第二話(二)「御代替わり」
「御代替わり」
賢所のすぐ北に「梅の島」と呼ばれる梅林があり、そこには十二月下旬から咲き始める「八重寒紅」という早咲き種が植えられている。安化の帝におかせられては、一月三日の元始祭などの折にその芳香が漂ってきたとしても、それほど興味をお抱きにならないご様子であらせられたけれども、梅の花すべてに無関心というわけではいらっしゃらなかった。
安化四十五年三月のとある昼下がり、畏き辺りには、宮殿の表御座所でのご執務を終えられて吹上御所にお戻りになるや、そのままお庭のほうに回られた。
多くの梅が芳しい匂いを周囲に漂わせながら咲き誇っている中、帝には、それほど花付きが良いとはいえない一本の梅の前でお立ち止まりになって、しげしげとご覧になった。それはかつて、花好きでいらっしゃった皇后宮とご一緒に、皇太子迪仁親王の誕生記念にとお手植えになったものであった。およそ十年前に崩御あらせられた皇后宮の御ことをふと懐かしく思し召した主上には、はらりとお涙を流され、こうお詠みになったのだった。
「これのみが花とぞおもふ弥生かな 憂しとみし世ぞいまは恋しき(みなに「御所の花」などと称えられた貴女がいなくなってしまった今や、皇居の花といえば、貴女と共に植えたこれしかないと思う三月だなあ。辛かったあの頃も、今となっては恋しいものだよ)」
やがて、その梅の枝に一匹のウグイスが留まって、ホー、ホケキョ、と心地よい鳴き声を上げた。このように鳴くものはすべてがオスで、鳴く理由はメスへのアピールか自分のナワバリだと唱えているかのどちらかだそうだ。生物学者でいらっしゃる帝におかせられてはもちろんその習性をご存じで、他の梅ならばともかく、その梅をナワバリだと言われるのは何となく嫌だと思し召して、
「これ畜生め、いくら鳴いても無駄だぞ。その梅は朕のものだ。もっと綺麗に咲いているのだから、鳴くならばあっちの梅に行くがよい」
と、お戯れ混じりにウグイスに対せられて玉音をお発しになった。
ところで、御年十七でいらっしゃる皇太孫殿下におかせられては、お年頃であらせられるので、想い人と逢瀬を重ねることがなかなかおできにならないことがお辛いご様子でいらっしゃったが、それだけに、たまの休暇などに蛍の君が参内なさった時には、愛しいというお気持ちを人目もお憚りにならずに表に出してしまわれた。
帝が思い出の梅を涙ながらにご覧になっていたまさにその時、殿下には、春休みにはるばると上京してこられた蛍の君を、その手をお取りになって御所の庭までお連れになろうとなさっていた。ほどなくして、大御宝に対せられるいつものお姿からは想像もつかない主上のお戯れを思いがけず目の当たりにされたので、お二人はくすくすとお笑いになった。そして殿下におかせられては、
「おじじさま、そちらではなくメスへのアピールかもしれませんよ」
そう仰せになるや、
「いくら鳴いても無駄だよ、この子はもう僕のものだから」
と、お繋ぎになったままの手をぐいとお引きになって、勢いよくお胸の中に飛び込んできた蛍の君をお抱き締めになった。
「きゃあ! で、殿下――」
そう声をお上げになった蛍の君は、しかしまんざらでもないご様子で、真っ赤になってしまった麗しいお顔を、そのまま皇太孫殿下のご胸中にお埋めになった。そんな蛍の君をこの上なく愛おしく思し召した殿下には、そこが御前であることもお忘れになって、さらにそのお耳にそっとお口づけになったのだった。
これを見せつけられ給うた主上におかせられては、これが本当にあの恋愛に奥手だった允宮の子なのだろうか、などと今さらながらお思いになった。しかしすぐに、この孫の性分はどうやら他でもない自分に似てしまったらしい、とひどく恥ずかしく思し召した。お若い頃に皇后宮に対せられ、父帝・文始天皇の御前であるというのに同じようなお振る舞いを少なからずなさったことを思い出されたのである。
「しかし、よくよく考えてみるとお父さんとお母さんもこんな感じであったと聞いたことがあるなあ」
このように、帝にはここ数年、何かにつけて過ぎ去りし時をお懐かしみになることが多くなった。すでに宝算八十四とご高齢にならせられていたが、夜にお休みになる時にご覧になる夢の中では、ご幼少の頃にお戻りになっていて、それを不思議にも思わずに先々帝の皇后でいらっしゃった祖母君とお遊びになるということさえ、しばしばおありだったのである。
末法の世となってから久しかったからであろうか、帝ですらもここ数代はほとんど信仰心をお失いになっていた。ことに安化の帝におかせられては、あたかもオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世――共和派により銃殺刑に処された弟のメキシコ皇帝マクシミリアーノ一世、愛人の一人である男爵令嬢と情死するという「マイヤーリンク事件」を起こした皇太子ルドルフ、旅先のスイスで暗殺された美貌の皇后エリーザベト、そしてサライェヴォでセルビア人の民族主義者が放った銃弾に斃れた甥のフランツ・フェルディナント大公など、近親者に相次いで先立たれてしまったことから世界史上稀なほどの悲劇にまみれた君主として知られ、作家のヨーゼフ・ロートが小説『ラデツキー行進曲』の中で、
「彼の身のまわりを死神が円を描いて徘徊し、次々と刈り取っていった。すでに畑全体が刈り取られて裸になっていたが、皇帝だけは、忘れられた一本の銀色の茎のようにいまだに立っていて、待っているのだった」
と書きさえした――のように、ご家族を次々と亡くしておいでだったので、神も仏もあるものかと公然と仰せになるほどに、とりわけお年を召されてからの信仰心の薄さは歴代天皇でも際立っていらっしゃった。
しかしそんな帝が、蛍の君と出会われてからは、まるで人がお変わりになったかのように神仏を篤くご信仰にならせられたので、宮仕えの人々の驚きは並々ならぬものがあった。皇太孫殿下と蛍姫が揃って御年十八のご成人をお迎えになった安化四十五年の秋の暮れ、宝算八十五とならせられていたこの帝には、
「皇太孫承仁親王が妃を迎えてから、そう遠くないうちに三種の神器を譲り渡したい」
との叡慮をお示しになったが、これを聞き及んだ宮中の人々がみな、御位をお降りになるのを機にご落飾あそばされて何百年ぶりかの太上法皇にならせられたとしても少しも不思議なことではないとさえ思ったほどだった。侍従たちの中には、
「平安の昔、中宮の篤子内親王がご落飾なさった際には、その側近の女房も同心出家をしたという話だ。やはり我々もその時が来たら、お上に従って剃髪したほうがよいのだろうか」
などと本気で案じ始める者まで少なからずいたくらいである。
だが、そんな心配は程なくして新たな心配事の陰に消えてしまった。その年の瀬から年明けにかけての厳しい冷え込みのせいであろうか、安化の帝におかせられては、ご譲位の話が具体的なものになる前に、にわかにご体調を崩してしまわれたのである。それからはみるみるうちに、まるで皇太孫殿下のご成人まで皇位をお守りになるという、ただそれだけのために生き永らえてこられたかのように、お一人ではもはや起き上がることすらもおできにならなくなるほどに玉体が弱ってしまわれて、
「どうやら可愛い孫たちの婚儀を見届けることはできそうにない。立太孫の礼すら、まだ挙行できていないのに」
とご病床でひどくお悲しみになったけれども、その一方で、ご成人されてからまだ間もないというのに摂政宮として国事行為をはじめとする諸々の政務をつつがなくご代行なさる皇太孫殿下の御ことを、たいそう頼もしくも思し召した。
日々ご多忙とならせられた摂政宮殿下のお代わりとして、蛍の君には、かいがいしく主上のほとんどすべてのお世話をなさった。いったいいつお休みになっているのかも知れないほどでいらっしゃったが、それを拝見した人々はみながみな、光明皇后――聖武天皇のお后で、施薬院で庶民千人の垢をおんみずからお洗い落としになったと正倉院の『東南院文書』などに伝えられる――のお姿はきっとこのようであったのだろうと思った。かつて蛍の君を玉藻前の再来ではないのかと疑った人たちも、
「明代の『五雑組』によると、千年を生きた狐は天に通じて人を魅すことがなくなり、ほとんど神にも等しくなるという。石に封印されている間に長い時を過ごしたことで、そのような存在になったのだろうか」
と、この頃には本気で考えるようになっていたのである。そして誰もが、次代の皇后にならせられるのがこのお方で本当に良かった、と改めて感じ入るとともに、皇后としての蛍の君のお姿を主上にも仙洞としてご覧になっていただきたい、と帝のご快復を願い奉ったのだった。
安化四十六年の三月中旬、帝におかせられては、天下の民草がこぞってご健康とご長寿を乞い願い奉ったのもむなしく、聖寿八十五でとうとう崩御あらせられた。黄泉比良坂にお入りになる五日前までご意識はお確かだったが、朝家のこれから先のことについては、もはやいささかも憂えていらっしゃらないご様子であった。
「なほ寒き花も匂はぬ九重に いまや鳴くらむうぐひすの声(まだまだ寒く、いまだ梅の花のあのかぐわしい匂いも感じられないけれども、きっと今頃、御所[2]の庭では「春告鳥」とも呼ばれるウグイスが鳴いているのだろうなあ。他の場所では早いと言われるのかもしれないが、皇室の春は、もうとっくの昔に来ているとわかっているのだから、これから告げに来るのでは遅すぎるよ)」――安化四十六年一月中旬、御製
新たな御代となってから一か月と少しが過ぎた永寧元年四月末、宝算十八とお若い帝におかせられては、先の帝たらせられる御祖父君に「安化天皇」と追号をお贈りになり、また、時を同じくして御父君たらせられる故迪仁親王にも「後陽光太上天皇」とご追贈になった。
一年間の諒闇が明けてから日が浅い永寧二年三月の中旬、新帝におかせられては、蛍の君をお連れになって御所のお庭をしばらくご散策になった。蛍の君には、件の梅がぽつぽつと花を開かせているのをご覧になりながら、
「先帝陛下があのように大切になさっていたものでございますから、ずっと大切に守っていきましょうね」
と仰った。帝にはこれに対せられ、
「今ならばまだ考え直せるのだよ。皇族の妃から始めて徐々に慣れていくのではなく、いきなり皇后から始めるというのは、ごくわずかしか例がないことだけれど、とても過酷な道になると思う。――本当に、それでも僕と結婚してくれるのかい」
とお尋ねになった。
「はい。何も存じ上げない身ではございますが、懸命に陛下のお側で学んでまいりたいと思います――」
ちょうどその時、二羽のウグイスがどこからともなく飛んできて、御前の梅枝に留まったかと思えば、前後に並んだままとても慌ただしく羽をばたつかせた。
『日本書紀』の異伝によると、いざ国生みをなさろうという時に、具体的にどうしたらよいのかお分かりにならなかった伊邪那岐命と伊邪那美命の御前に、セキレイが飛んできて尻尾を上下に振ってみせた。二神は、そのおかげで国を生む方法をお知りになったということである。
何もご存じではない身には程遠くていらっしゃる蛍の君には、すぐ目の前でのウグイスの番の営みからそんな伝説に思いを致せられて、顔をお赤らめになりつつもこう仰った。
「陛下がお望みになるのでしたら、この命ある限り、何人でも皇子をお産みいたします。数多くの島々や神々をお産みになったという、あの伊邪那美命にも負けないくらいの気持ちで――」
刹那、永寧の帝におかせられては、そんな蛍の君をふと抱き締められ、次のように仰せになった。
「お願いだから、火之迦具土神を産んだ時に黄泉国へと旅立ってしまったという伊邪那美のようにはならないでほしい。今となっては、僕にはもう貴女しかいないのだから」
皇嗣たる皇族は言うに及ばず、皇太后などもおいでにならなかったので、これまでの御代とは異なって、万一の際に摂政とならせられるべきお方さえいらっしゃらない。誰の目にも危うげに映るそんな状況から始まった永寧の大御代だったが、「雨降って地固まる」という諺の通り、この聖代を境に、竹の園生はまさに雨後の筍のごとくご繁栄の一途を辿ったから、瓊瓊杵尊が高天原にてお受けになったという天壌無窮の神勅は、どうやら架空なる観念[3]などではないようだった――。
【脚注】
[2]昔、中国の王城の門が九つ重なっていたことから、天子の住居の門や塀、あるいは住居そのものを「九重」と言った。
[3]昭和天皇の「人間宣言」こと『新日本建設に関する詔書』より。
【参考文献】
・ヨーゼフ・ロート著、平田達治訳『ラデツキー行進曲』(鳥影社、二〇〇七年)
・『御所のお庭』(扶桑社、二〇一〇年)