アイゼンの黒鷲
フォート・アイゼン。
遺棄された要塞型の島に住む人間はもはや1人もない。島を支える塔の資源汲み上げ機能、食料・日用品生産機能は完全に失われて久しく、廃墟の中の蛇口を捻ったところで水は出ない。スイッチを押したところで電灯は灯らない。
去っていった人々の残した布団や食器が朽ちるままに任され、面という面は煤と埃によって深く覆われていた。生の気配といえば、わずかに昆虫とネズミ、そして島々を渡る小型の鳥たちが築く貧相な生態系が保たれているだけだった。
水平線を越えた太陽が違法建築のような要塞島のいびつな容姿をてっぺんから足元に向かって少しずつ照らしていった。レーダーや対空ミサイル陣地を乗せたモジュールの複雑な輪郭が露わになる。
上層の箱型の格納庫モジュールにも日が差し始め、放置されたままの整備中の戦闘機や部品の山を浮かび上がらせた。
朝日に刺激されたらしい。何かが動いた。
部品の山の一角だ。
黒いローブを着た少女が毛布を跳ねのけた。
彼女は上体を起こして目をこすった。淡いピンク色の髪に櫛を通し、白いヘアピンで前髪をX形に挟んで留めた。
そして背中の翼を広げた。畳んだ状態では真っ白に見えるが、風切り羽の内側に赤みがあった。
少女――天使は伸びをしながら立ち上がった。
比較的小柄で、天使としても細身、白っぽいピンクの髪は腰ほどまでの長さで、瞳は赤く、顔立ちには幼さと鋭さが同居していた。ローブは襟とベルトだけが白く、やや深めの前合わせは首元だけで留められていた。
彼女は立ち上がって壁際の流しの蛇口を捻った。
水は出ないはずだ。
だが彼女が少しの間手に力を込めると、しばらく経って蛇口が震え、そして先端から水が噴き出した。
配管の中に住み着いていたクモなどの小さな虫が間一髪のところで蛇口の外へ逃げ出していった。
最初は真っ茶色だった水もやがて配管の汚れが洗い流されると無色透明に変わった。天使は両手に汲んで匂いを確かめ、一度汲み直してから顔を洗った。
むろんフォートアイゼンの機能は死んでいる。発電機を持ち込んで揚水ポンプを回したわけでもない。
だがポンプが回っているのは実際だった。
電力なしにポンプが回っている?
――そう、天使が奇跡を使ってポンプを回したのだ。
蛇口に触れた時、天使は水道管伝いにポンプの位置を探り当て、さらに力を送り込んだらしい。ポンプは天使からエネルギーを受け取って回転していた。
天使はローブの裾で顔を拭いたあと、干し肉をひと切れ齧った。干し肉は壁から壁に渡したロープに洗濯バサミで吊り下げられていた。
彼女はそこから大きめの一切れを取って暗い通路に入っていった。
「おいで、ネロ」やや喉の閉まった声で彼女は呼んだ。
その声はスーパーボールのように通路を跳ねていった。
やがてごそごそと壁全体から物音が響き始め、何か大きな生き物が暗闇の中から近づいてきた。
どうやらその生き物の体は通路の直径にほぼぴったりの大きさらしい。
その頭が格納庫の明かりの中に差し込んだ。
それは巨大なワシの頭のようなものだった。色こそ黒いが、鉤型に曲がった嘴といい、焦点角度の広い目つきといい、ワシそのものだった。
「ネロ、ごはんだよ」
天使はそう言って持っていた干し肉を投げ上げた。
ネロと呼ばれた巨大な生き物は首を動かして干し肉を器用に空中でキャッチした。
それをほぼ噛まずに飲み込むと、ネロは嘴を天使に当てた。
天使は抱えきれないほどの嘴に手を伸ばして撫で回した。
「よしよし、いい子いい子」
ネロは嘴を広げて天使を甘噛みした。
だが甘噛みといっても巨大な嘴。天使はほとんど飲み込まれるくらい嘴の間にすっぽり隠れてしまった。
「よーしよーし」
ネロは舌を出して天使を舐めた。天使は間もなく全身が唾液まみれになった。
「いい、子。ネロ、もう、やめて」
ペロペロ
「やめなさいって」
ベロベロベロ
「おぉい! やめろってんだろうがあ」
天使は怒鳴ってネロの嘴を突き放し、そして人差し指をまっすぐ差し向けた。
「その嘴ぶち抜かれたいのかっ」
ネロが大人しく床に伏せて上目遣いに目を向けると、天使も取り澄ましてタオルで顔を拭いた。
「ネロ、私の言うことはちゃんと聞かないとだめだよ。いいね?」
ネロは瞬きでそれに答えた。
天使はローブの内側から黒い羽根を1本取り出してネロの鼻に近づけた。
「ほうら、今日もよく嗅いで、覚えておくんだよ。この匂いを探すからね。いい土産を持って帰ろう」
天使がネロに嗅がせた羽根、それは他でもない、クローディアがカイの飛行機と衝突した時に飛び散った羽根のうちの1本だった。




