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ヘイズ・ムーン

 ゲストハウスにはベッドが1台しかなかった。カップル専用というわけもないだろう。寝室の他にもうひとつ個室があったのでエヴァレットはギグリがシャワーを浴びている間に中を調べてみることにした。

 注意深く床を観察するとフローリングの一部にかすかに色味の違う四角形があるのが見えた。擦っても消えない。ベッドの足がその部分を踏んでいた痕跡だろう。そこから戸口の方に向かって引きずったのか、ワックスの剥げた跡もあった。ベッドの入れ替え、いや、修理中ということか。ともかく3人までは想定したゲストハウスらしい。

 しかしそれがわかったからといって問題は何も解決しない。順番を代わってエヴァレットもシャワーを浴びた。シャワールームはよく暖まっていて、備え付けのボディソープの匂いがした。エヴァレットは頭を洗いながら、数分前までここにあったはずのギグリの体を想像した。あとで目の前にしてから唾を飲んだりするのが嫌だったからだ。

 つまるところ、寝室に入っていくのと、リビングのソファで寝ようとするのと、どちらがいいだろうと考えていたわけだ。リビング案は翌朝またあの冷たい視線を食らいそうだな、という気がした。ギグリがあるじに望むのはおそらく堂々と寝室に入ってくる姿だろう。それはわかっている。問題なのは自分がどこまでそのイメージに乗っかる(・・・・)べきなのか、という点だった。求めるイメージを踏襲するだけの男なんかギグリは尊敬しないだろう。

 ……そうか、僕はギグリに尊敬されたいのか。形だけではなく、心から、か。

 そう思うと少し自分のことが可笑しくなった。

 ベッドでいいじゃないか。ソファよりベッドの方が寝心地がいいに決まっている。


 寝室の扉は開いていて、ギグリはベッドの縁に座って翼を前に出し、ブラシで手入れをしていた。羽繕い用のブラシなので歯はシリコン製で片面にびっしりと生えている。鳥同様に天使の翼の風切り羽根には櫛状の繊維があり、これがきれいに並んで絡み合うことで団扇のような面をつくり出すのだが、羽繕いはこの繊維の並びを整えるために必要なのだ。

 エヴァレットが部屋に入ってきても、散らかった綿毛を魚用の網で拾い始めても、ギグリは特に何も言わなかった。横顔を向けたままだった。

 エヴァレットは集めた羽根をまだ薄いクッションの中に詰め込み、窓の前の冷気で少し涼んでから枕の横のあたりに腰を下ろした。窓の向こうには木の枝々によって網がけされた満月が見えた。色のない凍てついた月だった。どこかからフクロウのオスがホウホウ鳴く声が聞こえていた。

「サフォンは父親を知らないわね」ギグリはエヴァレットよりも早く口を開いた。「ベイロンに来てから仕事の間に身籠ったのでしょうね。天使が両親を知って育つことができる、というのは人間の一般的な価値観で言えばルフトのいいところなのだろうけど」


 ギグリは翼を畳み、ブラシをポーチの中に仕舞ってからベッドの左側の縁に座り直した。ベッドの上に足を乗せ、枕の位置を見極めて腰をずらし、少し翼を浮かせて仰向けになった。そのままベッドに沈み込んでいくように深い息をつき、その帰りの駄賃みたいにあくびをした。翼の羽根という羽根がゆっくりと膨らみ、また元通り窄んでいった。

 ギグリはとても生地の柔らかいワンピースを着ていた。太腿の中ほどまで裾がかかり、存外天使らしい細い脚が覗いていた。翼を前に出して自分の体を包み込み、両翼の重なり合った部分に気持ちよさそうに頬ずりしながら顔だけ見せた。

 鳥なら畳んだ翼に嘴を差し込んで顔を埋めるようにして眠るだろう。しかし天使は鳥ほど首が軟らかくない。

「私は布団いらないわ」とギグリ。

「と言うならなぜ掛け布団の上に寝転がったんですか」

「それもそうね」ギグリは目をしぱしぱした。「私が座る前に引いておけばよかったのに」

「なら先に言ってください」

 エヴァレットは諦めて部屋の明かりを消し、ベッドと掛け布団の間に潜り込んだ。

 だがすぐにパチッとオレンジ色の豆球が灯り、ギグリがヘッドボードのスイッチに左翼を伸ばしているのが映った。腕よりリーチが長いのだ。そのまま翼の手首(・・)で体を支え、手で掛け布団を手繰ってエヴァレットの方へ送った。

 そうか、あからさまに誘いたくなかったのだ。掛け布団を踏んだのがわざとなのはなんとなくわかった。だが単なる嫌がらせではなかったわけだ。先に除けたら自分からエヴァレットをベッドに誘うのと同じだ。


「暗いのは苦手ですか」エヴァレットは言った。口から漏れた、といってもいい。

 ギグリは少しだけ喉を鳴らした。どちらかといえば不愉快そうな反応だった。

「いえ、今のは質問ではありません。そんなことを訊いたってあなたはどうせ『違う』というだけだ。本当に違うとしても、違わないとしても」

 ギグリは何か言いかけたが飲み込んだ。たぶん「違うわ」と言おうとしたのだろう。

「あなたがベイロンに来てからもう10年になる。でもどんなふうに眠るのかまるで知らなかった」エヴァレットは続けた。

「当然よ。見せてこなかったのだから」

「でしょうね」

 ギグリはもぞもぞ動き、左翼を下にしてこちらに体を向けた。

「私たちは血のつながらない兄妹きょうだいのようなものだったと思うわね」

「連れ子と連れ子のような、でしょう。フェアチャイルドという父だけでつながった、どこか迂遠な兄妹。でもそれも最初の数年だけだった。いつしか我々は彼の娘でも、また息子でもなくなっていた」

 エヴァレットは目を瞑った。オレンジ色の弱い光は依然として瞼を明るくしていた。


 男の天使というものは存在しない。天使の天使たる遺伝子がX染色体に集中しており、そのX染色体がもう一方のX染色体に何らかの作用を与えることで天使の形質を発現するため、というのが通説だった。

 XY染色体にはヒトの性別を決める機能があり、生殖細胞の減数分裂によってこれが半分に分かれ、もう一方の親の生殖細胞が持つXY染色体と対になることで性別を決定する。女性から与えられるのは必ずX染色体であり、男性から与えられるのはX染色体かもしれないしY染色体かもしれない。一対のX染色体が揃えば子供は女の子に、揃わなければ男の子になるわけだ。

 X染色体が揃わなければ天使にならない、ということは天使には女性しか存在しないことになる。したがって天使は人間の男性と交わらなければ世代を継ぐことができない。生まれる子供が女の子なら天使だろうし、男の子なら人間だろう。

 天使形質の発現は劣性遺伝とはまた異なる現象らしく、天使の血を引く人間の男女から天使が生まれる、というケースは確認されていないらしい。

 サンバレノでは人口の過半を天使が占めるものの、人間を蔑視するイデオロギーから天使と人間の交わりも当然忌避されている。ではどうやって世代を継いでいるのか? それを可能にしているのが人工授精だ。幸いサンバレノには高度なバイオ技術があった。もちろん精子をどこから手に入れるのかは厳重に秘匿されているのだが、かの国らしく儀式化・神聖化して内実は決して明かさない。

 エヴァレットはギグリの他にもサンバレノからの亡命天使を何人か知っていた。ルフト建国以来、エトルキアやサンバレノから逃れてくる天使は後を絶たない。ルフトはエトルキアの東にあり、ルフト南西部に位置するベイロンはエトルキア南面のサンバレノからも比較的近い。ベイロンは受入れ窓口としても機能していた。彼女たちの中のまた幾人かはそういった突っ込んだ話も聞かせてくれたのだ。



 翌朝、左腕が痺れたような感触で目を覚ますとギグリが胸の上に頭を乗せていた。一応布団越しではあるものの、彼女の体の下敷きになっているせいで腕が重かったのだ。彼女はうつ伏せで、ベッドいっぱいに翼を広げていた。意外と寝相が悪いようだ。

 しばらくそのまま起きないか待っていたのだが、目覚めの気配を見せることもなく、寝息のリズムさえ全然変わらなかった。いい加減体が強張ってきた。

 声をかけようか。いや、それはちょっと無粋か。気が引けた。

 先に乗ってきたのはギグリだ。こちらが触っても文句は言うまい。

 エヴァレットは右手を布団の上に出してギグリの頭を撫でた。思いのほか小さな頭、柔らかいつやつやした髪。白いが色が抜けているという感じではない。光沢のあるしっかりとした淡いグレーだった。顔にかかった髪をよけて耳にかけてやる。白い額が顕わになり、細い鼻筋や案外ふっくらした頬に点々とうっすらした雀斑そばかすが浮かび上がっていた。朝日に当たってようやくわかる程度の薄い雀斑だった。こうして見ると案外少女っぽさもあるのだ。

 エヴァレットは首を起こしていた力を抜いて天井を見上げた。

 ああ、やっぱり綺麗な人だな、と思った。寝顔の美しさは本物の美しさだ。

 そんな存在が自分の手の中にあるのがちょっと信じられなかった。もっと手の届かないところにあるべき存在ではないのか?


「なぜこんなところにいるんです?」ギグリが訊いた。

 首を起こすとギグリの金色の目がこちらを見ていた。本当に目を開けたばかりのようで、虹彩が閉じていくのがわかった。黄色とも琥珀色とも違う。やや深みがあり、かといって暗くもなく、赤のような緑のような微妙な色味を含んでいた。黙っていると彼女の瞬きで睫毛がシーツに擦れる音まで聞こえてきた。それほど音のない静かな朝だった。

「まるでこっちが下に潜り込んできたみたいな言い方ですね」エヴァレットは言い返した。

 ギグリは左右に目を向けてベッドの幅を確かめた。むろん右半分、エヴァレットのテリトリーだ。それがわかると翼を畳んで体を起こした。

「いたたっ」

 ギグリが肘をついたせいで腕に刺さったのだ。

「少し散歩に出てくるわ」ギグリはベッドから降りながら言ってそそくさと廊下へ出ていった。

 まだ6時だ。ギグリにしてはやたらと早起きだった。

 と思っていると彼女は一度戻ってきて自分の鞄から着替えを出してまた出ていった。

 ようやく重石がなくなったのでエヴァレットも体を起こしてストレッチした。腕を曲げると肘の内側が変だった。軽く攣っていたのかもしれない。セーターとジーンズに着替えてジャンパーを着込み、湖に向かって歩いてみることにした。


 朝の林には人気はなく、やや靄のかかった大気の向こうにぼんやりとした朝日が見えた。雲の中にいるのかもしれない。キツツキのドラミングが方々からこだましていた。正門まで出ても車通りもなく、道路は右も左も200mほどの距離で靄の中に消え入っていた。まるで夢の中に囚われてしまったような不思議な空気だった。

 頭上から「バサ、バサ」とゆったりした羽ばたきの音が聞こえた。煙った空気の中に天使のシルエットが浮かび、また消えていく。やはり湖の方角だ。翼の長さからしてギグリに間違いないだろう。

 道を渡って林に踏み入る。舗装されていないので昨秋の落ち葉を踏んでいくことになる。周りの木々にシジュウカラやコガラが飛んできて枝の間をぴょんぴょんと跳び回っていた。人間の踏み跡から出てくる虫を狙っているのだろう。わざと落ち葉を捲るように足を運んでやると何羽か地面に降りてきてその周りをつついていた。


 湖畔に出た。足元の湿った落ち葉がそのまま水の中に沈み込み、わずかに波が打ち寄せていた。対岸は見えない。見渡すと水面に靄が溜まっている様子がよくわかった。カモたちはまだ背中に嘴を埋めて眠っている。その間に潜水鳥が浮き上がって水面に波紋を広げ、首を上向けて獲物の魚を咥え直し、そのままつるりと飲み込んだ。アビかカイツブリか、いや、鉤状の嘴はアイサか。またちゃぷんと音を立てて姿を消し、全然見当違いのところに浮かび上がってくる。

 しばらくその様子に見入っていたが、ふと右手を見ると同じように湖畔に立っている人影が見えた。人影といっても天使だ。体のシルエットでギグリだとわかった。エヴァレットはそちらへ歩いていった。

 ジャンパーは着ていないがギグリもエヴァレットと似たような格好だった。Vネックのキャメルのセーター、スキニーのブルージーンズ。ベイロンではまず見ないカジュアルな格好だ。足音に気づいてこちらに顔を向けたが、化粧をしていないせいか目元の印象が少し薄く感じられた。

「朝ってこんなに気持ちのいいものだったのね」ギグリは湖に目を戻して呟いた。「長い間忘れていたような気がするわ」

「ベイロンだと城にいても夜通し喧騒が聞こえてきますからね。あなたは別に朝が弱いわけじゃないんです。眠りに繊細なだけなんでしょう」エヴァレットは横に並んで答えた。

「そう、繊細なのよ」

「ん、わりに素直ですね」

「あら、褒めたのよね?」

 やれやれ。エヴァレットはあくびをした。

「この島に来て思い出しましたよ」

「何を?」

「フェアチャイルドが思い描いていたのはきっとこういう景色をもう一度地上に返すことだったんだって」

「地上に返す」ギグリはその部分を繰り返した。

「返すというか、取り戻すというか。フラムを取り除くのか、それともフラムに適応するように生態系全体を進化させていくのか、その方法はまだ見当がつきませんが」

「そうね」

「そう?」エヴァレットはギグリが何に同意したのかちょっと掴みかねた。

「私も地上に戻ってみたいわ。豊かな地上に。天使だけでフラムの下に下りても寂しいものね」

 ギグリが少し目を上げた。その視線の先に大型の鳥のシルエットが見えた。

「タカ?」

 その鳥は上空で細かく羽ばたいてホバリングしていたが、間もなく翼を畳んで急降下に入った。水面にはカモたちが浮かんでいるが逃げる気配はない。

 急降下した鳥は水面の手前で翼を広げてブレーキをかけ、脚を水面に突っ込んだ。すぐに羽ばたいて低空を飛んでいく。その足には棍棒のような大きな魚が掴まれていた。鳥は一度羽ばたくのをやめて尾羽からぶるっと全身を震わせて水気を払い、対岸の方へ消えていった。

「ミサゴでしたね」とエヴァレット。

「猛禽がいるというのは生態系が豊かな証拠ね」

 2人は顔を見合わせた。またどこからかキツツキのドラミングが聞こえてきた。

 静かだ。

 ……と思ったが通りの方角から足音が近づいてくるのがわかった。軽い足音、正体はサフォンだった。

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