夜の相手をする相手に渡すんだ。……その人ゼミリアスの事、男って知ってるよね?」
「ワ。嬢ちゃん、て呼ぶから、男だ、て言った」
「よし。で、硬貨に記されている蝶の数によって、どこまで相手をしてほしいかを示している。一匹だと一緒に食事や会話の相手を、二匹だと抱擁や接吻あたりかな」
硬貨についての入手方法や換金方法を、何故ゼミリアスに説明しなければならないのか。不満が募るとともに機嫌が傾いていくエイガストの声は低くなり、表情はどんどん険しくなっていく。
ゼミリアスの持つ硬貨に記された蝶は三匹。ゼミリアスは顔を真っ赤にして今にも泣きそうな顔をしている。
「……三匹は、どこまで?」
「交接までいく」
据わった目でエイガストがキッパリと言う。
ひゅっと喉を鳴らせ、赤かったゼミリアスの顔がみるみる内に青へと変色する。
「返してくる……」
「俺も行く」
「気をつけろよ、そいつかなり暴力的な奴だって聞いたぞ」
周囲にいた船員達が口々にドーガンについて見聞きした事を話し始めた。
三前四号室のドーガン。酒癖が悪く手荒いため、船娼の間で評判が良くないと言う。船娼でない者に留まらず客にまで手を出そうとした要注意人物で、現在では屈強な男性だけが呼び出しに対応しているという。
二人は休憩室を後にし、ドーガンの部屋へ向かう。ゼミリアスは甲板にいた時にドーガンに今日の夕飯の配膳を頼まれ、何も知らずに蝶の硬貨をただの心付だと思って受け取ってしまったと言う。
ドーガンの意図に気づかずにいたら、ゼミリアスがどんな目に遭わされていただろう。早めに気づいて良かったとエイガストは心から思った。
エイガストは足取りの重いゼミリアスの手をしっかりと握り返して繋ぐ。大丈夫だと言い聞かせる様に。
大商人や成金が利用する、そこそこ値の張る部屋のある階層である三前四号室の前に着き、エイガストは扉を叩いて住人を呼ぶ。ゴソゴソと室内で物音がした後、ゆっくりと扉が開いた。
「あぁ? 何の様だ?」
声を凄ませた中年の男性が酒瓶を手にしたまま顔を出す。顔は赤く酒の臭いがする。
随分と酔っている様だとエイガストが怪訝な目で観察していると、ドーガンはエイガストの後ろにいたゼミリアスに気づき好色な目つきで笑う。
「ぁ……あの……」
「なんだい? 待ちきれずにおじさんに会いに来てくれたのかい?」
「ご、ごめん、なさい。これ、返しにッ!?」
ゼミリアスの言葉が終わる前にドーガンが酒瓶を投げつけた。咄嗟にエイガストがゼミリアスの腕を引いたので当たる事はなかったが、後ろの壁が割れた瓶と溢れた酒にまみれてしまった。
「今更返すだァ?!」
「意味、知らなかった、だから」
「一度受け取っておいて知らなかったで済まねぇんだよ!!」
激昂したドーガンがゼミリアスに向かって腕を伸ばす。その腕をエイガストが強く掴んで止め、反対の腕でゼミリアスを抱き寄せる。
「彼は船娼ではありません。蝶は無効です」
「うるせぇ! 部外者は黙ってろ!」
激怒を超えて無感情ともとれるエイガストの低い声と、掴まれた腕が振り払えずに足掻きながら激しい怒号をあげるドーガン。両者の睨み合い。
「部外者ではありません。この子の保護者です」
「人間がエルフェンの保護者だァ?」
怪訝な表情でエイガストとゼミリアスを交互に見ていたドーガンが唐突に嘲りの笑みを浮かべた。
「フンッ、所有物の間違いじゃッ、ガッ、ア゛」
低俗な発言にドーガンの腕を掴むエイガストの手が、骨を折らんばかりに締め上げる。同時にゼミリアスは大量の魔力が奪われる感覚にエイガストを見上げる。エイガストか、レイリスか、はたまた両方か。魔力の消費量からして氷よりも強力な青の魔法は
「ダメ!」
「はい、そこまで」
割って入った声と、エイガストの手に触れる濃い肌色の手。視線を移せばいつの間に現れたのかセイがいた。
集中が途切れた事で、魔法が発動する前に練り上げられていた魔力が霧散する。
エイガストの手が緩んだ隙に、ドーガンは振り払って腕を引き抜いた。顔色は青い。
「貴様……陸に上がったら覚えてろよ……」
「あなたこそ、ここが海の上だと言う事をお忘れなく」
エイガストを睨みつけるドーガンの視線から隠す様にセイが前にでる。口調こそ穏やかだがその目は笑っていない。
セイは後ろ手でゼミリアスに硬貨を要求。
「この船の鯨はまだ生きています。海獣の腹の中で水棲人に無礼を働けば、いったい如何なってしまうのしょうね?」
流れる様な動きで二枚の硬貨をドーガンの胸ポケットへ納めるセイ。ゼミリアスから受け取ったのは一枚の筈だが。ドーガンは水棲人にも手を出し、セイはその人から硬貨を受け取ったのだろうか。
セイの忠告に怖気ついたのか、フンと荒い鼻を鳴らしてドーガンは乱暴に扉を閉ざした。
「エイガスト、大丈夫?」
「え、あ……うん。行こうか……」
ドーガンを掴んでいた自分の手を見つめたまま放心していたエイガスト。袖を引っ張ってゼミリアスが声をかけてようやく正気を取り戻す。
いつの間にかセイは居なくなっていた。
平静を取り戻したエイガストは、自分がドーガンに向けた感情と行動を思い返して恐怖を抱く。
手の震えが止まるまでエイガストはゼミリアスの手を繋ぐ事が出来なかった。
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