日常との別れ、それは突然に
深夜の海。
羽条英弥という名の、当年取って二十八歳となる男性は、近所のラーメン屋での長時間勤務を終えて夜、岩場へ出てくるアワビをせっせと捕っていた(密漁)。
海へ飛び込み、しばらくして波が打ちつける岩礁地帯へ顔を上げ、戦利品のアワビが大量に入った網袋を担ぎ、全裸で服を置いている近くのテトラポット周辺に戻ると、またひと仕事を終えたといった満足そうな顔でまずはトランクスへ足を通す。
学生時代に『キックの鬼』と呼ばれた沢村忠へ憧れてキック・ボクシングの道に打ち込むも、まるで芽が出ず今は本業のラーメン屋でのアルバイト代で日々を過ごしているが、それだけではさすがに生活がちょっぴり苦しい彼にとって、このアワビ漁(密漁)は良い小遣い稼ぎであった。
今までにも何度か危うく警察の御厄介になりそうになったことはあったものの、そんな地元漁師や警察官さんたちへの迷惑も顧みず、彼は今夜も上々な自身の仕事ぶりに満足しつつ、着替え終えたそばから大量のアワビを背負い、堤防の上に駐車している自前のスクーターへ戻ってゆく。
英弥は天涯孤独の身である。
そのうえ大した学も無く、大した能力も仕事も無い。しかし日々を食いつないで生きてゆかねばならないということ自体に世間の人間との違いは無い。
ゆえに頼れるものは己自身の才覚と行動力のみ。
ただ、その才覚と行動力の使い道がアワビ漁(密漁)というのは一般常識的に、とてもではないが褒められたものではないのが残念なところであるが。
などとしているうち、英弥は重くて後輪が沈み切るほどのアワビが詰まった網袋をスクーターの後部へ手慣れた様子で縛り付け、夜の道を疾駆する。
せっかく大漁だったとはいえ、地元の漁業関係者や警察のお人に見つかってしまえばそれこそ、元の木阿弥である。
そのため、この日の英弥もスピードを出して急ぎ、家路を目指していた。
のだが。
そのような荒い運転が原因であったのか、それとも単に運命の巡り合わせがそもそも、そういう結果を決めていたのか。
数分ほど堤防の上を順調に走っていた彼の身に突如、強烈な浜風が横殴りに吹き抜けた。しかも海側に向けて。
これに、ただでさえ大漁だったせいで重いアワビの網袋が車体バランスを崩しやすくしていたところへ加えて吹いてきた強風に、もはやそれは当然の帰結とばかりに英弥のスクーターは制御を失い、前輪がスリップを起こして堤防側に突っ込み、見事な横回転でガードレールを越え、そのまま転げ落ちる形で海へとダイブしてしまった。
ドボンと派手な水しぶきを上げて落ちていった英弥は、運が良かったのか悪かったのか、ちょうど浅瀬と浅瀬の中間にあった深い場所へと、ものすごい速さで沈んでいったせいで岩場に当たって絶命、という最悪のシナリオだけは回避できたものの、もちろんのこと窒息でもしてしまわないうちに早々、ここから這い出て陸地へ戻らねばならない。
しかし、最悪というものにはさらにその上をいく最悪というものがある。
突然のことで息継ぎもろくに出来ていない状態で飛び込んでしまった海の中、英弥の肺に残った酸素残量は微々たるものだった。
岩に激突して死亡という展開は避けられたが、このままではそれよりかは多少マシかもしれないが、溺死という展開がまだ残っている。
そのため英弥は必死に、そして一刻も早く、この海から陸へと上がらねばと全力で泳ぎ、急浮上を試みたものだが、そこで彼に残酷な運命の女神が微笑んでしまった。
なんと、彼の足にアワビの入った網袋とスクーターを結ぶ数本のベルトが絡まってしまい、いくら力いっぱい両手を掻いて海面を目指しても、そんな英弥の足掻きを嘲笑うかのように、彼の体はスクーターと大量のアワビの超重量に引っ張られ、どんどんと海面とは正反対の、海の底へと誘われてしまう。
そんな間にも、呼吸も叶わず少しばかりと残った彼の体内に残存していた酸素は急速に失われ、意識は見る見る遠のいてゆく海面と同じく薄れゆき、ただでさえ夜の闇に包まれて暗い水底の闇は、さもまるで英弥を飲み込むように広がっていった。