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アカウント・デイ

 8時を回って間もなくプガッティはやってきた。ベルベットはかなり警戒した様子で玄関まで出迎えに行ったが、エヴァレットの反応を見て剣を収めた。文字通り彼女は小刀を背中に隠していたのだ。

 とりあえず食堂に通して、サフォンが熱い紅茶を淹れてくれたので座って話に入った。

「夜行便で来ましてね、夜中に着いて空港のベンチで一眠りしなきゃならなかったもので、もう背中がガチゴチですよ」プガッティは黒いウールのコートをかけて椅子に座った。中はいささかくたびれたベージュのスーツだった。

「きちんと眠っていないわけだ。どうりでピンピンしている」エヴァレットは言った。

「ええ、普段なら熟睡中の時間でございます」

「ニュースを見たか?」

「ゼーバッハの?」プガッティは目を丸くした。

「その手下の」

「殺されたという?」

「そう。なるほど、あなたもやはりその手の人材を雇っていたか。昨晩というから、直接ではないのだろうが」

 ニュースによると、警察が指名手配をかけたゼーバッハの部下6人が延べ50人ほどの暴徒に襲われていずれも撲殺された。昨晩22時から24時にかけての出来事だ。うち1件では見かけた警官が止めに入ったものの叩き出されて軽傷を負い、加害者のうち20人あまりは暴行と公務執行妨害で現行犯逮捕されたという。ファイトを強制されたりカジノでスッたりした恨みによるものだろうと複数の局が見解を示していた。背後に組織的つながりの感じられない加害者集団だということらしい。だが実際には誰かがけしかけたのかもしれない。

「んん? 私が手を下したとお思いですか」

「違うのか」

「滅相もない。私は清廉潔白なビジネスをモットーとしております。用心棒こそおりますが、攻撃的な任務は決して与えない。誰がやったか、ということであれば、おそらくこれが参考になるでしょう」プガッティはジャケットの内側に手を入れて小さく畳まれた手紙を取り出した。封はなく、ギグリとエヴァレット宛てで、赤インクで「親展」と手書きしてあった。

 開いてみるとサインはリリスだった。

「事情の把握と情報部の説得に時間がかかってしまいました。これが無用なお節介にならないことを祈ります」と簡潔に記してあった。

 なるほど。

 小規模ながらベイロンにも諜報機関がある。今はシュナイダーの配下なのであえて頼ることはしなかったが、今のリリスの立場ならミア・グライヴィッツを介して頼ることができるわけだ。

 さしずめ局員を送り込んでゼーバッハに恨みを抱いている人間を集めたのだろう。

「そうか、リリスが救ってくれたか……」エヴァレットは手紙を畳みながら少しだけ目を瞑った。

「新女王もなかなかの手腕ですね」

「読んだのか?」

「いいえ。しかしこのタイミングで私に伝言を頼むということはそういうことでしょう」

 やはりどこか知りすぎている。食えない男だ。

「まあいい。ホテルを押さえたというのは。買収か?」

「いえいえ、いいえ。それに関しては金は使っていません。何というか……いわば、交換です」

「交換?」

「ええ」

「元々のオーナーと仲が良かったと」

「ええ、そんなところです。ですからあなた方にも紹介差し上げた。ゼーバッハとの因縁を存じ上げなかったのは本当に不覚の限り」プガッティは思い出したように深々と頭を下げた。毛の薄い赤ん坊のようなつむじがこちらに向けられた。

「いい、いい。その件はもう。そういうことならホテルに戻ろう。いつまでもブンドに迷惑をかけているわけにもいかない。ギグリに伝えてくるから少し待っていてくれ」

「私も――」

「寝起きは恐いぞ」

「……ええ、では、はい」プガッティは持ち上げかけた腰を下ろして額を拭った。

 エヴァレットは紅茶を飲み干して食堂を出た。


 寝室にはサフォンが先に来てギグリもすでに体を起こしていた。眠そうなだけで体調は良さそうだった。

「プガッティがリリスの手紙を持ってきましたよ」エヴァレットは手紙を半分開きながら渡した。

 ギグリはぱっと目を通した。

「そう。なかなか上手くやってくれたわね。単に消していたら私たちに疑いがかかっていてもおかしくなかった」

「ホテルももう安全ですよ」

「ええ。戻りましょう」


 プガッティは裏手に止めてあったバンとワゴンを回してきた。どう見ても軍隊上がりの手下が4人くらいついていて、彼らに囲まれるとプガッティ本人はまるでおもちゃかぬいぐるみみたいだった。

 ワゴンの方に荷物を詰め込んでバンに乗り込み、ベルベットに礼を言って集会所をあとにした。

 厚い雲が点々と流れ、陽射しが照ったり翳ったりしていた。ハトの群れが黒い影になって雲や太陽光線を縫うように飛び回っていた。

 ギグリは2列目に座り、助手席のプガッティと金の話を始めていた。

「ええ、すでに200万、ベイロンの口座に振り込んでいますよ」

「ゼーバッハの遺産はどれくらいになりそう?」

「それを見越しての100万です。私の約束分の100万に足して200万。私の残り100万とゼーバッハの関係者から集めるいくらか。それは後ほど用意します」


 ホテルは以前と同じ部屋だった。すっかり掃除されて売り物のように整然としていた。

「さて、金勘定ね」

 ギグリはまずモラブチェクから預かった小切手をテーブルに並べた。10万リブラが20枚で200万。

 次にLBCの手形。これは100万が1枚。

 ここまでプガッティの200万と合わせて500万。プガッティの残り100万を入れると600万。目標の800万まであと200万だが、ゼーバッハのシマからの取り立てだけでは届かないだろう。

 マグダがすっと立って、5分ほどして戻ってきた。封筒を詰め込んだリネン用のバスケットを抱えていた。ホテルが預かってくれていたものだ。

「これがありますよ」とマグダ。

「小口を受けると返すのが大変なのよね」ギグリは溜息をついて少し間を置いた。「まあ、仕方ないか」

 封筒は200ほどあった。うち3割ほどが大なり小なり出資の申し出だった。単なる申し出もあればすでに金券が入っているものもあった。エヴァレットとトルキスで集計、ギグリは確認の連絡を分担した。あとの7割はほぼ応援のファンレターだったので、開封したものをサフォンが集めて1つ1つ読み上げてくれた。それはなかなか楽しい時間だった。

 あまり期待していなかったものの、金券入りで計30万、申し出だけの方も額面で50万を超えていた。しかもギグリが電話したところで大幅な増額を約束したところが2件あり、合計すると116万余りになった。200万に届くなんて期待していなかったわけだから、十分すぎる成果だった。

 午後は各々横になって体を休め、マグダだけは念願のショピングだ街歩きだと言って自作の服で近場へ出かけていった。


 夕方になるとプガッティが再びやってきて、ゼーバッハのシマ回りの成果を報告した。あまり晴れ晴れした表情ではなかった。顔は脂汗でテカテカしていた。

「ソレスの商人はなかなか手強いですよ。慎重にやりましたが、まるで動じない。合わせて30万が限度です。それ以上はこちらも危ない」

「いくらあなたを通しているといってもバックにいるのは私たちだものね。あまり反感を買うのは得策じゃないわね」

「すみません」

「でも30でしょ。合わせて650万近くにはなる」

「目標は800万でしたか」

「目標はあくまで目標よ。多少足りなくても削りようがないわけじゃない」

「十分開催できる、と。私をせっついておられるのですね」

「そう聞こえたかしら。でも、そうでしょう、ゼーバッハの分も含めればあなたは実質半分近くも出資することになる。あなたの大会といっても過言ではないわね」

「いいえ、そんなことはございません。あくまでも猊下のものでございますとも」プガッティはそう言いつつごくんと唾を飲んだ。「でも開催場所が決まっていないのでは?」

「ああ、そうだった」ギグリはわざとらしく手を合わせた。まるでそう訊かれるのを待っていたみたいだ。「誘致の手紙も何通かあったわね」

「6通あります」サフォンが答えた。「……私たちの電報を入れると7つですけど」

「トルキス、市長に連絡がつくかしら」

「あら、そういうことなら電報を打ちますよ。きっとすぐかかってきます。でもアルピナでの開催は考えていなかったんじゃ?」トルキスは電話に手をかけながら訊いた。

「ええ。アルピナではね」

 おそらくギグリはここ数日その問題についてかなり考えていたのだろう。そういった返事だった。


 トルキスの言った通りアルピナ市長からの電話は15分程度でかかってきた。案外元気のいい若い男で、まるで掃除機の売り子みたいに溌剌とした喋り方だった。エヴァレットが電話を取ったのだ。

 ギグリはまずアルピナの環境にレース機の騒音や大勢の観衆の受け入れはふさわしくないと説明した。

「市長は生まれも育ちもアルピナでしょう? ええ、もし納得がいかないならベイロンに来てみるといいわ。大会当日ではなくて、そう、期間中の平日に。どのチームも調整のためにひっきりなしにエンジンを回したり飛行機を飛ばしたりしているもの。うるさく感じないとすればそれは周りの街の方がうるさいからよ。でもアルピナは全体として閑静な島でしょう。それはあなたが一番よくわかっているはず。……ええ、いいえ、それで1つ訊きたいの。アルピナは建設途中の島よね。周りにもそういう島があるか知らないかしら。もちろん居住可能性なレベルでなくてもいいのよ。甲板さえ小さくてもしっかりしていれば、インフラは持ち込みでも構わない。つまり、私が言いたいのは、シーズン中にキャンプを置く島がないか、ということ。基本的に各チームにはそれぞれのホームで活動してもらって、シーズン中だけキャンプに集まるの。レースそのものは1日でも半日でも別の島を借りて開催すれば集客にも困らない。年に1日か2日くらいならアルピナで飛ばすのも悪くないと思うのだけれど、どうかしら」

 アルピナは建設中に工事が放棄されたままの島だ。放棄は立地の問題によるものだから、並行して建設されていた島が周囲にもあるのではないかと踏んだのだ。妥当な案だろう。

 ルフトの諸侯には主権範囲の線引きがない。いわば国境がない。人も住まず利用価値もない地上の領有を定める意味がないからだ。諸侯はただ管轄の島を中心とした半径約60kmの空域を自由に利用できる権利を持っているに過ぎない。

 したがって住民のいない塔は管轄が定まっていないものも多く、特に航空産業の盛んでない地域にはその傾向が強い。

 おそらく前向きな返事をもらったのだろう、ギグリは電話を切った。

「いくつか心当たりがあるから甲板の強度調査をしてみると言ってたわ。その結果次第ということでいいかしら」

「はい、そういうことなら」プガッティはやや緊張したまま答えた。

 案外彼もまだ金の工面ができていないのかもしれない。いくら資産があっても大金をキャッシュで用意するのはそう簡単ではないというのはままある話だ。


 プガッティはサフォン親子のためにも1部屋用意していて、ボーイを呼んで案内させつつ自分も出ていった。ゼーバッハの件が半日で片付くとも思えない。まだやり残していることがたくさんあるはずだ。

 部屋に3人になったところでギグリはエヴァレットを寝室に呼んで隣に座らせた。

「今日のことなんだけど」ギグリはすぐに切り出した。ベッドのスプリングがまだ跳ねていた。

「ゼーバッハの?」

「いや、サフォンのことよ」

 何の話が始まるのだろう。エヴァレットは見当がつかなかった。

「あそこまでできるという自覚は私にもなかったのよ。あんな大規模な奇跡、今まで使ったことがなかった。はっきり言ってダメもとだったのよ」

「僕は信じてましたよ」

「冗談じゃなくて」

「いや別に冗談ではないですが。……要するに、実際には自分で思っている以上の力が出たと」

「そう。でね、たぶんアルピナの傘の時にも同じものを感じたのよ」

「手合わせの時ですか」

「普段より、なんなかこう、レスポンスがいいのね。もっと思い通りに動いたのよ。どう、私にいつもより隙がないってあなたは感じなかった?」

「調子がいいなとは思いましたよ。ただアルピナの空気が合っているんだろうなと」

「そうね。そうかもしれなかった。でもソレスでも同じだった」

「その2回だけですか」

「今のところは」

「何か別の条件が……?」

「今回はちょっと状況がややこしいけど、アルピナの時はサフォンが見ていたのよね」

「環境でなければ原因は彼女だと?」

「でも確かめるのは難しいわね」

「気持ちの問題ですか」

 ギグリは顔を向けてなんだか久しぶりに冷たい目でエヴァレットを見た。その目は「冗談?」と訊いていた。

 エヴァレットが斜め下へ目を逸らすと、ギグリは「それがサフォンの奇跡なのか、サフォンに奇跡か使えるのかどうか、それを確かめるのは難しいわね、という話」と言った。

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