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玉葉物語  作者: 財布を忘れて愉快なオーストリア大公妃
前日譚「竹の園生の御栄え」
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第一話(四)「奇跡の皇御孫」

「奇跡の皇御孫(すめみま)

 さて、東宮妃殿下はいかがであらせられたかを申し上げると、故東宮のご肉親でいらっしゃる三陛下と比べればご一緒にされた時はやはりお短かったけれども、ご愛情の深さはお劣りするものではないご様子に思われた。薨御からしばらくの間は、お眠りになれない日が続いたものと拝察せられ、お顔色がひどくお悪かった。お料理もほとんど(のど)を通すことがおできにならず、何とかお召し上がりになったものも少なからず戻してしまわれるほどであらせられたから、

「このままでは、遠からず皇太子さまのようにお(はかな)くなってしまわれるのではないか」

 と、東宮職の人々の間に心配をしない者はいなかった。もしも太陽が光ることをやめてしまったならば、月はもはや輝くことができなくなるのである。日嗣の御子のご在世のみぎりには「月の君」とも呼ばれ給うたあの佳人(かじん)が、皇太后が崩御あらせられた頃には、すっかり見る影もなくなってしまわれていた。

 だが、ほどなくして宮中の人々は思いがけない吉報に接することになった。東宮妃殿下におかせられては、ご本人ですらご想像もしていらっしゃらなかったことであるが、そのお腹に亡き皇太子の忘れ形見(がたみ)をお宿しになっていたのだった。

日向子(ひなこ)さま ご懐妊」

 そんな見出しの号外が街頭配布されるや、貴賤(きせん)上下、老若(ろうにゃく)男女(なんにょ)の別なく、世の人はいずれお生まれになる御子のご性別が気がかりでならなくなった。この頃、南朝(なんちょう)後裔(こうえい)を自称し「真の天台座主(ざす)正胤(しょういん)法親王(ほっしんのう)」と名乗る偽法師(にせほうし)が、

末法(まっぽう)の世に入って千数百年が経ったので、御皇室に転生できるほどの功徳(くどく)を前世で積んだ人間がいよいよ少なくなってきたのでしょう。ですから、生まれ変われたとしても、五障(ごしょう)を備えている女性(にょしょう)がせいぜいというわけです」

 などと()いたうえで、胎内(たいない)の女子を男子に変えるという密教(みっきょう)の古の秘術『変成男子(へんじょうなんし)の法』を厳修(ごんしゅ)するためと称してクラウドファンディングを始め、インターネット上で大炎上するという珍しい騒ぎがあったが、これは今となっては詳しく知る者もわずかに好事家(こうずか)にいるのみというくらいの些細(ささい)な出来事である。

 半年ほどが経った安化二十七年の晩秋、玉のような皇太孫(こうたいそん)殿下がお生まれになったので、これで少なくとも自分の命があるうちは大丈夫だろう、と国中の家々から安堵(あんど)のため息が漏れ聞こえた。

 しかし――大和(やまと)帯解寺(おびとけでら)三河(みかわ)籰繰(わくぐり)神社、近江(おうみ)腹帯(はらおび)観音など、ごく限られた寺社が早くから古例に従って岩田帯や安産御守などを東宮御所に献上(けんじょう)し、また、献上を許されない多くの寺社もこぞってさまざまな仏事や神事を営んでご安産をお祈りしてきたというのに、東宮妃殿下におかせられては、産後のお肥立(ひだ)ちが宜しくなかった。お産から数日が経ったある日、

「ご立派でいらっしゃったあの殿下をお育てになったお二人ですから、両陛下がいらっしゃれば、安心でございます」

 と、とても弱々しげに仰せになり、その()くる日の朝露(あさつゆ)が消える頃には、


「いとし子にわが()のかげを(あなぐ)れど (つゆ)なる身には見えぬぞ悲しき(生まれてから日が浅く、誰に似ているのかもまだわからない愛し子から、慕わしいあのお方の面影(おもかげ)をどうにか探そうとしても、死にそうな自分にはもうまともに見ることができないのが本当に悲しく思われます)」


 と、お息も絶え絶えに辞世(じせい)のお歌をお()みになるや、あたかも黄泉(よみ)にまします故皇太子迪仁親王をお追いになるかのようにお儚くなってしまったから、世の有情(うじょう)には、

「お生まれになった皇太孫さまは、おかわいそうに、父君(ちちぎみ)のみならず母君(ははぎみ)までをも知らずにお育ちになるのだ。誰であれ人の誕生はめでたいことであるはずなのに、これでは心からお(よろこ)び申し上げることなどできようはずもない」

 などと嘆く者が多くあった。皇家(こうか)の習わしによれば、命名の儀はご降誕から七日目とされ、皇太子の御子ならば帝より賜るものと決まっている。それがために皇太子妃殿下には、ご自身がお生みになった子のお名すらもご存じないままにお隠れになってしまった。そんな悲劇が、なおさらに心ある人々の同情を誘ったのだった。

 それでも、中には皇太孫殿下を「奇跡の(すめ)御孫(みま)云々(うんぬん)と持て(はや)し奉る向きもあったが、依然として宸襟(しんきん)は穏やかならなかった。(よろず)のことに通じていらっしゃった安化の帝におかせられては、フランス革命の影響もあって数少ない王子となってしまっていた父の突然の薨去後に生まれ、同じように「奇跡の子」と持て囃されながらも子孫を残せず、フランス・ブルボン王朝の直系最後の王子となってしまった「フランス王アンリ五世」ことシャンボール伯爵アンリ[7]などの古今(ここん)東西(とうざい)凶例(きょうれい)をご連想あそばされたからである。

 帝には、日嗣の御子をふたたび得られたことはもちろん喜ばしく思し召しになったものの、父方(ちちかた)に似て奥手な性格なのではないだろうか、母方(ははかた)に似て病弱なのではないだろうかと気がかりに思われたし、それ以上に、

「母親の命と引き換えに生まれてきたあの子に、愛しい人に子を産んでほしいと考えることができるものだろうか」

 などとふとした時に考えてしまわれて、しばらくは玉体(ぎょくたい)のお震えを止めることがおできにならないということもしばしばおありだった。

 統宮(おさのみや)というご称号に、承仁(つぐひと)というお名を賜ったばかりのお幼い皇太孫殿下――のちの永寧(えいねい)天皇――におかせられては、宮内庁病院をご退院になった後、両陛下がお住まいの吹上(ふきあげ)御所に引き取られ給うたから、それまでの東宮御所は広い空き屋敷となってしまった。

 ある時、一人のまだ年若い女官が、ほんの少し前まで東宮御所と呼ばれていた建物の手入れをしながら、

(あるじ)がおいでにならなくなってしまったこの御所ですが、次にどなたかがお入りになるまでに、いったいどれだけの時がかかるのでしょうね」

 と何気なく呟いた。わざわざ言うまでもないことであるが、居合わせた人々の中にその言葉に答えられる者は誰もいなかった。

 竹の園生にいらっしゃる方々はどなた様も、調度品(ちょうどひん)などにお名をそのまま書くのは畏れ多いためか、代わりに特徴的なお印を付けて所有物であることをお示しになる。そのお印というものは、植物から選ばれる場合がほとんどだけれども、皇太孫殿下のお印には、やや異例ながら「猪」が選ばれた。

「動物としては過去に鶴や亀などの例がございますけれども、それにしても猪というのはいささか雅びさに欠けるのではございませんか」

 と進言し奉る者もあったが、奥手な皇太子に似ないでほしい、病弱な皇太子妃に似ないでほしい、と強く願われる主上におかせられては、「勇敢」や「無病息災」を意味する猪こそが皇太孫にはふさわしい、とお思いになったのである。猪はまた、子をたくさん産むことから「子孫繁栄」の象徴でもある。帝には、ご幼少の頃から迷信というものを嫌っていらっしゃったが、藁にも縋りたいというお思いであらせられたのか、このお印選びにはたいそうお気を遣われたのだった。


【脚註】

[7]最後のフランス王シャルル十世の孫。父のベリー公爵シャルル・フェルディナンが暗殺された後に誕生した。全名は「アンリ・シャルル・フェルディナン・マリー・デュードネ」。最後の「デュードネ」は「神からの贈り物」という意味である。


【参考文献】

・藤樫準二『増訂 皇室事典』(明玄書房、一九八九年)

・大谷久美子「『平家物語』における平徳子の御産:変成男子の法をめぐって」(京都女子大学宗教・文化研究所ゼミナール『紫苑』第九号、二〇一一年)

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