ナンセンス・リムーヴァル
城に戻ると私用のパソコンに闇業者の女からメールが入っていて、手付金を家主に渡したからいつでも入居して構わないという内容だった。手付金は敷金2ヶ月分を合わせて約6000リブラ。エヴァレットがルフト空軍の将校として手にしている給与のおよそ2ヶ月分に相当した。
翌月曜日、一行は空港前の部屋に引っ越した。とはいえ城で使っていた家具は城のものだし、新しい部屋にも備え付けのものがあったので中身だけを運ぶことになるのはわかっていた。そうなるとエヴァレットはもともと持ち物の少ない性格だったし、ギグリは鳥類博の研究室に私物を移していたので洋服を詰め込んだ衣装ケースくらい。ミシンや生地を持っていくマグダが一番大荷物だった。
「あなたは他のクイーンの衣装も作るのだから、城に置いておけばいいのに」
「いいんですって。私もギグリ様のメイドですから。サフォンを見て思い直しました」
階層を跨ぐ引っ越しには貨物リフトを使う。リフトを管理している運送会社があって、そこが手広く引っ越しまでやっているのだ。リフトは人間用のエレベーターより遥かに低速で乗り心地も悪いが、金網に囲われたまさしくケージが剥き出しのレールに沿って下りていく構造なので塔の内部を見通すことができた。こういう時でもなければ見る機会もない。せっかくだから荷物に同行した。
内壁には水やガスを供給するための太いパイプラインが這い、内側にはそれよりはるかに太い骨組みのトラスが斜めに走っていた。レールの継ぎ目を越える度にリフトの床ががくんと揺れ、その音が内壁に反射してどこまでも響いていった。一応レールに沿って明かりが設置してある。だがそれも下を覗き込むと圧倒的な高度差によって闇の中に消え入っていた。塔の内側というのはいわば高さ6000mの穴なのだ。
「そう考えるとちょっと恐いです」とサフォン。
「君は天使なんだから落ちる心配はしなくてもいいだろう」
「そうなんですけど、時々夢に見るんです。翼がもつれたり、攣ったりして、真っ逆さまに落ちていくの」
「実際にそんなことになった経験があるのかい?」
「いいえ。たぶん、ママに脅かされたからだと思います。小さい頃、遠くへ飛んでいこうとするとそうやって言うんです。翼がもつれて落ちるぞって」
「それを想像したんだ」
「律儀に想像していたんです。小さかったから」
リフトの外にはトラックが待っていて、運送マンたちはカゴ2つ分の荷物をささっと積み込んで先に行ってしまった。さすがにトラックの荷台に同乗していくわけにはいかない。エレベーター前のタクシープールまで歩いて空港前まで頼んだ。最下層の中央広場にはエアレース用の飛行場が広がっているわけだが、早くも次の第5戦に備えて何機かレーサー機が離着陸していた。
マンションの前に着くと荷物の運び込みはすでに終わっていて、トラックは作業完了のサイン待ちだった。あとは自分たちの仕事だ。
荷物を広げるのはあとにして全員Tシャツやジーンズなどのラフな格好に着替えた。天井からぶら下がるランプの埃を払い、タンスの中に張ったクモの巣を取り、床の水拭きからワックスがけまでやり、新しい電球をつけると見違えるようにぴかぴかとした部屋になった。後半ギグリ様は1人でお風呂場に篭もってバスタブと床の黒ずみを真っ白く磨き上げていた。体の前側がびしゃびしゃになるくらい気合を入れていた。こういう家庭的なギグリはとても珍しい。
「バスタブをきれいにする奇跡はないんですね」サフォンはとても素朴に感心しながら訊いた。
「使ってないなんて一言も言ってないわよ」
「でも疲れてますよ」
「染色の奇跡ならあるわよ。でもそれで汚れを落としたことにはならない。見なさい。手で磨かなければこの艶は出ないでしょう」ギグリはとても得意気だった。
ギグリとマグダが洋服をどこに仕舞うか揉めている間、エヴァレットはサフォンを連れて表に出た。ちょうど外環通りの向かいに空港端の緑地が広がっているのだ。飛行機が掠めることがあるので遊戯は禁止ということになっていたが、春の日差しを求めて近所の住民が何組か間隔を空けて座り込んでいた。
「あれ、そういえば飛行機の騒音が聞こえないですね」サフォンが言った。
エヴァレットは一応見渡して確認した。緑地から一直線に見える滑走路、振り返ってその延長にも飛行機の影はない。
「風が南北に吹いている時はこっちの滑走路は使わないようだな。ほら、向こうの滑走路にはたくさん飛行機がいる。今日は、そうか、南風だ」
「風向きで使う滑走路が変わるんですね」
「横風で飛ぶと体が風下の方へ流されるだろう?」
「そうですね」とサフォン。天使なら実感がわかるはずだ。
「飛行機も同じだよ。着陸しようとする飛行機が滑走路の向きに合わせて飛ぶと横に流されて島にぶつかるか、いずれにしても滑走路を外れていってしまう。流されないように風の吹いてくる方へ少し向きを傾ければいいんだが、滑走路が斜め向きに見えてやりづらいだろう。まっすぐ入れる滑走路があるならそっちを使った方がいい」
「そうか、着地したあと走らないといけないから、斜めに入るとやりづらいんですね」
「そういうことさ」
「でも、よかったですね。風向きのいい日は部屋も快適です」
緑地にはツクシやタンポポの茎がにょきにょきと突き出し、その上に集まるアブやテントウムシなどの昆虫を狙ってムクドリの群れがわしわしと芝の間を歩き回っていた。
エヴァレットは座りやすそうなところを選んで腰を下ろした。5分もない間隔で離発着する旅客機のシルエットやライトがフェンス越しによく見えた。
「エトルキア人というのはルフトの人たちとは違うのですか」サフォンが隣に座って訊いた。
「違う?」
「最近はエトルキア人が増えているから危ない、という話をしていましたよね?」
「ああ、その話か」
「少し気になっていて」
「人間にとっては大した問題ではないんだ。でも彼らは少なからず天使に対する差別意識を持っている。だから君にとっては危ないかもしれない、ということだよ」
「差別っていうのは、天使が嫌いってことなんでしょうか」
「それは少し違う。サフォン、君は学校に通っているね」
「はい」
「上の学年があって、下の学年がある。上の学年の生徒は下の学年の生徒を思いやらなければいけない。下の学年の生徒は上の学年の生徒の言うことを聞かなければいけない。そういうふうに教えられるだろう」
「はい」
「もし上の学年の生徒が下の学年の生徒を思いやらなくて、下の学年の生徒が上の学年の生徒の言うことを聞かなかったら、ケンカになる。もし1年経っても学年が変わらなくて、永遠に同じ学年のままだったら、ケンカも終わらない」
「はい」
「エトルキアの状況はそれに近い、と思うよ。人間は自分たちのことを上の学年だと思っていて、でも天使たちは早く上の学年に上がりたくて、人間たちの言いつけを理不尽なものだと思っているんだ。もちろん本当は学年の違いなんてありはしない。ルフトの偉い人たちはそれをわかっているから人間にも天使にも差別がないように頑張ってきたんだ」
「なぜエトルキアには差別が生まれたんでしょうか」
「ルフトも昔はエトルキアの一部だった。それは知っているね」
「はい。歴史の授業で習いました」
「今のルフトの地域も含めて、エトルキアはとても貧しい国だった。旧文明が始めた戦争のせいでたくさんの技術が失われて、島と島の間の移動もできないほど荒廃してしまった。その時人々を助けたのが天使なんだよ。天使たちは人や物を運び、奇跡を使って人々の暮らしを助けた」
「え、それなら天使に感謝するはずですよね」
「そう。最初はそうだった。人間たちは天使を讃え、贈り物を贈った。そうして天使たちは富を蓄え、人間たちを指導し、やがて支配する立場になった」
「支配……」
「うん。我々は貧しい暮らしをしているのに天使は何不自由なく生き、人間の上に立っている。それが次第に恨みに変わっていったんだ。人間たちは残された旧文明の技術を探し、学び、島を再建し、人間の中から指導者を立てて天使の支配に対抗し、数で圧倒し、天使を追放するに至った。それが今のエトルキア王家だ。エトルキア政府は2度と天使の支配を繰り返さないようにその歴史を伝え、天使に人間と同等の権利を与えないようにした。天使は常に人間によってコントロールできるように権限や能力を制限しなければならない、という考え方を国民に広めているんだ」
「それは自分たちが受けた屈辱を相手に返そうとしているだけみたいですね」
「そう。立場がひっくり返っただけだ。いつかまた天使が力をつければ同じ災厄が繰り返されるのかもしれない」
「エトルキアは恐いですね」
「危ないのは必ずしもエトルキアの人間そのものではない。エトルキアの法律や教育システムだよ。エトルキアにもそれを信じている人もいれば、信じていない人もいる。人によって違う。その点、ルフト政府はエトルキアの愚かさをきちんとわかって平等政策を進めているんだ。差別のない人間の方がずっと多いし、差別する人間は厳しく咎められる。安心できる生活を求めてこの国に渡ってきた君のお母さんを信用していい」
サフォンは近くにいる人々をそれとなく見回した。今は誰もサフォンのことを気にかけていない。もちろんベイロンとはいえ定住している天使はギグリを含めても20人程度だろう。珍しいことに違いないが、それでもサフォンが緑地に入ってきた時に背中の翼が本物なのか確かめるような目を向ける人間が何人かいるだけだった。
エヴァレットはサフォンの背中を撫でた。翼をぴったり畳んでいるので、上から翼を撫でればいいのか、それとも翼と肩の間に手を差し込んでいいのか少し悩みものだった。結局翼の上から撫でた。ふわふわして触っているのかいないのかよくわからないくらい軽い感触だった。
エヴァレットは立ち上がった。マンションの前に深緑色のセダンが止まったのが見えた。ヘッドライトの丸い古風なデザインだ。エヴァレットの緊張を察したサフォンが手を握ってきた。
「少し急ごう」エヴァレットは足早に通りを渡った。セダンには人は残っていない。
「私、外から見てみます」サフォンはそう言って翼を広げ、先端の風切り羽をぱたぱたと打ち合わせながら6階まで一息に飛び上がった。
こういう時高く飛べるのは便利だな。
脇に手をやった。しかし拳銃も携杖もない。チッ、少し不用心だったか。
エヴァレットは階段をぐるぐると駆け上がり、息を整えてそっと玄関に入った。すると扉の軋む音を聞いてリビングにいた恰幅のいい男が振り返った。
エヴァレットは雑巾のように脱力した。
知っている顔だった。中心街のカジノ経営者の1人だ。手下を1人連れていた。
「城を離れたと聞きましてね、まさかベイロンの中枢から離れるおつもりなんじゃないかと、心配して参上したわけです」
男はもう60代だろうが腰は低かった。ポロシャツがずり上がって尻が見えそうだった。そんなものを見るのも嫌なのでエヴァレットはギグリの隣に回り込んだ。
「別に、城も人が増えて落ち着かないから移っただけよ。クイーンをやめるつもりはないわ」
「それを聞いて安心しました」男は手下からフルーツ盛りの籠を受け取ってギグリに渡した。
「ありがとう。もしよかったら今のことをお仲間にも伝えておいて。でも住所はいいわ。あなただけのものにしておけば。あまり出入りが多いと私も居心地が悪いでしょう?」
「はい、かしこまりました」男はにこにこしながら巣穴のネズミみたいに後ずさりして出ていった。
玄関扉が閉まるとギグリは籠の中の桃に顔を近づけて胸いっぱいに息を吸った。
「まったく、いったいどこから聞きつけたのよ」
エヴァレットは窓に駆け寄って雨戸の戸袋にしがみついていたサフォンを部屋の中に引き込んだ。
「大丈夫?」
「ええと、手が汚れました」
エヴァレットはサフォンの手を見た。指先が真黒く煤けていた。
「ああ、戸袋の上は拭いてなかったな」
「私、あとで拭いておきます」
窓から下を見ると深緑のセダンがウィンカーを出して走っていくところだった。
「これじゃ全然落ち着かないわ」ギグリはテーブルに座ってグチグチ言い続けていた。
「私が根回ししておきます」とエヴァレット。
「いいわよ。私がやる。こういうのは上からものを言った方がいいのよ」ギグリはそう言ってまた溜息をついた。「ああ、アルピナが待ち遠しいわ」
「え、ついてくるんですか?」と手を洗いながらサフォン。
「だって、ちゃんと送り届けるって言ったでしょう?」
「責任をもって送ります、という言い方はしましたが」とエヴァレット。
「あのね、昨日私が第5戦をあのチンチクリンに任せるといったのはそのためなの。正確に言えば見越していただけよ。でも今心に決めたわ。絶対行くわよ。絶対」




