第92話 魔王、復帰する
灰色の世界。
風は流れず、灰は落ちず、音すら消えた。
異常。
その世界の中心で、巨大な肉塊となった魔王が顫動している。
異形。
表面に浮かび上がった髑髏めいた兜の眼窩から、赤い涙が流れ出る。
異常循環し、膨大に膨れ上がった魔力が溢れ出ているのだ。
『ここは静止した世界』
口も無いのに聞こえる言葉は、妙にクリアなものであった。
答える者はいない。
なぜならば、
『膨大な魔力をもって、我はこの静止空間を作り上げた。全ての時の流れが静止した世界。完全なる我だけの世界。我が魔王たる故。我が魔王として君臨するに相応しいチカラ』
何ということだろうか。
膨大なまでに膨れ上がった魔力を糧とした魔王の魔法は、とうとう時すら止めてしまったのだ。
全てが静止したモノクロの世界に、色付く者は魔王のみ。
リリアもまた色味を失い、動きを止めていた。
『なんと美しき世界か』
魔王の表面がもぞりと蠢き、ワームめいた肉棒が伸びた。
まるでそれ単体が意思をもっているかのよう。
うねりながら這う。
『我はおぬしの魔力を啜り、進化したのだ』
向かう先には、眩しそうに手をかざしたまま静止するリリア。
魔王とて時間静止には抗えないというのか!
『古き魔王に引導を渡し、牙の抜けた魔王を退け、我が君臨する』
ワームめいた肉棒の先端が四方に裂けた。
そこを起点とし、光が集まっていく。
『さらばリリアーヌ。さらば姫様。さらば魔王。そして、おはよう。私』
閃光が泡沫めいて弾けた。
魔力の熱線が地面を穿つ音すら、この静止世界では聞こえない。
光が引いた後には、ただ巨大なクレーターが残るのみ。
『超えた』
とても――
『我は魔王を超えた』
とても満足した声であった。
『我は、我こそが魔王なり』
この静止世界での、戦いとも呼べぬ一方的な勝利。
勝利を語ることができるのは、魔王ただ1人のみだ。
「ほぅ。使い魔のくせに少しは腕を上げたようじゃな」
そう――魔王ただ1人のみ。
つまり、リリアのみである!
『おおお……おおお……!』
一転、使い魔が呻いた。
側頭部から悪魔めいた角を生やしたリリアが、腕組仁王立ちをしているのだ!
『あるわけがない。このようなこと……あるわけがないッ!』
狂気に飲まれながらも――仮にも魔王を名乗る者として、芽生えた1つの感情を押し殺すように。
『静止世界に、我だけの世界に貴様がいるなど……あるわけがなあぁぁぁぁあいッ!』
畏怖。
塗りつぶすように幾条もの光線を放つ。
灰色の世界が光に飲み込まれ、重力障壁がそれを飲み込み、圧し潰し、光の粉へと還す。
金色の髪が靡き、真っ赤な舌がちろりと唇を舐めた。
「これは重力制御魔法を扱う者としての初歩じゃが」
もちろんリリアは健在。
逆に猛烈な魔力の増加と重力変動が起こる!
彼女の髪が、重力に逆らうように逆立った。
「巨大な重力の中では時の流れは遅くなる。限りなくゼロに近くなる。そして、いかに魔法とて時間の静止などありえない。ならばワシがこの静止世界の中を動けるのも、至極当然のことではないかや?」
『リリアァァァァァァァヌ!』
魔王の頭上に巨大な火球が膨れ上がる。
彼の身体よりもなお大きく、さながら太陽めいて陽炎を放つ。
だが!
「魔王の御前じゃぞ。頭が高くないかや?」
リリアは跳躍!
重力制御魔法により、その小さな身体は地上約数百メートルまで上昇。
さらに漆黒の重力球で、リリアは自分の身体を包み込むと、回転しながら猛烈な速度で急降下!
いや違う!
見よ! リリアの右足は、真っすぐ使い魔に向けられている。
これは超高高度からの飛び蹴りだッ!
空気との摩擦により重力球表面が赤熱。
黒と赤が混ざり合った末、流星めいた白光となる!
『AGRHHHHHHHH!』
使い魔はリリアを迎撃すべく、極大の火球を放つ。
さらに夥しい魔力のほぼすべてを使い、守りの魔法も生む。
地平の彼方まで覆うような魔法陣が生成された。
しかし、無意味!
人知を超えた魔力と魔力が激突する!
リリアのキックは魔法陣を貫き、
火球を貫き、
そして使い魔を貫いた!
BTOOOOM!!!
灰色の世界が端から崩れていく。
世界が色付いていく。
時の流れが元に戻ったのだ
煙が晴れる。
そこには使い魔の姿はなく、仁王立ちするリリアのみ。
彼女の身体が、がくりと傾いた。
リリアもまた静止した世界で動くために、魔力のほぼ全てを消費してしまったのだ。
「たわけ。魔王は、である者ではない。する者じゃ」
片膝をつくリリアの呼吸は荒い。
「ワシは魔王として、魔族や混沌の眷属が安心して暮らせる土地を作ろうとしたまでじゃ。それが、魔王がすべきこと。戦など、その過程でしかない」
視界がスパークする。
しかし、倒れはしない。
魔王の矜持が無様に倒れることを許さぬ。
リリアは今にも泣き出しそうな顔で、言う。
「それすら理解できぬ者が魔王など、王を称するなど片腹痛いわ!」
『かもしれない』
疲れきった声がした。
リリアはゆっくりと視線を上げる。
灰褐色の鎧をまとった――使い魔が片膝を付いていた。
『私が王を名乗るなど……過ぎたるもの』
無事、ではない。
使い魔の身体は、その端から塵となって崩れ始めていた。
「たわけ。使い魔が主を裏切り、なおかつ主にとって代わろうなど、前代未聞じゃ」
リリアの肩が小さく揺れる。
「たわけ」
もう一度言った。
『姫様の使い魔ですので』
今にも消えそうな蝋燭。
使い魔を表すならば、その言葉が一番合っていた。
腕が崩れ、足が崩れ、彼という存在が消えていく。
リリアはゆっくりと腰を下ろした。
「戦に破れ、皆を失い、ワシは流れ着いた土地で土地神となった。そしておかしなことに、その土地からも追い出されてしまった」
自嘲めいた笑みが浮かぶ。
「だからワシは復帰した。魔王に」
使い魔の身体はすでに塵芥となり、もう髑髏めいた兜のみとなっていた。
「理不尽な追放はこりごりじゃ。ワシは魔王として、今度こそ理想郷を作る。おぬしは上から見ておるがよい。部下のスカウトに奔走するワシの姿をな」
『そう……ですね……』
兜に無数のヒビが入った。
最期の時が訪れた。
『だが――姫様、今の貴女が魔王として相応しくないのは事実ッ! 混沌の神々より祝福を受けし者なら、潔く散るがよい!』
一転、髑髏めいた兜が弾け、内より触手がリリアへと伸びる!
リリアは瞠目した。
「このたわけがッ!」
『我に残った魔力を全て使い、共に爆発四散して魔王の名を永遠にしようではないか!』
突然膨れ上がる魔力!
使い魔は異常循環により増幅した魔力で超臨界を起こし、全てを吹き飛ばさんとする。
普段のリリアならばどうということではない。
重力障壁で防ぐだけだ。
しかし、今の消耗しきったリリアに、それを躱す術はない。
「ひっ!」
とっさに目を瞑ったリリアは、身を守るように手で頭を抱え――
「死ぬなら自分だけ死ね。うちの姫様を巻き込むな」
2人の間に割って入ったのは、マフラーめいたボロ布を首に巻いた男。
レイダーである。
『ああ……ッ!』
触手が絡みついたのは、レイダーの左腕だ!
レイダーはリリアを押しのけ、自分の背に隠れさせると――触手に、乾燥薬草の火を押し当てた。
「クソ野郎が」
『貴様あああああああああああッ!』
超臨界を迎えた魔力による大爆発が、ビスコッティ平野を地図から消した。




