ハーレクイン
プガッティのカジノはまだ表にシャッターが下りていた。だが地下駐車場の入り口が開いていて、下から入れるかもしれないとスロープを下った。
さすがにガラガラで、奥にマグダが乗ってきた黒いバンが置いてあった。あれを入れるために入り口を開けてそのままになっていたのか。
バンの近くには見覚えのある緑色のセダンが駐めてあった。そう、新居への引越し初日にフルーツバスケットを持って挨拶に来たあの太った男がプガッティだ。
ベイロンの資本家としてはかなりの古参で、フェアチャイルドとのコネクションも深い。あの太鼓持ちのような物腰からはちょっと想像が難しいが、中心街にカジノを1軒、キャバレーを9軒持っている大御所だった。
奥まで行ってエレベーターのボタンを押したが、反応しない。セキュリティだ。開店前は鍵がないとケージを呼べないようになっているのだろう。
操作版の横にインターホンがあった。
「プガッティはいるかしら」ギグリがカメラの前に立って訊いた。
「あっ、ギグリ様」
受付には人がいるのだろう。女の子の声だった。ギグリは何も言わずにカメラの前で腰に手を当てた。
少し待たされたが、「……はい。今通します」と返事が来てエレベーターのドアが開いた。
まるで御影石のような黒光りする内装で、壁面に自分たちの姿が映った。
フロントは照明が少なく、ライトアップされた洞窟のような雰囲気だった。窓がないか締め切られているせいだろう。人もいない。受付の女の子はオオルリのような青い翼の天使で、私服だろう、ニットのワンピースを着ていた。あまり見ない翼の色なので染めているのかもしれない。
プガッティはすぐに降りてきた。そして寝起きだった。側頭部の細長い髪が禿げた頭頂部の上で鰹節のように踊っていた。しかしそんなものはトレーナーの前いっぱいに毛糸で編み込まれたクマさんの顔のインパクトに比べれば大したものではなかった。その格好で広い曲がり階段を下りてくる様子にはゼンマイで動くおもちゃのような可笑しみがあった。
「いや、お帰りになりましたか」プガッティはそう言うと女の子が用意していたコーヒーを2つ自分で持ってきてギグリとエヴァレットの前に置いた。
彼が座ると胸のクマさんのシルエットがずいぶん横長になった。
「シュナイダーの次にあなたのところへ来たのよ」
「それは光栄でございます」プガッティはそこで自分のコーヒーを飲んで口を潤した。「それにしてもお早い」
「もう11時よ」
「普段はもう1時間ほど寝ておりますよ」
「寝すぎね」
「就寝は5時頃です。朝日とともに眠る、です。――それはそうと、大変な騒ぎではないですか。ギグリ様がお辞めになる、体調不良だと周囲も噂しておりますよ。クイーンをやめることはないと、あの言葉は方便ではなかったと私は信じておりますが」
「言ったわね」
「はい、よく覚えていますとも。……しかし実際のところ悩んでおられる」
ギグリは黙ってコーヒーに口をつけた。
「エアレースがエトルキアでも放送されるようになればベイロンを訪れる観光客も増える。誰がクイーンをやるかなんてことより、あなたたちはそっちに気が向いてるんじゃない?」
「さすがギグリ様。商機、といえば確かにそうでしょう。しかし話はそう単純明快なものでもありません」
「ふうん?」
「彼らはルフト上流文化圏の人々ではない。カネとともにあらゆる問題を持ち込むかもしれない。破産、民度、クレーム、エトセトラ。売る・買うの外側にある問題です」
「たくさん買うからいい客だ、とも言えないと」とエヴァレット。
「そうです。確かに大勢の客が入れば一人あたりの落とす額が小さくても儲けにはなります。しかし店は窮屈で落ち着かない場所に変わってしまうでしょう」
「客層の形成がつつがない経営につながるというのはわかる話だ」
「だいたい、難民の受け入れといって、すでに低所得の客層が増えていますでしょう。馴染みの上客の間には彼らを嫌遠する雰囲気も表れている。彼らの足が遠ざかれば売上だけではなく評判も格式も下がってしまう。対応のためのコストだけが嵩みかねない。新しい客というのは往々にして読むのが難しいものです。問題が起こると決まったわけではないが、我々は不安の渦中にあるのですよ」
ギグリはしばらく何も言わず、何度かコーヒーを啜った。
「プガッティ、あなたパールヴェーラーに出資するつもりはない?」
「パールヴェーラーというと、閣下が手ずから開発していた耐フラム薬ですか」
閣下というのはフェアチャイルドのことだ。プガッティはしばしばフェアチャイルドを閣下、ギグリを猊下と呼んだ。
「ええ。今あなたがエアレースに注ぎ込んでいる分を引き上げて」
「いえ、引き上げるなど。増資いたしますとも。可能な限りの協力はさせていただきます」
「協力、ね」ギグリは鼻を鳴らした。
「……はい」
「いいわ、お世辞はやめて正直に答えなさい。私はあなたの愛想笑いが嫌いなの」ギグリは少し音を立ててカップを置いた。
「はい……、しかし猊下の頼みとあれば無碍にはできません」
「いいえ。今のは嘘。本気で頼んだわけじゃないの。少しあなたを試したかっただけ。ごめんなさいね」
「そんな、滅相もない」
ギグリが謝るとプガッティはかなり慌てふためいて頭を低くした。その様子を受付の女の子が冷めた目で眺めていた。こちらの話を聞く以外に暇の潰しようがないのだ。
ギグリは小芝居を打ったわけだが、要はプガッティがパールヴェーラーに利権を見出している人間かどうかを確かめたのだろう。
「実際、あなたはパールヴェーラーにさほど興味がないのでしょう?」
「……フラムに潜るというのは面白そうですからね、死ぬ前に一度くらいは下界を見てみたいとは思いますが」
プガッティは普段の謙った感じがかなり薄い喋り方で答えた。もし相手がギグリでなければこんなものなのだろう。
「それでもまだ謙遜が感じられるわね」
「いいえ、さすがに本心ですよ」
「いいわ。わかった」ギグリは席を立った。
だがそれは破談の合図ではなかった。それはエヴァレットにも理解できたし、プガッティにも感じられたのだろう。彼も立ち上がって「送りましょう」と申し出た。
プガッティは自分で緑のセダンを運転した。エヴァレットは助手席、ギグリは後席の真ん中に座った。
「ギグリ様、僭越ながら申し上げますが、あなたはクイーンをお続けになるべきです」プガッティはルームミラーに映ったギグリに目をやりながら言った。
彼なりに考えた末の発言だろう。なぜギグリはパールヴェーラーの話など持ち出したのか。なぜこのタイミングで自分に話を持ってきたのか。
そしておそらく彼の読みは当たっていて、提案としても正解だった。
「それは前も聞いたわよ」
「いいえ、必ずしもベイロンで、とは言いません。他の島でも構わないのです。閣下の意思を継いだ正統なグランプリであると。その証明はあなたの存在で十分なはず」
「ルフトには後発のレースがいくつもある。もう10くらいにはなるわね」
「しかしフェアチャイルドとベイロンの名はエアレースの始祖の名です。後発組はいずれもベイロンの半分ほどの権威も持たない。あなたなら今のベイロン・ツアーと並び立つレベルの大会を築けるでしょう。対立するのではなく、競い合えばいい。レースの信念です。それならば私は喜んで出資します。約束しましょう」
「いくら出せる?」
「まず100万リブラ。開催が確定したところでもう100万」
「合わせて200万。1戦の開催費用の半分といったところね」
「やはりレースは金がかかりますなあ」プガッティは目を丸くした。
「『プガッティ・グランプリ』にならなくて残念だったわね。ともかく、まだ約束はしないでおくわ」
「大丈夫、猊下ならできます」
エヴァレットは別に振り返りはしなかったが、ギグリの声に自信が戻っているのは明白だった。プガッティはギグリがわざわざ会いに行って期待したものをきちんと見極めて与えたわけだ。
「結局、彼のような人間たちにはわかりやすい娯楽が必要なのよ」
ギグリはプガッティの車から降りて階段を上りながら言った。部屋は6階でマンションにはエレベーターがついているのだが、彼女はなぜか階段を選んだ。
「金を出させようと思ったら私にはエアレースしかないわ」
「頼むより釣った方が効率よく金集めができるのは世の常でしょうね」エヴァレットは数段あとに続きながら返した。
「もし彼の言った通りになるとして、それがゼロからのスタートだとは思わないわね。私が新しい大会を立てれば私を慕う者たちはきっと乗り移ってくる。残された者たちはベイロンの凋落を呪うかしら」
「彼らはそれを望んだのですよ。でなければあなたを追い落とそうとはしない。ベイロンにはフェアチャイルドの築いた土台がある。整いすぎなほど整っている。多少人が減ったくらいでだめになったりしませんよ」
エヴァレットはできるだけ楽天的に答えた。どこか別の場所でエアレースを始める、というプランがどう転がるのか、まだ何の手がかりもなかった。慰めに過ぎない。だがなんとなくプガッティと張り合ってみたい気分だったのだ。
ギグリは頷いた。
「リリスと話してみるわ」
きっと彼女はモールトンやシュナイダーより先にリリスに会うべきだったのだ。会って第5戦の勇姿を褒めるべきだった。
彼女自身、それはわかっていたはずだ。でもそうしなかった。おそらく第6戦をどうするか決めかねていたせいだ。復帰するのか、それともリリスに続けさせるのか。それが一転して「会う」と宣言したのだから、決心がついたに違いなかった。




