第一話(一)「朝家、縷の如し」
「朝家、縷の如し」
『日本書紀』によると、神代の昔、朝家の御祖神たらせられる天照大御神におかせられては、御孫にあたらせられる瓊瓊杵尊を葦原の中つ国へとお遣わしになるに際せられ、
「宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無かるべし」
と、すなわち、皇室の繁栄は天と地のある限り間違いなく続くだろう、と仰せになったそうだ。本朝史に名高い「天壌無窮の神勅」である。
さて、これをどのように解釈すればよいのであろうか。皇位が絶えることは永遠にないと約束するものの、危うげに見える時すらもないわけではない――という程度に考えるべきなのではないか。それというのも、今でこそ、竹の園生のご繁栄ぶりは誰もがよく存じ上げていることであるし、とても信じがたいと驚く人々もいるほどだけれども、かつては絶えてしまわれそうな時も往々にしてあったからだ――。
元朝期に編纂された『宋史』の「日本伝」には、次のようにある。日本では、君臣ともに同じ家が久しく続いてきた――藤原氏出身の僧・奝然よりそのように奏上された宋の太宗は、
「島夷にすぎないというのに、玉座を代々を受け継ぐことは遥かに久しく、その臣下もまた継襲して絶えない。思うに、これぞまさしく古き良き時代の理想の王朝の姿だ。中国は唐李の乱により分裂し、後梁・後周・五代の王朝は、短命であったし、大臣も世襲できる者は少なかった。朕の徳は太古の聖人に劣るかもしれないが、常日頃から居住まいを正し、治世について考え、無駄な時を過ごすことはせず、無窮の業を建て、久しく範を垂れ、子孫繁栄を図り、大臣の子等に官位を継がせたい。これが朕の心である」
とたいそう羨んだ、と。
「此島夷耳、乃世祚遐久、其臣亦継襲不絶、此蓋古之道也。中國自唐李之乱、寓縣分裂、梁周五代享歴尤促、大臣世冑、鮮能嗣続。朕雖徳慙往聖、常夙夜寅畏、講求治本、不敢暇逸。建無窮之業、垂可久之範、亦以為子孫之計、使大臣之後世襲禄位、此朕之心焉」(『宋史』列伝第二百五十 外国七より)
しかしながら、中華文明の理想とする王朝像を体現しているとみなされた皇国の朝廷とて、一切不変ではありえなかった。太宗の頃にはすでに藤原氏が長く大臣を継いでいたが、古くは葛城氏や平群氏、巨勢氏や蘇我氏といった孝元天皇の三世の孫・武内宿禰の後裔が多かったのである。易姓革命こそ起きなかったけれども、朝臣については興亡が絶えることがなかった。桓武天皇のお血筋であるというのに時の流れとともに低くなってしまっていた家格から、ほんの数代のうちに栄華を極め、
「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」
とまで言うほどになったものの、さらなる繁栄を願って豪華絢爛な『平家納経』を厳島神社に奉納したのもせんなく、春の夜の夢のごとくごく短いうちに滅び去ってしまった平家一門が象徴するように。
平家以上に忘れてはならないのが、下層より興りて天下人にまで上り詰めるも、君臣豊楽の願いもむなしく浪速の露と消えてしまった豊太閤の一門である。豊臣氏ほど極端ではないにしても、下剋上の風潮もあった戦国乱世の頃には、織田氏、徳川氏、蜂須賀氏など、多くの新興勢力が伸張した。明治以降には、元は貴からぬご出自ながらも国への功労から爵位をお得になった勲功華族が大勢おいでになった。本朝における家々の興亡のすべてを挙げようとすれば、五千本もの指をお持ちの千手観音ですらお手に余るであろう。
初代の鎌足以来、千二百年の長きにわたり栄華を保った藤原氏ですら、明治の百事御一新に伴って摂関を始めとする家職をことごとくお失いになったばかりか、昭和の大御代に至り、華族制度の廃止によって一家の例外もなくご身分さえもついには奪われてしまわれたのであるから、もしも冥界にいる太宗がこれを耳にしたならば、なんと勿体ないことをしてしまったのか、とさぞ口惜しがるに違いない。
万世一系の朝家とて、けっしていつの世もご安泰であらせられたわけではなかった。聖系のご存続を脅かしてきた問題としては、元寇などの外圧も皆無ではなかったが、最たるものはほとんど常に日嗣とならせられるべきお方がおいでにならないということであった。
わけても、江戸八百八町が専横を極める田沼意次公への陰口で満ち溢れていた頃などは、洛中のどの辺りを探してみても、延暦の聖代以来の都の嘉名にふさわしく御心の内の平安らかな公卿は、ただのお一人としていらっしゃらなかった。それまで京の都では、お健やかな皇子があまりおいでにならない聖上が何代も続けてお立ちになっていたのだが、時の後桃園天皇はご幼少のみぎりから蒲柳の質であらせられたがために、皇儲をつつがなく儲けることがおできになるとは思いがたく、いよいよ正統のご存続が危ぶまれていたからである。
野宮定晴卿曰く、
「近代皇統微々縷のごとし、恐歎にたえず」
また柳原紀光卿曰く、
「ひとえに朝家の大事、天下の安危この期にあり」
天命が尽きてしまったのであろうか、とどのつまり、中御門天皇以来のお血筋に代わって旁支の閑院宮家から新帝がお立ちになったのだが、光格天皇がお創めになったこの新たな聖統でも、あたかも薄氷を履むがごとき皇位の承継がなおも続いたのだった。
それでも、大正の御代にもなると、かつてはしきりにおありだった皇子のご夭逝も医学の進歩によってほとんどみられなくなったし、大正天皇にはお四方もの皇子がいらっしゃったから、ようやく皇統の危機は過ぎ去ったように思われた。昭和の御代には、室町以来の伏見宮のお血筋に属される五十一名もの皇族方がこぞってご身分をお捨てになるという大変事がおありだったが、異議がありつつもそれが認められることになったのも、
「これほど大勢の殿下方がみな臣籍に降下なさったとしても、きっと朝家はご安泰だろう」
という風に考えられたからにほかならなかった。
大正の帝のお血筋のみに狭められた後でさえ、金枝玉葉の御身がお増えになりすぎてしまうのではないかと気がかりに思う声が民草から上がることが少なくなかった。昭和四十三年四月三日、国権の最高機関たる国会において民主社会党の受田新吉がかくのごとく述べたことは、時代の空気をよく示しているといえよう。
「皇族に対して国家がその保障をして差し上げる経費がずぼらにどんどんふえてくるということでは、皇室に対する国民の尊敬というものにもひびが入る危険が将来あると私は思う。このあたりで、その皇室の範囲をある程度制約する規定を設けるべきじゃないかと思うのですが……。(中略)何世以下は王と称することができないというような規定にでもしておかないと、タケノコのようにとんとん――多産系の奥さまでも来られたら、もう百人、二百人という王ができる」(『第五十八回国会衆議院内閣委員会』第八号より)
ところが平成の御代に入ると、朝家の危機が昔よりもさらに深刻さの度合いを増して再び問題となった。あちらこちらに金枝玉葉の御身がいらっしゃる景色に慣れた今の世人には想像だにできないことだろうが――四十年余りも皇位継承権をお持ちのお方がお生まれにならないという、畏れ多くも皇運がもはや尽き果ててしまわれたのではないかとすら思われる状況が続き、その後もしばらくの間、揚子江の激流をたらいで下るがごとき危うげな皇位継承が続いたのである。この頃は、浮き世を儚んでばかりの仏弟子に限らず、かなり多くの民草が朝家の衰滅は必定だろうと考えていたものだった。
けだし安化の大御代こそは、天孫降臨以来の長い本朝の歴史の中で、朝家が最もお危うかった時期であったのだろう。
【参考文献】
・藤田覚『光格天皇:自身を後にし天下万民を先とし』(ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、二〇一八年)