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玉葉物語  作者: 財布を忘れて愉快なオーストリア大公妃
前日譚「竹の園生の御栄え」
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第三話「竹の園生の御栄え」

「竹の園生(そのう)御栄(おんさか)え」

太平記(たいへいき)』巻第十八によれば、逆賊(ぎゃくぞく)として語られる足利尊氏公からお逃れになった後醍醐(ごだいご)帝におかせられては、大和国(やまとのくに)は吉野くんだりへの潜幸(せんこう)の道すがら、賀名生(あのう)という山里(やまざと)行在所(あんざいしょ)をお設けになった。その里に至られるまでには、真っ暗闇でとてももう先へと進めそうになくなってしまわれた夏の夜に、にわかに春日山から金峰山(きんぷせん)(みね)まで松明(たいまつ)のような光が飛び渡って、天地が夜もすがら明々(あかあか)と照らされた――という摩訶(まか)不思議(ふしぎ)きわまる出来事がおありだったとのことである。振り返ってみれば、あの夜の何とも(あや)しげな光も蛍火も、きっとそのような瑞光(ずいこう)(たぐい)であったのだろう。

 永寧朝の椒房(しょうぼう)におかせられては、天女(てんにょ)とはこのような女性であるに違いないと思われるほどお人柄もご容姿も並外れて優れていらっしゃったけれども、まったくの平民(へいみん)家柄(いえがら)にお生まれになったし、信じる者はほとんどいないだろうからと肝心のお馴れ初めは一切伏せられていたので、入内(じゅだい)に際しては、とりわけやんごとなき旧華族の間にはご不満も少なからずおありだったのだが、さりとて彼らの中にわが娘や孫娘に火中の栗を拾わせたい、我こそが国母(こくも)になりたや、というお方は誰一人としておいでにならなかったから、最大の庇護者でいらっしゃった安化天皇が身罷られてもなお、立后(りっこう)への道を(はば)むものは初めのうちからほとんど何もおありではなかった。

 また、平安朝の古とは異なって一夫一妻(いっぷいっさい)の世であったので、どんなに内裏(だいり)のご寵愛(ちょうあい)を深くお受けになっても、あの『源氏物語』の桐壺更衣(きりつぼのこうい)がひどく苦しめられたような後宮(こうきゅう)の女人たちの(ねた)みや(そね)みを一身にお受けになるようなことがなかったばかりか、みなが思わずオーストリア・ハプスブルク家[1]のかの「女帝」マリア・テレジアをば連想してしまうほど数多(あまた)の皇子女がこのお方からご出生になったし、何より、ご成婚の経緯をつぶさに知る宮内庁職員の間では、神がお選びになった皇后だと信じられていたから、皇太后(こうたいごう)(たい)皇太后もおいでにならない宮中(きゅうちゅう)におけるお立場はむしろ、もしもお望みになったならば上古(じょうこ)神功(じんぐう)皇后のようなお振る舞いですらも不可能ではないかもしれないと思われるほど、いささかも揺るぎないものであらせられた。


「もしも今上陛下のお目に留まったのが私だったなら、私は皇太孫妃になることを決心できたであろうか――。笑顔の皇后さまがテレビにお映りになるたびに、そう考えずにはいられないし、そんな想像をするたびに、十指(じっし)がぶるぶると震え始める。親王さまがお一人もお生まれにならなかったなら、そこで皇室はお仕舞(しま)いということになっていたかもしれないのだから……」(「お(きさき)候補」だったお一人、徳川寿賀子(すがこ)の手記より)


 それにつけても皇后陛下に対せられる永寧の帝のご寵愛ぶりと申したら、まさに山よりもお高く、海よりもお深いものでいらっしゃった。遠く異朝を(とぶら)えば、十九世紀のオランダにウィレム三世という王がいた。この王は、六十三歳という高齢になってから儲けた幼い王女ウィルヘルミナ――後の第四代君主・ウィルヘルミナ女王――を溺愛のあまり片時も離そうとしなかったので、王宮の政務の間がまるで王女養育所のようになってしまったという。そんな状況に初めのうちは困惑することしきりだった大臣たちもしばらくすると慣れて、玩具がどこにも見えない日には、

「もしや王女殿下にはご体調がお宜しくないのでございますか」

 などと、かえって心配し始めるようになった[2]そうだが、永寧の帝のご寵愛ぶりは、そんなウィレム三世の逸話でさえもまったく霞んでしまうほどでいらっしゃった。

 帝の父君にあたらせられる後陽光太上天皇には、ご生前、最愛の妃殿下の御ことを『竹取物語』のかぐや姫なのではないかと月見の和歌の中でお疑いになったことがおありだが、永寧の帝におかせられては、お写真の中の母君をご覧になっても、

「確かにたいそうお美しいお方ではあるけれども、長秋宮(ちょうしゅうきゅう)のほうがよほどにかぐや姫と呼ぶにふさわしい」

 と心からお思いになった。そんな帝には、皇后がいずれはかぐや姫のように月かどこかに帰ってしまうのではないか、というご心配がおありだったに違いない。お若くして践祚(せんそ)なさった時、すでにご肉親がただのお一人としていらっしゃらなかったがゆえのお寂しさもあるのだろうが、

「いかなる時にも長秋宮の姿が(かたわ)らに見えなければ、朕はどうしようもなく不安な気持ちになってしまうのだよ」

 と常々(つねづね)ご周囲の者どもに仰せになり、実際、内閣より奉上(ほうじょう)される書類の山に御名御璽(ぎょめいぎょじ)をお(たまわ)りになる際にも、

「皇室典範によると、万が一にも朕が(やまい)の床に()したる時には、皇族が摂政なり国事行為臨時代行なりに就任することになると決まっている。そんな時のために天皇の仕事というものを見学させておいて不都合はないであろう。そして今、その資格があるのは長秋宮しかいないのである」

 などとお言い訳のように仰っては、宮殿の表御座所(おもてござしょ)にまで常日頃から皇后陛下をお伴いになった。このご寵愛ぶりは、御子がお生まれになってもいささかもお変わりにならなかった。やがて東宮殿下――のちの寛恭(かんきょう)天皇――が御年十八のご成年に達せられて摂政就任順位第一位とならせられても、表御座所にお伴いになるのは依然として皇后陛下ただお一人なのであった。


 皇后陛下には、とりわけお若い頃にはほとんど毎年のように一年の大半を身籠(みごも)った状態でお過ごしになっていらっしゃった。帝におかせられては、ご年少の頃から、朝家を存続させねばならないという責任感を強くお抱きでいらっしゃったが、その一方で、ご自身がお生まれになった折に母君を亡くされたがゆえにお産を少々お怖がりになるところがおありで、第三皇子がお生まれになった直後には、これで満足せずにできるだけ多く産みたいと仰った皇后陛下をお気遣いになって、

「皇室の安泰のためにといって、無理をしてまで大勢産もうとしなくてもいいのだよ」

 と仰せになったこともおありだった。しかし、皇后陛下にはその聖慮(せいりょ)に対せられ、

「できるだけ多く産みたいと私めが申し上げましたのは、恥ずかしながら皇室の御為にと申しますよりは、愛する人の子を一人でも多く産み育てたいという、浅ましい女心からのものでございます」

 とお返事をなさったので、帝におかせられては、伊邪那美のように皇后が出産により落命してしまう時がいずれ来てしまうのではないかという恐れをお抱きになりながらも、子沢山でありたいというのが皇后の心からの望みであるならばそれに沿いたい、とお考えになったのだった。

 子は天からの授かりものにほかならず、どんなに高いご身分の人であろうとも、どれだけの人数が欲しいと願ったところで望みのままに叶うものではないから、結果として両陛下の間に二十三方もの御子がお生まれになったのは、やはり前世での(えにし)もよほどに深いものがおありだったということなのであろう。

 伝説によれば、古代アッシリアの都市カネシュの女王は合計で六十人もの子を産んだという。最初の三十人の王子は、産んだものの育てきれずに全員をまとめて川に流すことにしたそうだが、畏くも永寧の皇后陛下におかせられては、お産みになった大勢の殿下方をお手許にて見事にお育てになって、世の人々をして驚嘆せしめられた。

 それまで日本の国は、財力に余裕がある者どもでさえもあまり子を持とうとしないがゆえの少子化に長らく悩ませられていたが、両陛下が煩わしそうなほどに大勢の御子をお持ちになりながらもたいそうお幸せそうなのを拝見した民草は、羨ましく思って皇室に倣おうとした。神話によると、黄泉の国から葦原の中つ国へと逃げ戻り給うた伊邪那岐命に対せられ、置き去りにされ給うた伊邪那美命には、

「愛しい人よ、こんなひどいことをするのならば、私は貴方の国から一日に千人の命を奪いましょう」

 と仰せになったが、伊邪那岐命にはこれに対せられ、

「愛しい人よ、それならば私は産屋を建てさせて、一日に千五百人の赤子を産ませよう」

 とお応えになったという。そんな神話があるにもかかわらず、民草の数はしだいに減る一方であったのだが、永寧帝の御宇(ぎょう)を境に、神代の記述にあるがごとく再び栄えるようになった。後の世の人々が永寧の御代を「聖代」と称え奉るのは、ひとえにこれがゆえのことである。


 さて、両陛下の間にお生まれになった殿下方におかせられては、どなた様も皇后陛下のお血を色濃くお受け継ぎになってご容姿がたいへんに優れていらっしゃったので、ほんの一目なりともそのお姿を拝した世の同年代の男女は、あらゆることが手につかなくなってしまったとみえるほど、みな夢中になってしまった。両陛下が十六方もの親王殿下をお儲けになったおかげで、女人にとっては入内(じゅだい)の敷居がかなり低くなったし、何より、まともな人にまともな思考をできなくさせてしまうほどのお美しさであらせられたから、宮輩(みやばら)、すなわち「宮様」とお呼ばれになる親王、内親王の方々におかせられては、お一人の例外もなくはやばやとご結婚なさった。

 皇女殿下のお相手の中には、ご母堂(ぼどう)がかつて皇太孫時代の陛下のお妃候補のお一人と目されていらっしゃったという旧堂上(どうじょう)家の殿方(とのがた)もおいでになった。そのご母堂のご尊父(そんぷ)、つまり内親王殿下の義理の祖父となられたさるご老公(ろうこう)などは、

「またしても完全なる平民階級からの立后か。御皇室とその藩屏(はんぺい)たりし我々の血縁は薄くなる一方ではないか」

 とご不満を公然と述べていらっしゃった過去がおありだったが、そんな在りし日のお姿はどこへやら、皇女腹(みこばら)の曾孫様のことをたいそうご寵愛になるがあまり、

「お(かみ)が皇后さまをお選びになって本当にようございました。万が一、私の娘が選ばれていたら、あのお美しい皇后さまのお血を当家に迎え入れることなど叶わなかったでしょうから。いかがです、この可愛らしさ! 曾祖父の欲目(よくめ)で可愛く見えるだけではないはずです」

 などと、よちよち歩きの曾孫様をお連れ回しになりながらあちらこちらでご自慢なさったから、人はああも変わるものなのかと旧華族の親睦団体「(かすみ)会館(かいかん)」はしばらくの間、その話題でもちきりになった。

 大家族に生まれ育った子が、(ちょう)じて自身も子福者(こぶくしゃ)になるということは、身分の貴賤を問わず古今東西に多くの例があるが、それは皇室とて例外ではありえない。皇子殿下方はみな、父帝(ちちみかど)ほどではないにしても八方、九方と多くの御子をお持ちになり、皇孫殿下方もまた同様でいらっしゃったので、永寧の大御代になって四十年ほども経つと、『皇統譜』に新たな皇族のご誕生が登載(とうさい)されない年がほとんどないというありさまが続くようになって、民草の喜びは尽きることがなかった。


「むらさきの雲よりふりし雨ゆゑに 池はかへりて(かり)の鳴くなり(昔、梁の孝王の苑に「雁池」という場所があったことから、親王のことを「雁の池」とも呼ぶけれども、ほとんど枯渇しかけていたその池が紫の雲のおかげですっかり元に戻って、雁の鳴く声が絶えないなあ)」――永寧四十五年、御製


 平安の古、人皇第七十二代・白河天皇におかせられては、中宮の藤原賢子をすこぶるご寵愛になったそうだ。『宇治拾遺物語うじしゅういものがたり』によれば、この中宮が危篤(きとく)にならせられても禁裏(きんり)からの退出をお許しにならず、今生の別れの際にはその亡骸(なきがら)をお(いだ)きになって、なかなかお離しにならなかった。それは未曽有(みぞう)のことでございますから、と源俊明(みなもとのとしあき)卿より退出を促せられ給うや、

「例は此よりこそ始まらめ」

 と勅答なさったということである。長い歴史を紐解いてみると、朝家にはこのようにたいそう仲睦まじいご夫妻が大勢おいでになったものだが、それでも、永寧の両陛下ほどのご夫妻はやはりいらっしゃらなかったに違いない。

 東宮殿下に御位をお譲りになってから久しい宣文(せんぶん)四年の三月のとある昼下がり、お揃いで宝算百十一の皇寿(こうじゅ)を奉祝され給うたばかりの永寧の両陛下におかせられては、

「春の陽気に誘われて、眠たくなってしまったよ。少し横になろうかな」

「それでは陛下、私もお供いたします」

 と、毎夜ご寝室でなさっているようにお手を繋ぎ合わせられながらお昼寝をなさり、そのままお二人とも二度とお目覚めにならなかった。その長いご生涯の中で両陛下はたったの一度も夫婦喧嘩をなさらなかったそうだから、それだけでも仲睦まじさがよくわかるというものだが、最もよく仲睦まじさが現れているのはお二人の御陵(みささぎ)である。

 史書によると、歴代天皇の中でも宣化(せんか)天皇、安閑(あんかん)天皇、天武(てんむ)天皇のお三方の御陵は、皇后との合葬であるという。故院(こいん)には、ご在位のみぎりからこれを先例としての合葬を強くお望みになっていて、そのご希望の通りに葬られ給うた。ただでさえ数が少ないうえに千数百年ぶりという極めて異例なことであったが、そのお三方の皇后と申し上げるのはどなた様も(きさき)に立てられ給う前からとても貴い皇女の御身でいらっしゃったから、竹の園生のお生まれではない紫の雲としては前代未聞のことなのだった。

 崩御から程なくして『永寧天皇実録』の編纂事業が始められたが、これに携わった学者どもはみな、発見されたばかりの故松平頼彦元侍従長の個人的な日記を机の上に開きながら、

「百十一歳まで長生きなさっただとか、同日にお生まれになった神明(しんみょう)皇后も同日の同時刻に崩御なさっただとか、周知の事実を書くだけでもまるで初期の天皇のような雰囲気になってしまうというのに、こんな伝説めいたことを盛り込んでしまえば、後世の人々は『永寧天皇実録』を史実と異なる物語としか見なさないだろう。あるいは、永寧天皇の実在性すら疑わしく思うかもしれない――」

 などと、とてもそのまま事実だとは考えがたい先后・神明皇后についての記述に頭を悩ませることしきりであった。

 神明皇后の本当のご出自は、とうとう何も明らかにならなかった。皇后が本当に人かを疑う者すらあったが、そもそも初代人皇・神武天皇の御祖母君にあたらせられる豊玉姫(とよたまひめ)の真のお姿が八尋(やひろ)の大和邇(わに)であらせられたことを思うに、たとえご正体が何であろうとも大した問題ではないに違いない。一部の者が噂したように玉藻前の再来だとすれば、狐は多産な動物であるから、永寧天皇が御子に恵まれ給うたのもそう不思議なことではないのだろうが、もちろんこれは憶測でしかない。もしもそうだったにせよ、立后以来、崩御に至るまで何一つとして瑕疵のない、間違いなく史上稀なるご立派な皇后でいらっしゃったのだけれども、そのお振る舞いさえもが妖狐の奸計(かんけい)のうちだったということがはたしてありえるものだろうか。

 栄枯盛衰(えいこせいすい)は世の習いであり、歴史が示しているように、朝家とてその例に漏れない。永寧の大御代を契機に、竹の園生は大いに栄え給うた。そんな聖代が六十年目を迎える頃になると、有識者の中からはごくわずかに、

「皇族に対して国家がその保障をして差し上げる経費がずぼらにどんどんふえてくるということでは、皇室に対する国民の尊敬というものにもひびが入る危険が将来あると私は思う」

 と言った受田新吉と同じような不安を抱き始めた者も現れるようになったものの、寛恭、宣文と二度の御代替わりを経てもなお民草のほとんどは気にしなかったのだが、それも(あま)(えだ)の方々の共通祖先たらせられる永寧天皇が上皇としてしばらくはご在世でいらっしゃったからこそなのだった。

【脚註】

[1]余談ながら、旧オーストリア皇室であるハプスブルク=ロートリンゲン家は、男系継承と一夫一妻制を守りながら数百人規模になっており、頻繁に誕生や薨去があるため、当主ですら一門の正確な人数を把握できないという。同家ほどではないがリヒテンシュタイン家なども同様の継承制度のもとで相当に繁栄している。

[2]博文館『世界之帝王』より。

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