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玉葉物語  作者: 財布を忘れて愉快なオーストリア大公妃
前日譚「竹の園生の御栄え」
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第四話(二)「某若宮御乱行」

某若宮御乱行ぼうわかみやごらんぎょう


     一


『源氏物語』の皇子「光る君」は架空の人であるけれども、そのモデルの一人ともされる「玉光宮(たまひかるのみや)」こと敦慶(あつよし)親王のように、昔から朝家には確かに美男(びなん)が大勢おいでになった。特に名高いのは在原業平(ありわらのなりひら)朝臣であらせられよう。このお方は貴族として知られておいでだが、人皇第五十一代・平城(へいぜい)天皇の第一皇子・阿保(あぼ)親王が五男としてお生まれになってから間もなく臣籍に降りられたのであり、元は紛れもなく金枝玉葉の御身なのだった。

 愛知県知立市にある八橋山(やつはしさん)無量寿寺(むりょうじゅじ)の境内に、小野篁(おののたかむら)卿の娘とされる「杜若姫(かきつばたひめ)」の供養塔がある。伝説によればこの姫君は、東下りをなさる業平卿を追ってはるばる都より来られたものの、八橋に着かれた時にはすでにご出立になっていたので、悲嘆のあまり付近の淵――今の逢妻川(あいづまがわ)――に入水(じゅすい)なさったということである。

 また、愛知県東海市の富田には、かつて領主である藤原道武が建てさせたとされる「あやめ」なる女官の供養塔がある。業平卿が椎の大木に登って、追いかけてくる彼女をやり過ごそうとなさったところ、彼女はその木の下にあった井戸の水面に映った業平卿を見つけて狂喜し、井戸の中に飛び込んで亡くなってしまったと伝えられる。


「女官に惚れられて京都には居られなくなり、遂に逃げ出したが女官も亦後を追つかけた。逃れ逃れて知多郡上野村富田に来た時すでに見付けられようとしたので、とある椎の大木に急ぎ登って身を隠す。女は此所彼所(ここかしこ)と探すも姿見えず椎の木の下に在る野井戸を覗くと業平の姿が水鏡に写つて見えたので、恋人業平は井戸中に居ると大いに喜び、飛び込んで遂に死んでしまつた」――愛知県教育会『愛知県伝説集』(郷土研究社、昭和十二年)一二五頁。


 さすがに業平卿ほどの逸話をお持ちのお方はなかなかいらっしゃらないけれども、昭和天皇も特に皇太子であらせられた頃には、美男として世の若い娘たちの間でたいそうな人気がおありだった。大正十年十月十二日の『読売新聞』によれば、ある展覧会にその名刺が展示されるや、多くの女学生がそれ見たさに詰め掛けたという。当時の娘たちの中には、摂政宮のご送迎の際に、やたらと赤くなって恥ずかしがる者もいたそうだ。

「どことなく摂政宮殿下の面影があるこの人のお嫁さんになりたい」

 そんなようなことを言って、親たちの反対も押し切って学校をやめてしまった娘もいたらしい。この時代には、女学生たちが摂政宮のブロマイドをあたかも映画男優のそれのごとく買い漁り、教育界で問題になるという事態まで起きていた。

 このように朝家の方々は、光り輝くかのようなその美貌ゆえに、昔から大勢の女どもを狂わせてこられたものである。


 さて、応中(おうちゅう)の大御代の半ば頃、花町宮(はなまちのみや)のご一家に、梅麿王(うめまろおう)と申し上げる若宮殿下がいらっしゃった。竹の園生のならわしとして御学校の初等科にお通いになっていたこの殿下におかせられては、宣文(せんぶん)天皇から数えて四世の孫にあたらせられるという、金枝玉葉の中でも本来ならばそれほどお目立ちにはならないはずのお立場でいらっしゃった。

 しかしながら、ただでさえ「今業平(いまなりひら)」や「平維盛(たいらのこれもり)の再来」などと称えられ給うほどに見目麗しさが際立っていらっしゃった美麿王(よしまろおう)殿下の和子としてお生まれになったこの殿下におかせられては、先祖返りとでも申し上げるべきだろうか、その父宮ですらまったく見劣りしてしまうほどの眉目秀麗さでいらっしゃったのである。

 この若き王殿下には、生まれついての見目麗しさもさることながら、この歳の頃の童子(どうじ)の間ではとりわけ大事なこととして、運動がとてもよくおできになったので、いつも大勢の娘に取り囲まれておいでだった。高学年にならせられる頃には、上下の学年の娘たちまでもが、放課後になるやいなや、こぞって我先にと殿下のおわす教室に押し寄せて、

「ごきげんよう、殿下」

「本日はどのようなお遊びをなさいますの?」

 などと言いながらお席を囲み奉るのが常となっていた。華族制度が廃止されてから数百年の時が流れた今もなお、御学校には由緒正しいお家柄の子女がたいそう多くいらっしゃるけれども、そのようなご令嬢たちでさえもが、この輝かしい王殿下の御前にあっては、

「ちょっと貴女方、いったいいつまで殿下のお側にいらっしゃるおつもりなのよ。早く場所を交代なさい!」

 と、お顔を真っ赤にしながら大騒ぎをなさるなど、下々(しもじも)の娘にも劣るひどく浅ましいお姿ばかりをお見せになった。尤も、言い伝えによると平安の古、比叡山(ひえいざん)の中興の祖として名高い良源(りょうげん)が仏事のために参内(さんだい)なさる時に、女官たちはみなこの容姿端麗なる高僧のお顔を拝もうとしてお争いになったそうだ。ご身分がおありの大の大人でさえ本当にそんなご様子であったとすれば、まだ分別(ふんべつ)もつかない童女がこうであっても仕方がないことではあるのだろう。

 初等科にはこの頃、皇太子殿下を筆頭に、梅麿王殿下よりも皇位継承順位がはるかにお高い雲上人(うんじょうびと)が大勢おいでになったが、梅麿王殿下のお慕われようはまことに甚だしく、そんな方々がみな異性との関わりをほとんどお持ちになれないというありさまになってしまったので、

「御学校が次代の皇后を輩出することはできないだろう。たとえ幼い頃の話だったとしても、皇后が夫帝(ふてい)以外の男のことで無我夢中だったなどと報じられるわけにはいかない」

「それが皇太子殿下と出会う前の出来事ならばともかく、彼女たちはすでに殿下を(ないがし)ろにしており、未来の皇后として不適切だ。今後の出会いについて考えるなら、殿下には進学先の変更をご検討いただくべきではないか」

 などと、宮内庁のお偉方は頭を悩ませなければならなかった。


     二


 その梅麿王殿下が中等科に進学なさってから一月(ひとつき)が経った頃、殿下と時を同じくして女子中等科へとお進みになったさる旧華族家のご令嬢が、御年(おんとし)わずか十三にして身籠っていらっしゃることが露見(ろけん)した。

 世の中には、わが子が密かに赤子(あかご)を産んでいたことに気が付かなかったという家もあるようだが、何かにつけて厳しい監督をお受けになるのがいまだに当たり前のことでいらっしゃる名家のご令嬢が、しだいにお腹が膨らんでいくのをいつまでも隠し通すことがおできになろうはずもない。ご両親に問い詰められ給うたご令嬢は、もはやこれまでと思し召して、その身にお宿しになっているのが梅麿王殿下の御子であることを、そして、どうしたわけでそういうことになってしまわれたのかを、赤裸々(せきらら)にお打ち明けになった――。

 事の起こりは、初等科の卒業式までわずかに数か月を残すばかりになった頃。御学校は初等科までは男女共学だが、中等科からは「男女七歳にして席を同じゅうせず」ということであろう、男と女で学び舎が分けられる。最高学年の童女たちはみな、その時が近づくにつれて、

「ああ、もし叶うならずっとこのままでいたい。進学すれば慕わしい殿下と離れ離れになってしまうだなんて」

 と己の運命を嘆いた。この学年の子はみな、ほんのちょっとでも王殿下のお近くのほうにいたいという浅ましい女心からたびたび押しのけあうような争いもした恋敵同士ではあったが、それゆえに互いの悲しみが痛いほどによくわかったので、全てを水に流して力を合わせることにしたのだという。つまり、彼女たちはある日の放課後、いつものように殿下のお席を囲み奉るや、いったいどこで覚えたのであろうか、

「殿下、今生のお別れをする前に、できることならばほんの一度なりとも『思い出』が欲しゅうございます」

 などと言いながら、学び舎の中であるというのに大胆不敵にも一斉に制服のスカートをたくし上げて誘惑し奉ったそうだ。このような時、「鬼大師(おにだいし)」とも呼ばれる良源であったならば、

「お礼に私も一つ、得意の百面相(ひゃくめんそう)をお目にかけましょう」

 とでも仰った後、鬼の姿に変化(へんげ)して驚かせ、まんまとお逃げになったのだろうが、それを目の当たりになさった梅麿王殿下におかせられては、やはりそういうお年頃であらせられたがゆえのことであろう、一も二もなくこの甘い誘いに乗ってしまわれたらしい。

 竹の園生の方々をお預かりする心構えとして、もちろん教師たちは見守りを欠かさなかったのだが、ことこの殿下に限っては、あまりにも大勢の女子に囲まれていらっしゃって、教室の前の廊下を通り抜けることすら一筋縄ではいかないほどなので、真ん中のほうで何をなさっているかを確かめることまでは難しかった。そして誰もが、

「女子と二人きりでいらっしゃるのならともかく、こうも大勢がいては間違いなど起こるはずもないだろう」

 と考えて、他の皇族方の見守りに向かうなどしたのだった。また、この頃は瓊枝玉葉(けいしぎょくよう)をお守りする側衛官(そくえいかん)も、昔とは違って教室からやや離れた場所にお控え申し上げるのが常であった。そんなわけで、夕毎(ゆうごと)に続けられたこのご乱行(らんぎょう)は、ご卒業により終わりを迎えるまでとうとう大人たちには誰にも気付かれることがなかったのである。

 (くだん)のご令嬢の後も、

(たく)の娘が、王殿下の御子を身籠ってしまったようでございます」

 などと申し出てきた家庭が相次ぎ、その総数は十三にも及んだが、これはあくまでも申し出てきた数でしかないから、王殿下の御種をその身に宿してしまった娘は、ひょっとするとさらに多かったのかもしれない。生前に邪淫(じゃいん)の罪を得た者は、死後二十一日目である三七日(みなのか)地獄(じごく)宋帝王(そうていおう)の厳しいお裁きを受けることになってしまうというのに、それを知ってか知らずか、日頃からこの殿下を囲み奉っていた同級生でその身を捧げない者は誰もいなかったほどであるから、まさに末法の世の乱れもここに極まったというほかない。


     三


「某少年皇族の『後宮』と化した御学校 良家の令嬢が同時に十三人懐妊の衝撃!」

 しばらくして、とある週刊誌がそう題する特大スクープ記事を世に出したので、国内のワイドショーは長くその話題ばかりになってしまった。遠く海の外でも面白おかしな話題としてたびたび取り上げられたから、世の人々はこれをひどく恥ずかしく思った。

 梅麿王殿下はもちろん未成年でいらっしゃったので、その週刊誌は当初、配慮してお名は記載せずに「中等科にご在籍のとある皇族」としたのだが、これが図らずも事態の悪化を招いてしまった。その当時、中等科には二人の両手両足の指を用いたとて足りないほどの金枝玉葉の御身がお通いになっていたから、

「筆頭宮家である西院宮(さいのみや)家の若宮殿下の御ことではあるまいか」

「思うに、かつて稀代のプレイボーイとして世間を大いに賑わせた土御門宮(つちみかどのみや)の三男坊ではないだろうか」

「宮家の話とは限定できない書きぶりだから、皇太子か第二皇子ということもありうるだろう。名前を出さないのは、表には名を出せないほど上のほうの皇族だからかもしれない」

 などと、何ら恥じ入るところのおありでない方々までもが、物見高い人々から好奇と疑いの目を向けられてしまわれたのである。

 以前から金枝玉葉の御身が婚外子をお儲けになってしまうことはしばしばあったものの、内々での話し合いなどにより、醜聞(しゅうぶん)として表に出ることはなかった。しかし、梅麿王殿下の場合はもはや隠し立てのしようがないことだったので、政府は朝家の先例などを参考にしながら制度改革を検討することにした。

 そもそも、一般国民の間では婚外子差別を解消しようとしながら、朝家の婚外子は逆に皇位継承から排除したところから誤りだったのかもしれない。歴史を紐解けば、第二次世界大戦に敗れてから間もない昭和二十一(一九四六)年十二月十一日、日本自由党所属の衆議院議員・北浦圭太郎が、第九十一回帝国議会においてこう述べている。


「庶子問題について、國民道徳ということを盛んに仰せられますが、從來も決して國民道徳というものを無視したのではない、皇統が、いわゆる明治大帝から以下の皇統でもよろしゆございますし、或は神武天皇を標準とされてもよろしゆうございますが、皇統が成べく血の濃い、そうして親密な方向に向つて血統が續いて行くということを希望するのあまり規定されてあつたのであつて、かつ一體國民道徳とは何か、それほど惡いか、(かり)にそれが不道徳といたしましても、過日同僚の一人が仰しやつたように、生れた子供に何の罪があるか、これが差別待遇だ、この御説明は國民道徳維持のためだと、どうもそういうことはいけない、しからば民法にも庶子というものを抹殺してしまわねばならない、人間の待遇をしない、民法から庶子というものを抹殺して、これは嫡出子にあらざる子とわれわれはごく細密に注意を拂いまして、庶子だの私生兒だのなくした、嫡出子にあらざる子である、なぜか、その子供たちに大きくなつて(へん)な氣持をもたしてはいけないというので、法律は遠慮してそういうふうに改正いたした、それを政府は國民道徳の上から除く、それではいわゆる皇庶子の方々はおさまるまいと思う、この條文だけは憲法無效確認の訴訟は必ず起る、私どもでも大審院に向つて起して見せる、この説明は私は(すこぶ)る不滿足であります」――『第九十一回帝国議会 衆議院 皇室典範案委員会 第四号』より。


 歴史的に庶子を貴種としてすらほとんど認めてこなかったヨーロッパの君家(くんか)でも、今日では王位継承権はともかく「王子」の称号や「殿下」の敬称くらいは認められるようになっているのである[1]。それを思えば、皇庶子のご即位を長きにわたって認めてきた日本が継承権を認めない道理はどこにもなく、すんなりと皇族として認められることになった。しかし、当然のことながらこの制度改正に対しては、

「これからは庶子までもが歳費の支給対象となるのか!」

 と腹を立てる人々が多くあった。

 歳費の支給対象とならせられるのが梅麿王殿下のお子さま方だけで済めばまだ良かったのだが、婚外子も皇族として認められることになるや、

「今は亡き母が今わの際に言い残したことですが、自分は先代の上総宮さまのご落胤らしいのです。ご調査をお願いします」

 などと宮内庁に訴え出る者が相次いで、これも国内外に大きく報じられてしまったから、事態はさらに悪化してしまった。

 この「応中の猪熊(いのくま)事件」や「不良皇族事件」、「某若宮御乱行ぼうわかみやごらんぎょう」など、後の世にさまざまな名で呼ばれる騒ぎをきっかけにして、竹の園生が民草から向けられる目は、にわかに厳しいものになってしまったのであった。


 兼好法師(けんこうほうし)が書いたとされる『徒然草(つれづれぐさ)』の第一段に、

御門(みかど)御位(おおんくらい)はいともかしこし、竹の園生の末葉(すゑば)まで、人間の種ならぬぞやんごとなき」

 という一節がある。今さら言うまでもないことだが、竹の園生とは皇室や皇族の異称であり、それは前漢(ぜんかん)の孝文皇帝の皇子で(りょう)(ほう)ぜられたる孝王が王城の東庭を「修竹苑(しゅうちくえん)」と命名し、そこに竹を多く植えたという『史記(しき)』の故事に由来する。すなわち『徒然草』は、天皇陛下はたいへんに畏れ多く、同じお血を引いておられる傍系皇族でさえも、その末端の方々に至るまで人とは違っていて(とうと)い――と言っているのだ。

 一天万乗(いってんばんじょう)の聖主に対し奉り、

「何をなさらずともいてくださるだけでありがたい」

 という思いを抱くような尊王(そんのう)家であれば、『徒然草』の言うように諸王をもただただ(たっと)ぶばかりであろう。しかし、ゆめゆめ忘れてはならないのが、人心が(すさ)み、神や仏などへの信仰心がほとんど薄れ果ててしまったこの五濁(ごじょく)悪世(あくせ)には、至尊(しそん)宝位(ほうい)ですらも尊崇(そんすう)すべきものだとは考えない者も少なからずいるということである。

「皇族に対して国家がその保障をして差し上げる経費がずぼらにどんどんふえてくるということでは、皇室に対する国民の尊敬というものにもひびが入る危険が将来あると私は思う」

 昭和四十三年に受田新吉がそう発言をするよりはるか昔――おそらくは明治の大御代に帝室制度調査局が設けられてすぐのことであろう、小松宮彰仁親王におかせられては、次のように上奏なさったという。


「歳月の経過と共に皇胤の支族益々(しげ)く、府庫の供給益々重きを加へ、栄班に列するも優恤(ゆうじゅつ)均霑(きんてん)するに易からず。枝葉の繁栄は偶々(たまたま)以て根幹の枯凋(こちょう)を致すの媒たるを想へば、皇族の蓄衍(ちくえん)(ひい)て皇室の尊栄に影響するの(おそれ)なきを保せず」(『憲政史編纂会収集文書』より)


 枝葉があまりにも繁りすぎれば、かえって根や幹まで枯らしてしまいかねない――。小松宮彰仁親王はそう仰って、傍系皇族を臣籍に降らせることができるようにすべきだ、と明治の古にお唱えになったわけであるが、後世の目から見るに、この宮はまことに慧眼(けいがん)であらせられた。

 京都は嵐山の「竹林(ちくりん)小径(こみち)」がああも人々を魅了する美しさなのは、常に人の手が加えられていればこそであって、もしも捨て置かれたならば、たちまちのうちに(おびただ)しい数の筍が柴垣(しばがき)(へだ)てられた遊歩道にまで生えるようになり、やがては荒れ果てた土地になってしまうだろう。そうなれば、幾多(いくた)の使い道があった昔ならばともかく、今はもはや誰一人として竹に見向きもすまい。仮にその竹林の中に根元がたいそう美しく光り輝るものが一本あり、そこから赤子が産声(うぶごえ)を何度も上げていたとしても、いつまでも気付かれることはないであろう。

 そもそも宗室(そうしつ)のご血統をありがたいと思わぬ人々にしてみれば、竹の園生の(きわま)り無き弥栄(いやさか)もそのような竹林とさほど変わるところがないというわけで、諸々(もろもろ)のお務めにこの上ないほどご熱心に励んでいらっしゃる主上(しゅじょう)までをも()しざまに(ののし)る人々すら、ごくわずかではあるものの現れる始末であった。

【脚注】

[1]ベルギー王アルベール二世の庶子であるデルフィーヌ・ボエルは、王の子と認定されるや「ベルギー王女」の称号と「殿下」の敬称を得たが、王位継承権は持たない。余談ながら、旧皇室典範では、女性皇族は降嫁とともに皇族の身分を喪失したが、特旨があれば「内親王」や「女王」の称号だけは保持することができた。


【参考文献】

・右田裕規「戦前期「女性」の皇室観」(日本社会学会『社会学評論』第五五巻第二号、二〇〇四年)

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