第四話(一)「生孫王」
【生孫王】
宣文十八年の真夏のある日のことである。明治の大御代の東京奠都以来、皇室の方々のご帰還を心からお待ち申し上げていた京都の人々は、記録的な猛暑日になるだろうという天気予報にもかかわらず京都駅前に集い、日の丸の旗を手に持って、今か今かとその時を待ち構えていた。
四年ほど前の京都行幸時よりも大々的な歓迎ぶりだが、彼らがご帰洛をお待ち申し上げるお相手は天皇陛下ではなかった。
「万歳、万歳、万歳!」
皇甥のお一人、西院宮殿下とそのご家族が駅舎内からお姿をお見せになるや、集まった人々は随喜の涙を流しながら万歳を三唱し始めた。この日は、西院宮殿下を筆頭とする八つの宮家、数十名の皇族方が京都駅前にお見えになった。皇位継承資格をお持ちの方々は一度に移動することがおできにならないので、すべてが済むまでにはかなりの時間が掛かったけれども、市民たちの多くはまるでパレードを楽しむがごとく、最後のお一人まで満面の笑みで見届けた。
永寧の聖代を契機に、赤坂御用地はすっかり手狭になってしまった。ゆえに東京付近に新しい御用地がいくつも造営されてきたのだが、それでもじきに足りなくなってしまったので、一部の皇族方におかせられては、地方へとお住まいを移されることになったのだった。
「私の宮号の由来となった『西院』の所在地であり、昔から父祖の地として偲んでもきたこの街で新たな人生を歩んでいけることを、衷心より喜ばしく思います」
西院宮殿下のこのお言葉は翌日、畿内の各紙に大きく取り上げられた。かねて皇族にお戻りいただきたいと「双京構想」などの形で要望してきた京都の人々の喜びようといったら、もちろん並大抵のものではなかった。
当時の京都市長曰く、
「歴史を紐解けば、わが国は幾度も大災害に見舞われてきました。それにもかかわらず東京に皇室の方々が集中的にお住まいでいらっしゃったことは、首都直下型地震や富士山噴火などの可能性を考慮する時、国家を存続させるうえで重大なリスクがあるものでした。この懸念を解消するために私たちの街が歴史的使命を再び担えることを、心から嬉しく思います。今日という日を喜ばない京都市民は誰一人としていないでしょう」
事実、かつての宮家や公家たちの屋敷地であり、国民公園として長く市民に開放されてきた京都御苑は、この数年前から新たな殿邸の造営地とすべく立ち入りが禁じられるようになってしまっていたけれども、そのことに不満を抱く者はほとんどいなかったのである。
同じように奈良県でも、喜びの声が各地から上がった。空き地が多いこの県では、神武天皇が即位されたと伝わる橿原市などの朝家の故地に、比較的規模の大きな御用地がいくつも造営されたのだった。
だが、全国津々浦々を見れば、京都や奈良のように雲の上の人がご増加になったことを喜ぶ人間ばかりではなかった。朝家の危機はもはや過ぎ去ったとみなが確信を抱くようになると、皇子が新たにご降誕になろうとも、世の人々の多くはそれほど関心を示さなくなった。それどころか、御代替わりを幾度も重ねるうちに竹の園がますますお栄えになると、往年の皇室ファンの中にさえも、
「過ぎたるは猶及ばざるが如し、という言葉もあるというのに」
などと眉を顰める者がいないこともないというありさまになってしまったのだった。
ご就任をお願い申し上げるべき名誉総裁職などにも数に限りというものがあるし、そもそも諸団体のほうでもできることならば皇室の中でもとりわけ中心的なお方をこそ奉戴したいと当然に思っている。皇族のお勤め先としてふさわしいとされる社団法人などの公的機関も、それほど数が多くあるわけではない。手持ち無沙汰な傍系皇族の中には、和歌をお詠みになったり随筆をお書きになったり、学問の道に進まれたりと、文化方面で大いなるご活躍をなさるお方もおわしたものの、当たり前のことながらすべての金枝玉葉が何かしらの才能に恵まれていらっしゃるわけでもない。
であるからして、皇族があまりにもお増えになりすぎると、ご公務らしいことをほとんど何もなさらずに明けても暮れても殿邸に籠っていらっしゃるというお方が、金枝花萼の御身にはどうしても多くなってしまわれるのだが、そうなると税を納めている民草の中からは面白くないと感じる者がやはり出てくるものである。中には、御用地のすぐお側にまでわざわざ足を運んで、
「やあい、生孫王!」
などと叫ぶ者どもさえあった。平安の頃の話であるが、かつての帝のお血筋でいらっしゃるにもかかわらず声望や地位が十分にはお備わりでない諸王は、藤原氏や一世の源氏といった位がお高い貴族たちから、嘲り混じりにそのように呼ばれておいでだったのである。
「今より様ことなる生ひ先は、いとゆかしげなるを、何となき生孫王にて、いと寄せなからむよりは、ただ我が物に思ひてものせよかし」――『狭衣物語』巻二
幸いにして「生孫王」などと罵る声は殿邸にまで届くものではなかったけれども、もちろん世間でそのような悪評があることを宮内庁はよく認識していたし、金枝玉葉の方々も、宮内庁を介して多かれ少なかれご存じではいらっしゃった。
けれども、今となっては遠い昔の帝とならせられた永寧天皇が、
「竹の園生にある者はみな、『これだけの皇族がいれば安泰であろう』などと油断することなく、朝家が絶えることのないように努めるべきだ。たとえ皇族が増えすぎてしまったとしても、その時には『皇籍離脱をさせて人数を調整してくれ』と政府のほうから進言してくるであろうから、わざわざ産むのを控えようとしてはいけない」
とご遺命になっていたので、それを金科玉条として墨守することこそが自分にできるただ一つの公務なのだと固くお信じになって、どのお方も暮らし向きを改めようとはなさらなかった。
皇族費が増えたといっても、国の予算に占める皇室費の比率はなおも雀の涙ほどでしかなかったので、竹の園生の御栄えようを快く思わない民草は、けっして多数派というわけでもなかった。だから、金枝玉葉の方々におかせられては、いくらかの悪評があろうとも、宮仕えの人々が拝察するほどにはお心を悩ましてはいらっしゃらなかった。
しかしながら、皇族の数が多くおなりになれば、あまり素行の宜しくないお方も出てきてしまわれるのが自然の成り行きである。実際、平安京が造営されてからまだ百年ほども経っていない貞観の頃には、時服の支給対象として認められた十三歳以上の無位の諸王だけでも五、六百人もおいでになったそうだが、それほどまでに大勢の王孫がいらっしゃる状況では、俗世で罪を得てしまわれるお方すら少なからずお現われになった。
『扶桑略記』によると、村上天皇の御代である応和元年五月十日の夜に、前武蔵権守である源満仲の殿邸に盗賊が押し入るという事件があり、調べが進むと、検非違使が夜ふけにもかかわらず参内して奏聞をするほどの大事になった。それというのも賊の頭だったのが、時の帝の甥御にあたらせられる親繁王であらせられたからである。
古くから「天暦の治」と称えられた村上帝の治世でさえそのようなお方がおいでになったのならば、後の濁世ではなおさらであろう。永寧の聖天子のお血を引かれる方々の中には、かつての親繁王ほどにはおひどくないにせよ、世の人々に「生孫王」などと呼ばれたとて仕方がないようなお方も少なからずいらっしゃった。それでも朝家をも揺るがしてしまわれるほどのお方はなかなかお現れにならなかったけれども、それも応中の御代までのことなのだった。
【参考文献】
・赤坂恒明『「王」と呼ばれた皇族:古代・中世皇統の末流』(吉川弘文館、二〇二〇年)