悪役令嬢が追放された山の中で狩猟をエンジョイしていたところ、革命によって追放された元婚約者のヘッポコ王子が転がり込んできた話
じんじんと、指先まで凍りつきそうな寒さがあった。
雪は鉛色の空から静かに降ってきて、「私」の頭にも、肩にも、睫毛の上にさえ降り積もる。
「ゴフッ、ゴフッ……」
「彼」は藪の中から頭だけを出し、高鼻を上げて周囲の匂いを取った。
右、左、そして足元――と鼻先を移動させ、おそるおそる藪から出てきた。
ぶるり、と手が震えた。
寒さは、我慢しようとすればできる。
だが、本能的な恐怖――自分よりも遥かに巨大な獣に対する恐怖――それだけは、いくら鍛錬してもなかなか我慢できない。
抑えきれないなら、変換する。
襲われるかも知れないという恐怖を、気づかれたくないと気配を殺す力に。
自分の体から無意識に立ち上っている殺気さえ噛み殺し、「無」に化ける。
そうすれば恐怖は技術に転じられ、人間だけが使える武器にもなる。
のしのしと雪原に出た「彼」の足取りは、次第に慎重さを欠き始めていた。
いままで自分にまとわりついていた鬱陶しい人間の匂いがしなくなったことに、明らかに気を良くしている。
だから雪原に点在する藪伝いに歩くことをやめ、無防備にも見通しが聞いて歩きやすい雪原を歩いていく。
その先に植わる数本のミズナラの巨木の影で、私が待ち構えていることも知らずに。
私は、ゆっくりと銃を構えた。
肩に積もった雪がぱらぱらと落ちるが、「彼」が気づいた様子はない。
私は肩と頬に銃床を押しつけ、照星を覗き込んだ。
――いいか、十歩の距離さ引きつけるまでは絶対に撃つなよ。
私に銃と猟の技術とを教えてくれた祖父の教えが耳にこだました。
凍えきった人差し指を引き金に掛け、私は細く長く息を吸った。
一方、「彼」は完全に油断していた。
私に右の横腹を向け、遥か上にある山頂の方をぼーっと眺めている。
山を越えて逃げようか考え込んでいる様子だった。
彼と私の距離は、すでに十メートルを切っていた。
瞬間、私は、抑え込んでいた殺気を放出した。
「彼」がぎょっとこちらを向いた。
その黒曜石のような目が私を捉えるか捉えないか、その瞬間。
「うわああああああああああッ!!」
突然聞こえた人間の声。
その声に身体が反応し、照準が狂った。
バン! という、鉄板を金槌で一撃したような、耳障りな轟音が弾けた。
銃声は、長く長く尾を引いて山峡に響き渡った。
だが――照準が狂った弾は「彼」の足元に弾けた。
驚いた「彼」は慌てて尾根を駆け上がっていってしまう。
――一体どこの馬鹿だ!
私の渾身の一発を狂わせた大馬鹿。
私は声のした方の斜面を見た。
全身をウサギのように跳ねさせて消えてゆく「彼」とすれ違うように。
一人の人間が斜面を転げ落ちてきていた。
「あぶ! おぶっ! ……おべべべべべべべ!!」
聞いたこともない悲鳴とともに、「それ」はまるでゴミのように斜面を転がり落ちてきていた。
「それ」は、斜面が緩くなったところで落ちる速度が遅くなった。
私は銃を構えながら「それ」に近づいた。
「あぶ……あぷっ、ハァハァ……ひどい目に遭った……」
疲れ果てたような声で言った「それ」。
この寒空だと言うのに、紙と見紛うような薄いコート一枚。
しかも下半身は普通のスラックス、革靴は雪でぐしょぐしょになり、手袋さえしていない上、そのいずれもが擦り切れてボロボロだった。
どう考えてもここらの人間ではないだろう。
こんな格好でこの山に登る人間がいるとすれば、それは自殺志願者か馬鹿だけだ。
「ちょっとアンタ! 何考えてんの?」
私は、いまだに大の字になってひっくり返っている男の頭を銃床でど突いた。
「こんな雪山にそんな軽装で登るやつがいる? 命捨てに来たの? ちょっと何を――」
男はハッと私を見上げ、それから信じられないものを見たように目を剥いた。
「お――お前は――!」
私は眉間に皺を寄せて、男を見た。
途端に、とても嫌な、真っ黒い感情が心臓から全身に広がった。
この顔には――全く嫌な話だが、見覚えがある。
頭も弱く根性もヘッポコなのに、何の神の気まぐれなのか、まるで彫像のように整った、愛らしく、凛々しい顔。
そして、「あのとき」よりも多少窶れて、そして疲れているように見える顔。
妙な気持ちになった。
コイツがここにいるということは――おそらくあの後、事は私の予想していた通りの結果になったのだろう。
私は雪原よりもなお冷たい目で男を睥睨した。
「ああ――アンタだったの。だったら声をかけるべきじゃなかったわね」
私のそっけない言葉に、男は大いに慌てたようだった。
私は手のひらをひらひらと振って言った。
「あーゴメンゴメン、覚悟の自決の最中に決意を揺らがせるようなことして悪かったわね。もう邪魔しないわ。遠慮しないで野たれ死んでちょうだい」
「そ、そんな……!」
男は腹の底から情けない声を上げた。
「な、なぁ! アレクサンドラ! きっ、君がなんでここにいる!? どうして……!?」
「あによ? 私が生きてるのがそんなにおかしい?」
「だっ、だって君は、僕が二年前に追放したはずで――!」
「ええ、追放されましたとも。どっかの色狂い脳みそ海綿体のヒョーロク玉くそったれウンコバカバカバカバカの『元』王子様にね」
「元」、を強調した私の言葉に、青年の顔は青くなったり赤くなったりした。
「し、知ってたのか――?」
「何を?」
「あ、あの後のこと、僕がどうなったか――」
「国が、どうなったかは知ってる。そっちの方が、どこぞのバカがどうなったかよりも百億倍重要だわ」
私の訂正に、青年はシュンと肩を落とした。
「あんなアホみたいな笑い話、ここにいるウサギや鹿だって噂するわよ。――色恋に狂った挙げ句、一方的に婚約者を断罪して追放。その結果、公爵家という後ろ盾を失い、野心を抱いた伯爵家に国を乗っ取られた、アホでおバカなアイナル王子の話――なんてね」
青年――アイナル・リンドストランドの身体が、小さく震え出した。
「さしずめ、アンタの方もその『真実の愛』を囁いた相手に追放されたってことでしょうね。自分が愛した女に裏切られて、自分が裏切った女に会えて、これ以上なく嬉しいでしょう?」
一体コイツはなんで震えているのだろう、と私はその理由を想像した。
自分が過去に犯した、あまりにも軽率な間違いについてだろうか。
それとも単に寒さのためだろうか。
きっと後者だろう。この男には反省する脳みそも良心もありはあしないのだから。
「これでこの世に未練はないわよね? さ、感動の再会もおしまいよ。後は止めないから好きに死んで頂戴」
くるりと背を向けて歩き出そうとすると、アイナルは露骨に慌てた。
「え?! ちょ、ちょっと――!」
「何よ? まだなんかあんの?」
「助けて――くれないの?」
言うと思っていた。
私は律儀に受け答えした。
「助ける? なんで? 私が? アンタを? なんで? 一方的に裏切って婚約破棄して追放した元婚約者が目の前にいるから?」
「?」をいっぱいつけてやると、アイナルは「そ、それは――」と口ごもった。
「多少クズとグズが治ったかと思ったさっきの私を絞め殺してやりたいわ。アンタは相変わらず自分のことばっかり。アンタの軽率な婚約破棄で滅びた国のことは考えたことないんでしょうね? 自分が今できることは責任をとって野垂れ死ぬことだって理解できてないからこの期に及んでそんな口が叩けるのよ」
好き勝手罵っているうちに、だんだん腹が立ってきた。
二年前にされたことについてではなく、この男の情けなさに対してだ。
この雄大な北方の辺境に、こんな無様で情けない根性なしは存在が許されない。
否――存在すべきではないし、存在してはいけないのだ。
ガチャッ、と、私は猟銃のボルトを引いて青年の目の前に置いた。
アイナルは怯えたようにそれを見て、青かった顔が真っ白になった。
「な、なんだよ、これ――!?」
「なんだよって猟銃じゃないの。引き金を引けば鉛玉が飛び出してクマだろうが鹿だろうが一発で即死する。甚だ不本意だけどアンタに貸してあげる」
「か、貸すって――!?」
「今から王国滅亡の責任をとって死ぬんでしょう? 足の指引っ掛けて頭をぶち抜いて死ね。私が責任持って新しい王国に届け出てやるから」
アイナルの震えが大きくなった。
これでは手がブレて狙いが外れ、長く苦しむことになるかもしれない。
うん――きっとそれがいい。そっちの方がドラマティックだ。
「さぁ、気が変わらないうちに早く」
「ちょ――待ってくれよ! ぼっ、僕に死ねって言うのか?!」
「アンタの真実の愛の相手もそう言ったんでしょ? 女の願いを聞き届けるのは男の甲斐性だわ」
「まっ、待ってくれ! 僕にはやることがあるんだ!」
「やることって死ぬことでしょ? 男らしく責任を取るのよ」
「たっ、頼むよアレクサンドラ!」
アイナルは無様に雪面に這いつくばった。
「頼む! 少しでいい、助けてくれ! やることが終わったら君の言う通り頭をぶち抜いて死ぬから! だから――少しだけでいい、助けてくれ!」
「助けない」
私は取り付く島なく冷酷に言い放った。
「アンタのやることって何? どーせ民衆の支持を取りつけるだの捲土重来するだの、いもしない味方を説得して反乱軍を組織するだの、そういうどーしようもないこと言い出すんでしょ? だからアンタは今ここで頭ぶち抜いて死ねってのよ。その海綿体脳みそがこの国の歴史をこれ以上穢す前に――」
「頼む、少しでいいんだ!」
がばっ、と、アイナルは雪面に土下座した。
「君に向かって許してなんて言うつもりはない。でも、すまない――今は僕は死ねない、死ねないんだよ! 頼む、なんでもするから! 僕を――僕をどうか春まで生かしてくれ!」
後半の方は、ほとんど涙声になっていた。
私は懇願するアイナルを無視して、くるりと背を向けた。
正直言えば、少しだけ驚いていた。
顔以外は人間として0点のアイナルは、王子として蝶よ花よと育てられたために、能力に不相応にプライドも高い。
だから、この元王子がいくら現実に叩きのめされたからと言って――土下座することなど考えられないことだった。
なにかよっぽどの理由があるのかもしれない、と、少しでも考えてしまった私の方も――思えばよくよく甘ちゃんと言えた。
それに……と私は考えた。
正直、コイツには色々と意趣遺恨もある。
かつてやられて嫌だったこと、腹が立ったことがてんこ盛りだ。
しかも――今は立場が大逆転している。
こいつはおそらく、今この国で最も価値のない生命体、最底辺のその下にいる人間なのだ。
コイツを生かすも殺すも私次第なのだ。
なら、少し立場を利用して復讐してやったって――誰も咎めまい。
私はふーっとため息をついた。
「なんでもする、って言ったわね?」
がばっ、と、アイナルはべちゃべちゃの顔を上げた。
「なんでもする、なんでもするのね? たったの一度でも、嫌だとか、辛いとか、そういう事は言わない、ってことよね?」
アイナルは青い顔でガクガクと頷いた。
ニチャッ、と、私はわざとらしく嗜虐的な笑みを浮かべた。
その表情に、アイナルは気圧されたように身を固くした。
「そういうことなら助けてあげる。いい? 一度でも嫌だとか辛いとか言ったら、私がアンタを処刑するから」
ぎょ――と、アイナルが目を剥いた。
私は腰に帯びていた山刀を右手で抜き、雪面に突き立てた。
「額に穴が空いたアンタの首をこの山刀で掻き落として!」
刃渡りが三十センチほどもある巨大な山刀だ。
目の前に突き立てられた氷の刃を見て、アイナルは失禁するほどに恐れ慄いた。
「……アンタの首を手土産に王都に戻ってやる。いい?」
私が言うと、アイナルはガクガクと頷いた。
よろしい、と私が言うと、アイナルがややあってから、情けなく引きつったほほ笑みを浮かべた。
「あっ、ありがとうアレクサンドラ。こんな僕を生かしてくれようだなんて……」
「ハァ? 何言ってるの? 私はアンタを生かす気なんかないわ」
私が言い放つと、アイナルの顔から表情が抜け落ちた。
私はその顔に向かって宣言した。
「言っとくけど、私はアンタに食べ物を恵んだりしないわよ。自分の食い扶持は自分で稼ぐ。それがこの山のルール。それがどういう意味なのか――私がこれからアンタに嫌というほど摺り込んでやるから」
私はそこで、計画的に微笑んだ。
その微笑みに、アイナルは怯えたように唾を飲み込んだ――。
◆
私――アレクサンドラ・ロナガンは、ロナガン公爵家の一人娘だ。
けれど、決して蝶よ花よと育てられたわけではない。
というのも、私はロナガン公爵が見初めた北の辺境の村娘との間に生まれた妾腹なのである。
私の異母兄である男が熱病に罹って命を落とさなかったら、一生をここ北の辺境で暮らしていたに違いない――山育ちの野生児だ。
私は十歳までこの雪と岩に包まれた辺境の山で育ち、腕利きの猟師であった祖父の寵愛を受けて育った。
そして異母兄が死ぬのと同時に、私の意向など全く無視された上で公爵家に引き取られ――貴族の子女らしい教育を受け、あれよあれよという間に王子との婚約が決まった。
はっきり言って、私は嫌だった。
公爵家も、王都も、くだらない貴族の生活も。
そして頭に脳みその代わりにヘドロが詰まっているようなアホな婚約者も。
体面とか世間体とか、血筋とか、そういうものは北の山にはただひとつとして存在が許されない。
北の山では、そんなくだらないものを守るよりもまず、命を守らねばならない。
そして自分の命よりも――自然の掟を守って生きねばならない世界だ。
そういう環境に育ち、その教えを祖父から容赦なく叩き込まれた私にとって。
貴族社会での生活は苦痛以外の何者でもなかった。
何度逃げ出そうかと考えた。
何度も婚約を破棄してくれればと願った。
最愛の師であった祖父の死に目にも、私は会えなかった。
だが――そのチャンスは、十七歳の冬、突然訪れた。
◆
「アレクサンドラ・ロナガン公爵令嬢! 君との婚約を破棄させてもらう!」
私――アレクサンドラ・ロナガンは、寄宿学校の卒業パーティの席でそう宣言された。
突然の宣言に驚きの声をあげる観客たち。
こういうとき、どういう反応をするのがいいのだろうか。
泣いてみるべきか。
絶句してみるべきか。
それとも慟哭するべきか。
迷った末に、私は眉を持ち上げただけで、特別な反応を示さないことにした。
「殿下、貴方様のお気持ちは変わらないのですね?」
それはおそらく、今まさに婚約破棄されているとは思えない落ち着き方だっただろう。
案の定、アイナル王子は忌々しげに口元を歪めた。
「僕はここにいるエルシーのお陰で真実の愛に目覚めたんだ! 彼女はこの三年間、献身的に僕を支え、親身になって側にいてくれた――! 貴様のような悪女とは違ってな!」
まぁ、そうだろう。
そのエルシーとかいう小娘は王太子妃の地位と権威目当てなのだ。
いや――目指しているのはおそらくもっともっと上だろうから、カモを籠絡するためなら、親身になるどころか悪魔にだってなるだろう。
私はアイナル王子に肩を抱かれ、戸惑ったような表情を浮かべるエルシーを見た。
あどけなくて、人畜無害の塊にしか見えないいたいけな少女。
だがその目の光だけは、本人の計算高さと狡猾さを想像させる輝き方をしている。
私は別にエルシーとかいうその小娘が嫌いではなかった。
いやむしろ、隣に立っているアイナル王子よりも、この娘の方がよほど好きだった。
知恵が回ってすばしっこくて、擬態も媚態もこれ以上なく上手い。
それは山の獣には必須な要素だからだ。
「一方、貴様がこのエルシーにした暴力行為の数々――勇気を持ってこのエルシーが打ち明けてくれたぞ! アレクサンドラ、貴様は嫉妬に狂って彼女を階段から突き落としたそうだな!」
ざわっ、と、固唾を飲んで事態を見守っていた観客がざわついた。
無論、それはエルシーの自作自演であり、私には全く関わり合いのない話。
ただ、私が近くにいた時に、エルシーが勝手に階段から落ちただけのことだ。
ちら、と私がエルシーを見ると、エルシーの目が嗤った。
「貴様は今ここで断罪されねばならない! アレクサンドラ・ロナガン、貴様は未来の王太子妃であるエルシー・ジェナロ伯爵令嬢への殺人未遂の罪で、北方の辺境に追放処分とする!」
アイナル王子は高らかに宣言した。
その瞬間、私の心の底から、溢れ出るような喜びが湧いてきた。
我知らず歪んだ口から笑声が漏れてしまい、私は反射的に口元を手で抑えた。
「な――何がおかしい!」
「あ、いえ――なんでもありませんわ。殿下、繰り返しますが、北方の辺境に私を追放なさるのですね?」
私が念押しすると、アイナル王子が一瞬だけ、気圧されたように口を噤んだ。
今の今まで私を嗤っていたエルシーでさえ、私の不審な発言に少しだけ顔を曇らせた。
「あ、ああ――リンドストランド王国内ではもっとも過酷な豪雪地帯だ! 生きていけると思うなよ、アレクサンドラ!」
フッ、と、私は鼻を鳴らした。
生きていけると思うな――?
私はその言葉のおかしさに失笑してしまった。
生きていく以外、人間に何をしろというのだ。
「殿下のお気持ちはわかりました。それでは、邪魔者は消え、その北方の辺境とやらに向かう準備をするとしますか。――アイナル殿下」
私は最後にアイナルを見た。
アイナルは不審そうに私を見た。
「そのエルシー嬢と末永く、お幸せにね――」
ぽかんとしただろう二人の間抜け面は、見なかった。
私はそのまま学院の卒業パーティ会場を後にした。
その後、私は「アイナル王子直々の断罪」という権威を振りかざし、宣言通りに父に私を北方の辺境へ追放するように迫った。
どちらかと言えば物分りのいい男であった父は、アイナル王子のしたことに呆れ、そしてその追放を心から喜んでいる娘に更に呆れ果て、もうこの国は終わりだと何度も嘆いた。
しかし嘆きながらも、父は割とあっさりと、私の追放――もとい、北方への帰還に同意したのだった。
こんなことで、私は晴れて公爵令嬢という肩書きを捨てることが出来て七年ぶりに故郷に帰還し、懐かしい半農半猟の生活を再開したのだった。
それはそろそろ里からは雪も消えようかという、ちょうど今日のような、それでもまだ肌寒い日のことだった。
◆
ぎゅっ、ぎゅっ――と、新雪を踏む音が耳に心地よかった。
きん、と冷えた空気は耳に当たると痛いぐらいだが、その痛みが私を励ましてくれる。
ああ、痛みを感じる。
私はこの山の中でまだ生きている。
公爵令嬢であったときは、気を抜けばすぐに忘れそうになったその事実。
その事実を、この山は何度も思い出させてくれる。
「な、なぁアレクサンドラ。どこまで行くんだ? こんな雪山に何が――」
「黙れカス男。口の中に雪玉突っ込むわよ」
私の恫喝に、すぐ後ろを歩くアイナルは口を閉じた。
慣れていないためか、雪原を非常に歩きづらそうにしているのに、相変わらず口だけは減らない男だ。
「さっきアンタが転げ落ちてこなかったら仕留められてたのに――あのクマは私が三ヶ月も追跡してた大物。代わりに一頭でも仕留めるまでは帰らないわ」
「く――クマって?」
「脳みそに海綿体が詰まっててもクマぐらい知ってるでしょ? 人喰いグマよ」
まぁ、野生のクマは人間を襲うことなど滅多に無いのだが――。
案の定、その言葉にアイナルは息を呑んだようだった。
「ひっ、人喰いグマ――!? そっ、そんなもんを追ってどうするんだ?」
「決まってるわ。食べるのよ」
私の言葉に、アイナルは素っ頓狂な声を上げた。
「くっ、クマを食べるだって?! しかも人喰いクマをか!? あっ、アレクサンドラ、君は一体何を……!」
「黙れって言ったはずだけど?」
私の声に、アイナルはひっと口を噤んだ。
「ああもう、アンタの両膝に一発ずつぶち込んだら私は清々した気分で猟ができるんだけどねぇ。そうしないのは私が常軌を逸して寛大だからってことを忘れないで。――だいたい、アンタみたいなドシロートを連れて猟なんて普通はやらないわ」
私は辛辣に言った。
山の中では如何なる油断も奢りも死に直結する。
だからアイナルの減らず口を閉じさせたのは私の愛情である。
「それに、クマは処刑すらされなかったどこぞの役立たずよりも遥かに役に立つわ。毛皮は服や敷物になる。脂は塗り薬の原料になる。内臓や血は薬に、とりわけその胆嚢は万病を癒すとさえ言われる――そして、それは山村にとっては貴重な現金収入にもなる」
新雪は柔らかく、一歩踏み出すごとに膝まで潜ってしまう
白い息を吐きながら、私は泳ぐように雪原を歩いた。
「とにかく、代わりの一頭が獲れなかったらアンタは今日は飯抜きだからね。自分の食い扶持は自分で稼ぐ、それが私とアンタの間のルール――それは徹底するから覚悟しなさいよ」
アイナルにはその言葉の重大性がわからなかったようだ。
わかったよ、などと殊勝な言葉で答えたアイナルに内心呆れ果てながら、私たちはしばらく黙然と雪原を歩いた。
しばらく歩くと、まばらに木が生えている林にたどり着いた。
私はしばらく方角を確かめ、目当ての木の前に立った。
その木は、おそらく三年ほど前に立ち枯れたのだろうナラの老木だった。
そしてその幹には、私の胸ぐらいの高さに、大きなウロが口を開けている。
穴の感じから言って、まず間違いなくアタリの穴だろう。
「さ、着いたわよ」
その言葉に、アイナルが不思議そうな顔をした。
「つ、着いたって――?」
「ここにいるのがアンタの夕食よ」
私は親指で上の穴を指差した。
このアホにはその言葉の意味がわからなかったらしい。
「ごめん――どういうことか全然わからないや」
「ならわかるように説明してあげるわ。冬眠って知ってる?」
アイナルは頷いた。
「この中にはその冬眠中のクマが眠っている。今からそれを叩き起こして撃ち取る。撃つのは私。撃たれるのクマ。アンタの役は?」
訊ねてみても、アイナルは相変わらず整った顔をぽかんとさせるだけだった。
ややあって、降参したように首を振る。
「決まってるわ。この幹を蹴っ飛ばして、中で眠ってるクマを叩き起こすのがアンタの役目よ」
その一言に、アイナルはぎょっと目玉をひん剥いた。
「ぼ、僕が――!?」
「当たり前じゃない。何のために連れてきたと思ってるのよ。クマがちゃんと起きて、この穴から顔を出すようにしてよね」
「そっ、そんな馬鹿なこと、できるわけ――!」
私は猟銃のボルトに手を伸ばした。
その動作に、はっとアイナルは言葉を飲み込んだ。
「何?」
「い、いや、なんでもないよ――」
「じゃあ始めましょう? アンタは大騒ぎしながらこの木の幹を思いっきり蹴飛ばす。そしたらクマが出てくる。いい? クマが出てきたら絶対に騒ぐんじゃないわよ。騒いだら――」
かつっ、と歯がぶつかる音を立てて、私は大きく開けた口を閉じた。
敢えて言わないほうが、このアホには伝わるだろう。
案の定――絶対に騒がないと言うようにアイナルは何度も頷いた。
「さ、始めてちょうだい」
私は有無を言わさず命令し、十メートルほど離れた場所に立った。
それを見て、アイナルが少し戸惑ったように私を見た。
「……何よ?」
「いや、あの、アレクサンドラ……僕はともかく、君はちょっと近すぎないか?」
「だから何? 銃は近い方が当たりやすいのよ」
「それはそうだけど……」
それでも、なにか言いたげにアイナルは私をチラチラと見る。
どうにも――私を心配してくれているらしい。
このナヨナヨの男にも一応甲斐性と呼べるようなものは少しだけ備わっているらしい。
私は少し可笑しいような気持ちで言った。
「ご心配なさらず、元王太子殿下。あなたに心配されるほど私は堕ちちゃいませんわ。それに、こういうのは慣れっこですの」
「いや、それはそうなんだろうけど――だって、君にもし万が一のことがあったら……僕が死んじゃうじゃないか」
――前言撤回だ。
「もう黙れ、口を閉じろ。鼻の穴の数増やすわよ」
冗談ではない声で言って、私はガチャリと音を立てて装填ボルトを引いた。
その所作に、アイナルはひっと悲鳴を上げた。
私は銃を構え、銃床を肩と頬に当て、照星を覗き、ぴたりと穴の出口に添えた。
「さ、いつでもいいわよ。思いっきりやってちょうだい」
私がそう宣言すると、アイナルはなんだか夢遊病患者のように木に向き直り、木のウロを見上げ、じれったくなるほどの時間をかけて、右足を持ち上げた。
どすっ、どすっ……と、一体何に遠慮しているかわからないぐらいの優しさで、アイナルは幹を蹴った。
「お、おーい……おーい……」という声は、とても獣を追い出そうとする人間の声ではない。飢えて死んだ亡者の恨み声だ。
当然、私はこめかみに青筋を立てて怒った。
「ふッざけんじゃないわよ! そんなんで寝てるもんが起きて出てくるわけないでしょうがッ!!」
私の一喝に、ヒィ、とアイナルは肩を竦めた。
「アンタの股の間にはちゃんと男の証明がぶらさがってんの!? それとも追放された時に落としてきたのかしらッ! 真剣にやれ! もっともっと騒いで騒いで蹴っ飛ばしなさいッ!」
私の罵声に、やっとアイナルはその気になったようだった。
ぐいっ、と覚悟を決めたように目を剥き、アイナルはやけっぱちの大声を出した。
「くそ……ちくしょう! この獣めッ! 出てこい! 僕が相手だッ!」
ゴス! ゴス! という、先程の何倍も強い蹴りに、ナラの古木が揺れた。
と、その時。
ゴフッ、という、木のウロから発した声に、アイナルが固まった。
ぬ――と、赤茶けた塊が穴から出てきた。
思わず、私の方も息を呑んだ。
これは――なかなかの大物だった。
冬眠を前に散々食い散らかしたと見えて、脂肪が使い切られてぶよんぶよんと皮が弛んでいる。
それでもおそらく二百キロは下らないだろう――山の主の姿だった。
さっ、と、私はアイナルを睨んだ。
完全に色を失っているアイナルは、私の視線にガクガクと頷いた。
このタイミングで一声でも騒げば、クマは鬱陶しい闖入者がすぐ眼下にいることを悟るだろう。
そうなれば齧られる、もしくは殴られるぐらいはするかもしれない。
当然殴られれば――このヘッポコ元王子唯一の美点である顔は二目と見られないほどに弾けるに違いない。
無論、そうなる前に仕留めるつもりではあるが――本人がこの恐怖に我慢できるかは別の問題だ。
これで音を上げて逃げ出すならそれもいいだろう、私はそんなふうに考えていた。
だけど――アイナルは意外なぐらい頑張っていた。
握り拳を握り締め、必死に歯を食いしばり――絶対に騒ぐなという私の言いつけをバカバカしいぐらい守っている。
クマは、越冬穴から顔を出し、黒い鼻先をひくひくさせながら左右を窺っている。
既にアイナルの顔は蒼白を通り越して土気色になっている。
強く閉じた目からは滝のように涙が溢れ、鼻水と合流して顎の先から滴り、雪面に穴を穿っている。
なんでギブアップしない?
私は照星から目をそらさずにアイナルを見つめた。
この山は最初からアンタを歓迎していない。
恐怖に耐えかねたアンタが奇声を上げて逃げ出し、どこぞで野垂れ死ぬのを待っている。
弱いもの、覚悟のないもの――つまりアンタのような奴は、端からこの山には生存が許されない。
色恋に狂って国を滅ぼし、死に場所をも弁えられないアンタがここに存在するなんて。
そんなことは私が許しても山の神が赦さないだろうに――。
その忍耐をいくらなんでも不審に思った途端、アイナルが呻いた。
「エヴァリーナ……」
はっ、と、その声に私の集中力が途切れた、その途端。
私が慎重に消していた気配が辺りに拡散し、山の隅々まで広がったのがわかった。
「ガォーン!」
凄まじい咆哮が巨熊の口から迸った。
クマはその巨体に似合わない身軽さで地面に降り立つと、アイナルには目もくれずに私に向かって突進してきた。
くそっ、と私は毒づいた。
ついつい殺していた気配を悟らせてしまった――その後悔とともに、私は射撃体勢を中断して横に翔んだ。
くるりとトンボを切った私の横を、小山のような巨体が行き過ぎた。
目標を逸し、踏ん張って制動をかける間に――私はすぐさま片膝をつき、クマを射程に入れた。
「アレクサンドラ……!」
アイナルの悲鳴が聞こえた。
私はその悲鳴すら意識の外にして――クマの脇腹、前足の付け根を狙った。
『撃つ時ぁ、毛の一本一本を撃ち落とす気持ちで撃てよ――』
わかってる、わかってるよ、じいちゃん――。
何度も繰り返し刷り込まれた教えを諳んじながら――私は搾るように引き金を引いた。
タァーン――と、銃声が極寒の山に長く尾を曳いて木霊した。
ブシュッ、と、脇腹から吹き出した鮮血が、雪面を穢した。
そのまま大熊はごろりと横倒しになり――三歩ぐらいの距離の斜面をズルズルと滑り落ちて――止まった。
ほう、と、私は詰めていた息を吐き出した。
ボルトを引きながら慎重に近寄り、筒先をクマの眉間に落とした。
バナナの房のような爪がぞろりと並んだクマの前足は――開いていた。
完全にクマが絶命した証拠だった。
「――よし、勝負だ!」
私が猟の終了を宣言すると、アイナルが雪原にへたり込んだ。
アイナルはガチガチ奥歯を鳴らしながら、ああ……と、嘆くように嘆息した。
「死ぬかと……死ぬかと思った……!」
それは、心から己の生を喜ぶ人間の声だった。
かつての私も何度も抱いたその感想に、真に不本意ながら――私は笑ってしまった。
「はい、ごくろうさん。こんなこと言うのもナンだけど――結構頑張ったじゃない」
私がアイナルをねぎらうと、うう、アイナルは自分の腕を抱き、静かに嗚咽を漏らした。
瘧のような震え、とはこういうものか。
全く制御できないらしい奇妙な震えがアイナルの全身を揺らし、頭がガクガクと揺れる。
その尋常ではない様子に、私も少し不安になった。
「ちょ、アイナル……」
私がその顔を覗き込むと、「エヴァリーナ……!」という呟きが食いしばったアイナルの歯の隙間から漏れた。
「エヴァリーナ……妹――僕の妹――! 彼女を助けるまで、絶対に死ねない……僕は死ねない……」
絞り出すような声に、全く嫌な話なのだけれど――言葉を飲み込んでしまった。
ひぃん、と情けない鳴き声を発して、アイナルはガタガタと震えた。
「エヴァリーナは今……人質として宮殿に幽閉されてる……彼女は……何も悪くないのに。僕がくそったれの馬鹿じゃなかったら……彼女があんなことになることはなかった。伯爵家は……僕を処刑すらしてくれなかった。僕に――それだけの価値がない男だから――」
ひぃんひぃん、と子供のように、実質中身は子供であるアイナルは泣き喚いた。
「僕は……僕は妹を助けたら……死ぬ。いや、エヴァリーナの解放と引き換えに、伯爵に処刑されに王都に……戻るつもりだ。冬が明けて……都に歩いて帰れるようになるまででいい……」
アイナルはもう一度、雪面に額を擦りつけて、心の底から泣き喚いた。
「頼む――誰でもいい、神でも悪魔でもいい、僕を……僕を生かしてくれ……! それまででいい、今は……今は死ねないんだ……!」
その言葉に――。
私は先程のクソ忍耐の理由を察してしまった。
エヴァリーナ、か――。
私は自分以外の口から、二年ぶりにその名を聞いた。
十歳ぐらいからこのアホの婚約者だった私にとっても、彼女は妹同然だった。
妾腹で、色々と妬みややっかみも投げつけられた中で、彼女だけは私の味方だった。
否――彼女は、そもそもこの世に敵や味方というものさしで人を見ない人だった。
兄とは全く似つかわしくなく、清廉で賢くて、慈愛に満ちていた美しい少女。
確かに――伯爵家にとっては、このボンクラよりも彼女を手元に置いておいた方がよほど価値があっただろう。
なるほど、さっきのクソ忍耐は、あの子のためだったか――。
雪崩が起こるのではないかと心配になるほど、アイナルの嗚咽は大きかった。
一頻り泣かせた後、私はレバーを戻した猟銃の筒先でアイナルの頭をどついた。
「いつまで泣いてんのよ。腹が減って下山できなくなるわよ」
アイナルが、雪でべちゃべちゃになった顔を上げた。
「春まで生きるんでしょ? だったら食べて、寝ないと。殺されに戻る体力を養う、それが今のアンタにできる全て。だったらちゃんと食ってたくさん寝て、立派に殺されなさい」
私の言葉に、アイナルが焦点の合わない目で私を見た。
「生かして――くれるのか?」
「それは私が判断することじゃない。この山が判断することよ」
私が苦笑すると、アイナルは絞り出すように言った。
「すまない、アレクサンドラ……僕は……」
「もういいわ、どうせお互い、許せないし、許してもらおうとも思ってないようだし。さ、さっさとこのクマを里に降ろすわよ」
えっ? と、アイナルが顔を上げた。
「降ろす? ここで解体するんじゃないのか?」
「バカね、もう昼過ぎよ? 今からここで解体して山を降りる頃には日が沈んでるわ。そうなったらふたりともあの世行き決定。ささ、アンタがこいつを引きずって降ろすのよ」
ええっ!? とアイナルが情けない悲鳴を上げた。
「僕が――僕がこんなデカいのを降ろすのか!? そんな事できるわけが――!」
ガチャッ、と、私は猟銃のボルトを上げた。
その冷たい機械音に、アイナルが慌てて言葉を飲み込んだ。
「……今なんて?」
「い、いや、なんでもないです……」
アイナルはぶるぶると首を振った。
はぁ、と、私は未だに雪が降り止まない曇天を見上げた。
全く――この山におわす山の神は、こんなフニャチンのどこを気に入ったのか。
顔はいいけど、頭が悪くて、甲斐性なしで、性格も最悪のこの元王子のどこを。
しかもそれを因縁深い私の前に連れてくるなんて――一体どういう気まぐれなのだろう。
そしてコイツは、追放からも何故かしぶとく生き残っていたこいつは、春まで生きて死ぬ。
どうせいずれは死ぬ人間を、何故この山は生かしておくのか。
そして私はそのとき、いくら憎い相手とは言っても、果たして笑顔で行ってこいと送り出せるのか――。
そこまで考えて、私は首を振った。
いや――考えても詮無いことだ。
山の神は与えもし、奪いもし、その采配は誰にもわからない。
私たちは山の神の気まぐれによって死んだり生きたりするだけ。
だったら、こいつもその通り、遅かれ早かれ生きたり死んだりするだけだ。
それでいい、と私は思った。
どうせ人間には生きていく以外、やることなどない。
だったらその日まで生きればいいだけなのだから。
「アレクサンドラ……?」
思わず笑顔になっていた私に、アイナルが少しだけ不思議そうな顔をした。
ここまでお読み頂きありがとうございました。
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