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玉葉物語  作者: 財布を忘れて愉快なオーストリア大公妃
前日譚「竹の園生の御栄え」
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第五話(一)「宸憂」

宸憂(しんゆう)


     一


 身分を捨てたいというお考えに至られるまでの金枝玉葉の御悩みも、万々が一にも皇族がおいでにならなくなったら困るという政府の言い分も、それぞれよく理解できるものであったから、いつの世も上御一人(かみごいちにん)におかせられては、宸襟(しんきん)を悩ましていらっしゃった。

 平成の大御代以来、歴代の帝は御年七十五にならせられる頃には皇太子に位をお譲りになるのを常となさっていたが、応中の御代からはまたしても、仙洞(せんとう)御所のご用意などをせねばならなくなってしまうがために、譲国(じょうこく)の儀をすっかり控えられるようになった。


大行(たいこう)天皇はかねてより譲位を望んでおられたが、皇族費の多額なることが問題視されている昨今の社会情勢にあっては、それも到底叶わぬ夢であった。仙洞(せんとう)御所の普請(ふしん)、新帝の即位礼、新皇孫方への親王宣下(せんげ)にともなう歳費(さいひ)の増額、大嘗祭(だいじょうさい)……お代替わりがあれば相当に金がかかる。それゆえに、我慢をなさり最期まで在位あらせられたのだ。そのような帝が応中以来、先に践祚(せんそ)あそばされた今上(きんじょう)まで実に四代、八十年も続いておられる。嗚呼(ああ)()れでは窮乏(きゅうぼう)したる戦国乱世(らんせい)の朝廷とチットモ(かわ)らぬ……」――『笹麿王(ささまろおう)御日記』第四巻、清明元年六月五日条。


 もちろんご列聖(れっせい)とて、ただお手をこまねいていらっしゃったわけではない。わけても好学の天子であらせられた清明天皇には、お若い頃から宮内庁の所蔵する秘本の山をお手に取らせられて有職故実(ゆうそくこじつ)をご熱心に研究なさり、御年七十六にしてようやく至尊の宝位に即かれるや、

「朝家への尊崇の念を再び高めるためには、とにもかくにも一人でも多くの皇族に公務を担わせなければならない」

 とのご信念のもとに、諸王が「使王(つかいのおおきみ)」として伊勢の神宮へと遣わされていた古例をお手本に、諸王殿下を神宮のみならず勅祭社(ちょくさいしゃ)や歴代の天皇・皇后などの山陵(さんりょう)への奉幣使(ほうへいし)にお任じになったり、またご自身の即位礼正殿の儀に際せられては、高御座の御帳(みちょう)を開く「褰帳(けんちょう)命婦(みょうぶ)」のお役目を果たす人について、

「平安の古には二名の女王に任せて、『褰帳の女王』などと言ったという。同じようにはさせられないものだろうか」

 と政府にお働きかけになったりと、諸々の改善策を矢継ぎ早にお打ち出しになった。この老帝におかせられては、余計に費用が必要になるというので結局は断念されたことだけれども、近古までに途絶してしまった伊勢と賀茂の「斎王(さいおう)」までをも再興させようとお考えにさえなったのである。宮中改革に対せられるそのご姿勢たるやまるで、

「朕が新儀(しんぎ)は未来の先例たるべし」

 と仰せになったと南北朝時代の『梅松論(ばいしょうろん)』に伝えられる後醍醐天皇や、あまりにも急進的な改革を推し進めたがために「皇帝革命家」などと呼ばれた神聖ローマ皇帝ヨーゼフ二世――プロイセン王フリードリヒ二世に「第一歩より先に第二歩を踏み出す」と揶揄された――のごとくであらせられたけれども、それでもなお焼け石に水の弥縫策(びほうさく)でしかないといったありさまなのだった。

 人々は概して新たな君主がすでに老いた人物であることを歓迎しないものだが、この帝には当てはまらなかった。即位礼正殿の儀の当日、式典へのご参列が叶わなかった第三代生駒宮(いこまのみや)貴礼(あてのり)王殿下が、殿邸にてテレビ中継をご覧になりながら、

「この英邁なるお上ならば、何やら我々には想像だにできないような解決策をきっとお考えになるはずだ。朝家再興の時はもはや目の前に迫っているに違いない!」

 とお目を輝かせて仰ったように、竹の園生にいらっしゃる方々の多くは、この清明の御代をお迎えになってからというもの、大きな変化を期待せずにはいられないご様子だったのだが、ご践祚の時点でお年をかなり召していらっしゃったこの帝には、残されたお時間があまりにもお少なかった。ご在位わずか五年足らずにして、決定的なことは何も成すことがおできにならないままにあえなく崩御あらせられたので、諸殿下のご落胆ぶりはまことに筆舌に尽くしがたいものがおありだった。


「今日は朝からどしゃ降りで、まるで天も悲しんでいるかのようだ。現実感がなく、いまだに夢の中にいるような気がしてならない。とびきりの悪夢だ。目覚めたら、お元気であったはずのお上がお亡くなりになっていた。侍従が起こしに伺ったら、すでにお冷たくなっておられたとのことである。長く東宮でおられたお上は、即位後にすべきことをずっと考えてこられた。だが、ご即位までにあまりに長く時間が掛かりすぎたのだ。あと十年、せめてもう五年ほど長生きしてくださったなら!」――『貴礼(あてのり)王御日記』第六巻、宝享(ほうきょう)元年九月十日条。


     二


 清明の帝の崩御に際せられ、朝家で最もお悲しみになったのは、疑いようもなく第一皇子にあたらせられる宝享(ほうきょう)の帝でいらっしゃった。この帝におかせられては、ご肉親を亡くされただけに悲しみはもちろん他の殿下方よりもお深かったし、ましてや帝王学を修め給うべき御身としてお生まれになったことから、宝祚(ほうそ)の行く末を金枝玉葉の方々に輪をかけて強く(うれ)えていらっしゃったので、

「国が(はじ)まって以来、『末代の賢王』と評された堀河天皇や『末代の英主』と称えられた後宇多天皇など、朝家には賢主(けんしゅ)としてご高名なお方が大勢いらっしゃったが、君が代の歌詞にあるように本当に八千代(やちよ)まで続くとしても、この先、お(もう)さんほどのお方はもう二度と現れまい」

 と仰って、しばらくは公の場にお出ましになるのをお引き留め申し上げたほうが良いと思われるほどにお目を赤く腫らされた。また、自分は稀代の賢主のご遺志を引き継ぐことができるような器ではない、としてすっかり恥じ入られて、

「幕末の安政五年、孝明天皇には『所詮微力に及ばざるゆえ』として、幼児とはいえ皇子がおられたにもかかわらず、伏見宮家の貞教(さだのり)親王、有栖川宮家の幟仁(たかひと)親王、熾仁(たるひと)親王のいずれかに譲位したいと言い出されたと聞く。この難局に当たっては、単に先帝の長男であるというだけで無能な朕ではなく、誰かもっと有能な皇族に即位してもらうほうが良かったのではないか」

 とまで仰せになったのだった。


 ところでこの宝享の御代を迎えて間もない頃、宮仕えの人々の間で、ある奇妙な噂が流れるようになった。皇太后陛下のお住まいである大宮御所で、若い女官が白い女の幽霊に出くわしたというのである。初めのうちは一笑に付されていたけれども、次第に目撃者が増えていった。当時、皇太后陛下はほとんど寝たきりであらせられ、畏れ多くも幽霊などと見間違うことはまずありえなかったから、それでは幽霊に出くわしたという人々はいったい何と遭遇したのか――ということで、宮中はまさしく蜂の巣をつついたような大騒ぎになってしまった。

続日本紀(しょくにほんぎ)』の宝亀(ほうき)八(七七七)年二月十九日条に「辛未、大祓す。宮中に頻に妖怪有るが為なり」とある。このように、わが国の朝廷では古くから、(ぬえ)や玉藻前、入内雀(にゅうないすずめ)など、数多の妖怪の類が目撃されてきた。白い女の幽霊というものが現れた例は見当たらないけれども、遠く異朝(いちょう)をとぶらえば、ヨーロッパの宮廷には、君家(くんか)で慶事や凶事があるときに「白い貴婦人」などと呼ばれる幽霊がしばしば現れたという言い伝えがある。特にドイツ・プロイセン王家たるホーエンツォレルン家にまとわりつく幽霊が昔から有名で、王家の中から死者が出る前に姿を見せ、そして最後には王朝の終焉(しゅうえん)を告げるかのように現れたという。


「某皇族が競馬に出て馬から落ちて薨去された、其二三日前の夜には、此幽霊が、其の皇族の部屋の安楽椅子まで来たさうです。又た(ある)皇女が、心にもない結婚をなさる時、此幽霊が礼拝堂に出て指を振つた。皇女は其場で気絶したばかりか二月ほどたつて重病で薨去あつたと云ふやうな事もあります。更に某皇族が薨去の際、白衣(びゃくえ)の美人を御覧になつたと、御臨終までの主治医が日記に(くは)しく書いてあります。()ほ今から七年前に、皇太后崩御の時も、此美人が出たと、其頃の新聞に書いてありました」――巌谷小波、金子紫草『少年世界読本 第三巻』(博文館、明治四十年)一三〇頁。


 古い噂によると、第一次世界大戦――かの栄光あるハプスブルク=ロートリンゲン家が玉座から降ろされる革命の原因となった――が勃発(ぼっぱつ)したばかりの頃には、オーストリア=ハンガリー君主国の宮廷にも現れて、不吉の前兆としてたいへんな騒ぎになったということである。彼女が白い手袋をしていれば皇族の誕生を意味し、黒い手袋をしていれば皇室に属する誰かに死が差し迫っていることを意味したとも伝えられる。

 ヨーロッパにおいては王朝が滅びる前にも宮廷に出現することがあったという「白い貴婦人」が、明治維新以来の欧化により、この皇国でも見られるようになったのであろうか。もしもそうだとすれば、これはいよいよ朝家の終焉を告げるものなのではあるまいか――。

 宮中にはいまや、そのような風説を立てる者さえあった。たとえ箝口令(かんこうれい)を敷いたとしても、人の口に戸は立てられない。やがてこの噂話は巡り巡って天聴(てんちょう)にまで達してしまった。

「そのように噂していた者どもを咎めてはならない。朕も同じ意見である。非情なようだが、今いる皇族のかなりの数に抜けてもらわねば、もはや朝家は持ちこたえられないであろう」

 宝享の帝におかせられては、践祚あそばされてから程なく、宮内庁の幹部職員の中に、

「今の陵墓地はだいぶ空き地が無くなってきたから、そろそろ新たな陵墓地を準備しておくべきだろう」

 などと唱える人々が少なからずいること、そして実際に関東地方の広大な土地買収を前提とする新たな陵墓地の造営計画が密かに立案されていることを知らされ給うていたのだった。

「将来の世代のためにと新たな陵墓地の準備をしたところで、このままではそこを使い始める前に、身分を剥奪(はくだつ)されて寂莫(せきばく)たる山中の(こけ)に埋もれることになってしまうかもしれないというのに――」


     三


 宝享(ほうきょう)元年の秋、清明帝のご治世の終わり頃から内閣総理大臣を務めていた久松(かおる)は、新たな御代となってから初めての内奏に臨んだ。さて、(まつりごと)についての報告がひとしきり済むと、久松首相の話はこのように、新たな御代における御所をどうなさるかという、より私的な事柄に及んだ。

「これまで東宮御所だった今の御所には、ゆくゆくは皇太子殿下のご一家がお住まいになるそうですね。宮内庁長官からはまだ何も聞いていませんが、先帝陛下の御所には皇太后陛下が引き続きご居住になるはずですから、お上にはやはり新しい御所を建ててそちらにお住まいになるのでしょう?」

 古くから「君臣の別」という言葉もあるけれども、宝享の帝にとらせられては、久松首相は気心のよく知れたご幼少の頃からのご学友であったので、他に人目がないこの内奏の場に限っては、たいそう気安くお接しになった。歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を編纂なさるほどに今様(いまよう)に熱中された後白河天皇の、貴賤を問わない今様の遊び相手たちに対せられるご態度も、きっとこのようなものであったのだろう。帝には、将来のお住まいについて、お笑いになりながらこう仰せになったのだった。

「新しい御所を建てるのには金が掛かるからなあ。応仁の頃、後土御門天皇は足利義政公の御殿に同居されたと聞いている。朕もそれに倣って内閣総理大臣の公邸でしばらくお世話してもらえないものかなあ、なんて思っているのだが、どうだね久松」

 人皇第百三代・後土御門天皇におかせられては、応仁の乱が勃発するや、兵火をお避けになるために征夷大将軍・足利義政公の御殿である室町第(むろまちてい)里内裏(さとだいり)となさって、およそ十年にわたってお暮らしになった。なお、義政公にはしょっちゅう酒宴を開いておられ、その場にはほとんど常にこの帝がご同席なさっていたそうだ(甘露寺親長『親長卿記』)。

 しかしながらこれは、あくまで応仁の乱という緊急事態の中での非常措置に他ならない。久松首相はこれに対し奉り、

「お上、ご冗談を仰らないでください」

 とだけ奉答したが、応仁の頃を先例として臣下と同居なさるというのは、かの大乱の最中にも等しい状況にあると宣言なさるようなものなので、それも当たり前のことなのだった。

「冗談に聞こえたかね、久松」

「ご冗談でないのでしたら、なおさら困りまするぞ」

「中等科の修学旅行の時におまえと同じ部屋で寝たことを、朕はよく覚えている。あの夕べのような楽しい語らいの時間をまた持ってみたいものだと、朕は常々思ってきたのだよ。お(たあ)さん、皇太后陛下ももう相当なご高齢なのだから、大宮御所の存続もせいぜい数年だろう。その間だけでよいのだよ、どうしても駄目か」

「しかしですね、『殿下』。個人的にはそうしてみたいという気持ちも少しございますが、もしもそうすれば私は『天皇陛下を蔑ろにしている』などと愛国者を名乗る者どもに糾弾されてしまうでしょう」

 君主が臣下と同じ部屋で寝泊まりをなさるというのは、どんなに民主化が進んだ社会になったとしても考えがたいことである。尤も、かの明治大帝におかせられては、深酒が過ぎて侍従らの詰所だった御学問所で彼らと雑魚寝(ざこね)してしまわれることもあったそうだけれども、これはまさしく例外中の例外なのであった。


 あれこれと少年時代の思い出話に花を咲かせ給うた後、もうそろそろ終了予定時刻になろうかというところで、帝にはこう語りになった。

「来年の秋には何百億円もかけて即位礼をやらねばならないのが今から憂鬱でならなかったが、今日はずいぶんと楽しかったよ。ありがとう」

「即位礼が憂鬱、でございますか」「長い時間をかけて不満を落ち着かせて、即位礼でまた不満を高める、ここ数代の帝はその繰り返しなのだからね。何という名前だったか、大昔の侍従が日記に書いていた[1]ように、いっそ洋装での式典にできれば安上がりでよいのだが――」

 久松首相これに応えて曰く、

「儀礼の簡素化でございますか。確かに、もはや欧州でも英国以外では戴冠式をやっておらぬと伺っております。スペイン王国などのように、新君主が議会で宣誓するだけの国もあるとか。ですが、本邦ではなるべく伝統の通りに致しませぬと、式典委員会の長を務めることになる私めの命が危うくなります」

「洋装にて式典を執り行うことが朕の心だ、と言っても駄目か」

「仮にそうしたとしても、政府が嘘をついているだとか、政府が天皇陛下に原稿を押し付けてお言葉を強制しただとか、そんなようなことを言って絶対に信じない者どもが必ずや出て参りましょう」

「それはつまり、朕が自らの意思でそうさせたのだということが、誰の目にも明らかであれば良いのではないかな――」

 その刹那、部屋の外にいた宮内庁職員がドアをノックした。それを耳にした久松首相は、帝の最後のお言葉がほんの少しだけ気に掛かったけれども、古くからの宮中のしきたりに従って、

「これにて内奏を終了いたします」

 と言って席を立たなければならなかった。そして彼は、政務のために多忙な日々を送らねばならないがゆえに、この内奏の仕舞際に何やら意味深長なお言葉がおありだったことを、しばらく後のある時まですっかり忘却してしまったのであった。


     四


 イギリス王ウィリアム四世――大英帝国の象徴的な存在として知られる、あのヴィクトリア女王の伯父にあたる――は、生来の慎ましげな性格から、派手好きな兄王のジョージ四世とは打って変わって、戴冠式を望まなかったらしい。これはジョージ四世の崩御を受けて即位したばかりの一八三一年、庶民院解散に立ち合った時の出来事だそうである。戴冠式を拒否したがったこの王は、更衣室で王冠を頭上に乗せて、首相のチャールズ・グレイ伯爵にこう言い放ったそうだ。

「ほら見ろ! 戴冠式は済んだぞ」

 宝享の大御代にはこれによく似た出来事があったのだが、このウィリアム四世の逸話を参考になさったものなのか、あるいは偶然の一致にすぎないのか――。


 かの内奏から数カ月が過ぎた宝享二年の一月二十日、新帝におかせられては、例年のごとく参議院での国会開会式にご臨場になるために、国会議事堂へと行幸あそばされた。

「天皇陛下のご臨席を仰ぎ、第五百三十六回国会の開会式を行うに当たり、衆議院および参議院を代表して式辞を申し述べます――」

 玉座に座られた帝がお見守りになる中で、議長席から衆議院議長が厳粛に式辞を述べた。そして彼が玉座の新帝に深く一礼して、事務局席のほうへと移った後、侍従長が「お言葉」が記された書状を持って、玉座の前の階段を、左足から一段ずつ恭しく登った。書状をお受け取りになった宝享の帝には、文面に従ってこう述べられた。


「本日、第五百三十六回国会の開会式に臨み、全国民を代表する皆さんと一堂に会することは、私の深く喜びとするところであります。国会が、国民生活の安定と向上、世界の平和と繁栄のため、永年にわたり、たゆみない努力を続けていることを、嬉しく思います。ここに、国会が、国権の最高機関として、当面する内外の諸問題に対処するに当たり、その使命を十分に果たし、国民の信託に応えることを切に希望します」


 帝におかせられてはその後、書状をお手ずからくるくると丸められ、それを受け取りに玉座の前まで登ってきた衆議院議長に手渡された。

 さて、国会開会式といえば、帝国議会の開院式において丸められた勅書を遠眼鏡となさって、議員席をお見渡しになったとされる大正天皇の「遠眼鏡事件」が知られるが、まさにこの直後、かの大正天皇の事件をも優に上回るであろう日本憲政史上に残る重大事件が起きたのだった。

 衆議院議長が後ろ向きに降りて、元の事務局席のほうに戻ったので、参議院議長がご還幸になる帝の先導をしようとした、その時の出来事であった。帝には、お服の中に隠し持たれていた別の書状を取り出されて、式典に出席した国会議員たちが驚きと戸惑いを隠せない中で、こうお読みになったのである。


「さきに、日本国憲法および皇室典範の定めるところによって皇位を継承しましたが、ここに即位を内外に宣明いたします。このときに当たり、改めて、御父清明天皇の五年にわたるご在位の間、いかなるときも、国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国の象徴にして日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います」


 それはまるで、秋に予定されている「即位礼正殿の儀」の際に高御座から発せられるお言葉のようであった。帝がお言葉を述べられる機会としては、全国戦没者追悼式など数多くあるけれども、国会開会式でのお言葉だけは、政治的中立性を保つために閣議決定を経るものだ。そのような慣習があるというのに、その場で政府のまったく与り知らないことまでお述べになったのである。波紋が大きく広がるのも無理もないことだった。千三百人近くいる国会議員たちの中からは、

「まだお若く見えるけれども、すでに六十歳を超えていらっしゃる。あそこが即位礼の舞台かと勘違いなさるほどに呆けてしまわれているのだろうか」

 などと帝のご体調をご案じ申し上げる声もいくらか上がった。

「今上陛下の御代はまだ始まったばかりだけれども、あのご様子では摂政を置いたほうが宜しいのではないか」

 という声を上げる者すらいる中で、久松首相はその日のうちにこの帝のご名誉をお守り申し上げようとして、慣行に反する極めて重大なタブーだとは知りつつも、

「今回の出来事は、歴代の政府に根本的な原因があります。皇室に投じられる税金のことを、天皇陛下をはじめとする皇室の方々がどんなに気にかけておられたかを、まず国民の皆様には知っていただきたい――」

 と、内奏の時のお言葉をマスメディアに明かして、実際にかなりの問題になったものの、

「久松首相こそは、下手をすれば内閣が吹き飛んでしまう虞すらあると知りながらも天皇陛下を第一にお守りしようとした天下の大忠臣だ」

 として、一部の人々からは思いがけない賞賛を集めることになった。ともかく、かの御乱行事件に起因する長年の問題で、この宝享の帝ほどに宸襟(しんきん)を悩ましておられたお方は、まずいらっしゃらないであろう。

【脚注】

[1]長く昭和天皇の侍従を務めた小林忍は、日記にこう書き残している。「諸役は古風ないでたち、両陛下も同様、高御座、御帳台も同様。それに対し、松の間に候する者のうち三権の長のみは燕尾服・勲章という現代の服装。宮殿全体は現代調。全くちぐはぐな舞台装置の中で演ぜられた古風な式典。参列者は日本伝統文化の粋とたたえる人もいたが、新憲法の下、松の間のまゝ全員燕尾服、ローブデコルテで行えばすむこと。数十億円の費用をかけることもなくて終る。新憲法下初めてのことだけに今後の先例になることを恐れる」


【参考文献】

小林忍・共同通信取材班『昭和天皇 最後の侍従日記』(文藝春秋〈文春新書〉、二〇一九年)

石原比伊呂『北朝の天皇:「室町幕府に翻弄された皇統」の実像』(中央公論新社〈中公新書〉、二〇二〇年)

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