第四話(三)「宮輩の御悩み」
【宮輩の御悩み】
応中十八年の春告鳥が鳴く頃に、皇位継承順位第百十八位にあたらせられる信貴宮殿下におかせられては、重いお病を得られた妃殿下のご快復を神仏に祈願なさるべく、京都と奈良の名だたる寺社の数々をお巡りになっていた。
さて、諸寺社中のとある寺に、煩悩を滅するための修行が足りていなかったのであろう、この殿下をむざと侮る小僧があった。曰く、
「お釈迦さまは古代インドのシャーキヤ国の王子としてお生まれになり、王城を抜け出して悟りを開かれました。殿下は同じように貴人としてお生まれになりながら、今日までいったい何をなさってきたのですか」
竹の園生の御栄えを折々にお祈り申し上げるべき神職の中にさえも、本心ではこれ以上の弥栄を望まないがゆえに、
「皇室はもとより天壌無窮と決まっているのだから、わざわざ弥栄をお祈りする必要はないのではないか」
などと唱える者が少なからずいたご時世だから、それほど不思議な出来事ではないのかもしれなかった。しかし、勅願寺とされたほどの皇室ゆかりの古刹であるにもかかわらずのこの無礼をお見逃しにならなかった信貴宮殿下には、
「永寧大帝が仰せになったように、皇位継承者が絶えないように努めることも皇族の大切な公務である。私のような末端の者にとっては唯一の公務なのだ」
と、滔々とお話しになったそうだ。この頃にはまだ、金枝玉葉には信貴宮殿下と同様のお考えのお方ばかりがおわしたものである。だが、その直後に明るみに出た「御乱行事件」により朝家への怒りが高まると、打って変わって、
「永寧大帝のご遺命に背くことになってしまうが、自分のような者は進んで身分を捨てたほうがよいのではないか」
と思い悩まれるお方が多くおみえになるようになった。
皇室典範は、竹の園生があまりにも御栄えになりすぎてしまった時のために、皇籍離脱を認めている。帝と血縁の遠からざる親王は別にして、枝葉たらせられる王は「その意思に基き、皇室会議の議により」皇籍をお離れになることができるというので、政府からその類いの進言がいまだにないうちに、醍醐宮殿下、桂宮殿下、正親町宮殿下、笠置宮殿下など、かなりの数の諸王がそのお気持ちを進んで示された。
「けさ、花町さんの一件を機に、ついに宮内庁長官に皇籍離脱を願い出てきてやった、じつにすがすがしい気分だ。正直なところ、いまは皇族がちょっと多すぎると前から思っていたのだが、いくら永寧大帝のご遺言があるとはいえ、これまでだれも願い出たものがいなかったのだろうか。われの後に、ほかの皇族もどんどん続くことを望む。大むかしの東久迩宮[2]もきっとこのようなお気持ちであったのだろう。」(『琴彦王御日記』第四巻より)
しかしながら、三権の長や宮内庁長官などが名を連ねる皇室会議は、その類のお気持ちを黙殺し奉るのが常だった。それというのも、平成と令和の両聖代において、後伏見天皇の後裔たらせられる旧宮家[3]のご処遇をめぐる議論がまるで牛の歩みのようになかなか進まなかったことに思いを致せば、万が一の際に皇籍復帰を願い奉るのが難しいことがたやすく予想できたからである。
応中二十三年の夏、ある内奏の場でのことである。帝におかせられては、首相にこのようにお問いかけになった。
「どうしても皇籍離脱を認めてやることはできないのか。たとえ一人や二人でも、望みどおりに離脱を許してやれないものか」
時の首相これに対えて曰く、
「わずかな人数だけ認めるというのが最も難しゅうございます。とあるお方の臣籍降下を認めるのでしたら、それより皇位継承順位が低い方々にも臣籍に降りていただかねば、後の世に禍根を残してしまう虞がございますゆえ」
もちろん、竹の園生においでになるのは、ひとたび断られただけで黙ってしまわれるようなお方ばかりではない。皇位継承順位第五十位、帝の再従甥のお一人にあたらせられる生駒若宮殿下などは、訴えを皇室会議に却下された後もなお、
「国民に申し訳ないと思う気持ちも当然ありますが、ご高齢の上皇陛下でさえもがご多忙な日々を送っていらっしゃる中、まだまだ若いというのに食べて寝るばかりの日々を送っていることが、心苦しく思えてなりません。ましてや、そんな私たちのせいで御稜威が衰えてしまっていると聞いては、生きていることすら恥ずかしくてたまりません。化野の露と消えてしまいたいという日毎に募るこの思いを、いったいどうして抑えることができましょうか」
と、お袖をお涙でしとどにお濡らしになりながら、宮内庁長官にご直訴になった。日々の暮らしに張り合いがおありでなく、至尊のお血筋に連なることをほとんど唯一のお心の支えとなさっている諸王殿下には、御稜威のお衰えは何よりも耐えがたいことなのであった。
応中二十年の歌会始の儀で皇族方が披露なさったお歌は、きわめて異例なことに、雲の下に降りたいというお気持ちを色濃く滲ませるものがほとんどであった。
「をかしきは 虫はなちたる 宵の月 いづれ吾もと ねがふ秋かな(飼っていた鈴虫を野に放った後、狭い籠から解き放たれたことを喜んでいるかのようなその鳴き声も手伝って、見上げた夜空に輝いていた月がいっそう風情があるように感じられた。いつの日か、自分もこの鈴虫のように自由になりたいものだ。そう願ってしまう秋だなあ)」(寛化天皇五世皇孫、正親町宮琴彦王)
「赤坂の 外より月を 見まほしき 戻れぬ旅と 知りつつもなほ(赤坂御用地から眺める月はもう見飽きてしまったので、普通の人となって新鮮な気持ちであの月を眺めてみたいものだ。外に出てしまえば二度と戻ることはできないと、知ってはいるけれども)」(永寧天皇七世皇孫、笠置宮雅成王)
また、生駒若宮殿下の弟宮のお一人、皇位継承順位第五十四位にあたらせられる山辺宮殿下におかせられては、憲政が敷かれて以来、本朝に先例のない大騒動をお引き起こしになり、宮中府中の人々をして吃驚仰天 せしめられた。この殿下には、平素よりお口癖として、
「表舞台で私にできることが何もないのならば、いっそ厭わしいばかりの身分など捨ててどこか山奥の荒れ寺にでも入って、人類の安寧や世界の平和を祈りつつ静かに暮らしたい」
云々と仰せになっていたのだが、ある厳冬の日の朝、衆人の目もあろう中でいったいどのようにして袈裟などをご調達なさったのであろうか、やにわにご法躰となられて、殿邸玄関の近くで雪見をしていた殿邸に仕える人々の前にお出ましになった。そうして、
「今日まであれこれと世話になった。これが今生の別れとなろう。どうか皆、私を捜そうとはしてくれるな」
と真白き吐息とともに仰せ出だされるや、懸命な諌止を振り払ってまで出奔せんとなさったので、やむを得ないということでついには皇宮警察の者どもの手によって取り押さえられ給うたのであった。
いつの御代からであろうか、十分な数の束帯や十二単が用意できない、たとえ用意できたとしても高御座のお側にはとうてい収まりきらないなどの諸事情から、成年皇族であらせられながら即位礼正殿の儀への参列でさえも叶わないお方が山のように出てしまわれるようになってから久しかったが、御代替わりに際して式典委員会の長を務める歴代の内閣総理大臣は、それほどの状況に立ち至ってもなお方針を改めようとはけっしてしなかった。
応中二十年代後半から三十年代にかけて長く宰相の座にあった佐藤忠彦は、長く朝廷を支えた藤原氏の末裔であることを誇りとする尊皇家として知られていたから、彼が在任している間、諸王殿下は好機とばかりに、自分がどれだけ苦しみながら日々を過ごしているかを詠んでは首相官邸に送りつけるなどの働きかけをたびたびなさった。しかし、そんな佐藤首相でさえも、
「申し訳ござりませぬ、申し訳ござりませぬ」
と、目から大粒の涙を零しながら、赤坂をはじめとする数々の御用地のほうを向いて首を垂れるくらいのことしかできなかった。
「朝家への風当たりが厳しくなってしまっているが、必ずや時間が解決してくれるはずだ。安泰そうに見えた大正の大御代からあれほどの危機に陥った過去を鑑みるに、どんなに安泰そうに見えたとしても、永久に安泰だと言い切れるものなど、この浮世には何一つとしてないのだ。だから、宮様方にはお気の毒ながら、今のご身分のままでいていただかねば――」
【脚注】
[2]戦後に皇籍離脱した東久邇宮稔彦王は、大正末期から昭和初期にかけ枢密院議長を務めた倉富勇三郎が書き残した『倉富勇三郎日記』によると、昭和二年の時点で次のように言って臣籍降下を望んでいたという。「……結婚関係なき現在の皇族は、皇室とは親族とも云ひ難く、此の如きことにて、皇族と云ひ居るはむつかしき様に思ふ。然し、誰も思ひきりて降下のことを云ひ出す人もなき様に付、自分が先づ云ひ出さんと思ひたることなり。現在の皇族は総て降下するのが当然にて……」
[3]いわゆる旧宮家は、一般的には崇光天皇の子孫とされるが、同天皇は北朝側の天皇であるため、南朝が正統とされる今は正式な歴代天皇には含まれない。ゆえに宮内省諸陵寮『陵墓要覧』には、崇光帝の祖父で、両統迭立期の正当な天皇である後伏見天皇の子孫として記載されている。
【参考文献】
・浅見雅男『皇族誕生』(角川書店、二〇〇八年)