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シュレッダーの私は鯨の同僚の夢を見る

作者: とばり

屋台と聞いて思い浮かべるものは何だろう。

ラーメン、焼き芋、はたまた金魚?

いや。違う。絵画だ。

この街では夜になると、大きな鯨が空を泳ぐ。

その鯨は、…目の前のデスクに座る同僚の、絵画の屋台らしい。



無骨なグレーのワークデスクから立ち上がって、私はシュレッダーに紙束を突っ込んだ。効きにくいボタンに全体重を載せると、差し込み口のランプが緑色に光る。低い機械音を立てて、紙は無造作に砕かれて飲み込まれていく。

機械的な作業、機械的な処理。私の仕事もこんな感じだ。

「すみません、…これもお願いします」

にゅっと視界の端から差し入れられる書類、遠慮がちを装う声。良いですよ、と軽やかに答える。ありがとうございます。会釈。

私は、こういった事務的な受け答えだけは得意だ。

オフィスの端っこのシュレッダー。淡々と同じ仕事をこなす姿には、憧れたり、こうはなりたくないと思ったりする。


仕事は面白くも、つまらなくもない。

でも、何にも感じていないわけじゃない。喜びと悲しみが、交互に波になってやってくるから。

デスクに戻ると、緩くなった紅茶がカップの底の方に溜まっている。目の前のデスクの持ち主は、戻ってきた私に目を向けずに黙々と作業をしている。キーボードの上で踊る指先、普段通りの伏せた睫毛。鼻歌なんて聞こえてきそうな様子で、いつも仕事をしている。たまに、本当に歌っていることさえもある。この人の周りはいつも明るい。


「あの、…」

一回目の呼びかけは、キーボードの打鍵音に紛れて溶けた。もう少し大きな声で、もう一度呼びかける。

「なんでしょう?」

少し伸びた前髪、疑問の形を描く眉、眼鏡の奥の深く澄んだ瞳。この人は、このオフィスに似合わない。

「ええと、…その、勤務予定表の書き込み、お願いします」

「あっ、すみません。忘れてました」

「すみませんが、よろしく、お願いします」

どうして、他の人と同じようにすることができないんだろう。社会人として上手くやっている、と演じるフリしかできないんだろう。

(聞きました、絵を描かれるんですか?)

これだけなのに。口が動かなくなって、喉に言葉が詰まって、崩れて、お腹の中に落ちていく。そんな言葉が降り積もったせいなのか。仕事終わりは何となく満腹だ。お腹にたまったものを、シュレッダーみたいに捨てられたら良いのに。

今日こそ聞こう。明日こそ聞こう。

その誓いは、今週中に聞こう、今月中にきこう、と延びていく。

納期と違って、守らなくても誰も困らないから。そんな言い訳と共に。


(やっぱり今日も言えなかった)

残業の後の街は、静かだ。帰路を急ぐ人の足音がまばらに響く。車のヘッドライトは足元を照らしながら遠ざかる。

一人でカードキーを通して帰ると、よりお腹は重くなる。先に帰る同僚たちの、今日はどうだった?この後どうする?なんて聞きたくない会話を聞く羽目になるからだ。

どう、のなかに私はいない。それだけなのに、胸が石のように固くて重くなる。固い部分が増えて、段々と、私はシュレッダーになっていく。すぐ折れる芯、乱雑な消しゴム、皺を増やすメモ用紙。

(誘われても、行く気はないし)

虚しい。お腹に溜まるものも屑ばかり。

コンビニ弁当で適当に身体を誤魔化して寝るだけの夜。

(だから、誘われなくていい)

本当の気持ちは分かっているのに、自分を騙すためだけにする言い訳は、苦しい。意味がない、と思う。


「あ、…」

突風。

生ぬるい空気がかき回されて、道に打ち捨てられたビニール袋や木の葉が海底の藻のようにざわつく。

上空の冷たい新鮮な空気が、誰かが吸って吐いた、地を這う空気と混ざり合う。


「来た」

予報にない突風に、目を細め襟を立てる人々。私だけが空を見ている。鯨は全員には見えない。

そして、ゆっくりと鯨の頭がビルの真上に現れた。

(いつ見ても、大きい)

流線型のシルエットは暗い、真夜中になっても薄明るい都会の夜空よりも。

一枚ずつ絵画を入れた木製のフレーム同士の触れ合う音が、通り雨となって降り注ぐ。雑踏をかき消し、巨大な影を落として、鯨は泳ぐ。

あの人は、どこにいるのだろうか。私に見えるのは鯨の腹、漆黒と黒の縞模様。

橙色の笑顔を形作る、深い茶色と薄桃の唇。

しかし、目を凝らしても、キャンバスの一枚一枚に何が描かれているのかさえ分からない。

(私も、乗ってみたい)

かき分けられた雲は夜空に溶ける。尾びれは街路樹をあおぐ。雨音と暴風に混ざった鯨の歌が響く。


雨の中を私は進む。鯨の腹の下に潜って、波に翻弄される小魚になった人々と、揺れる海藻のような街路樹を縫って行く。

だんだんと鯨は私を追い越して泳いでいく。黒いシルエットの尾びれも掴めずに、私は置いていかれる。


マフラーを外してカバンに巻きつけて、額の汗を拭った。

こんなに歩いたのは、初めてだ。私にも、こんなにも追いかける力があるのだ。

それは、シュレッダーのランプくらいの希望の星なのかもしれない。

(明日は、)

明日は、言おう。そして絵画を一枚、売ってもらおう。

埃っぽい街並みの中で、くすんだ誓いを握りしめる。

誤字脱字がありましたら教えていただけると幸いです。

アドバイスも欲しいです、よろしくお願いします!

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