表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
269/276

マニューバ・ファイト

 キアラが桟橋に出ていってからオリンピアの前に伝令が現れた。白いスピードコートに無線機ほか装備なし。ごく近距離用のスタイルだ。

「オルメトに動きがありました」と立膝。

「動き。龍の孵化器か」オリンピアは訊いた。

「はい。侵入者を示す緊急符丁を受信しました。20分前です。エトルキアの工作員が入り込んだようです」

「工作員」

「ガルドのヴィカ・ケンプフェルだと」

「報告者は」

「ジリファルカ。その後3時間続報ありません」

「ジリファ? 向かわせた覚えがないが」

「プライベートだったようです」

「それでオルメトに……いや、なくもないか。わかった。10分で司令部に入る」

 伝令が立ち上がる。

「待ったな?」

「え?」

「いや、キアラがこれを聞く前に飛んでくれてよかったと思ってね。いいタイミングだった」

「は、恐れ入ります」


―――――


 キアラは助走をつけて桟橋の先端から高空に飛び出した。

 それでも遷移揚力だけでは体が浮かない。やはり空気が薄い。緩降下と羽ばたきでスピードを稼いでようやく水平飛行に持っていく。ちらっと振り返ると桟橋の裏が見えた。体感よりずっと高度が下がっている。風圧と重力加速度の感覚がずれている。低高度とは全然違う。

 カイエンは宇宙と空の狭間のような真っ青な背景の中を飛んでいた。こちらよりかなり高い。

 挑む。闘いを挑む。カルテルスを使う。ということはつまり斬りかからなければならない。相手は逃げている。水平面のスピードでは勝ち目がない。上を取ってエネルギー優位から逆落とし。これしかない。天使同士の空中戦でも遠距離から始める時は上を取って相手が逃げられないように低空まで追い込むのがセオリーだ。不意打ちは……戦いなら常套だけど、これは闘いの方だ。相手にも納得感のある敗北を与えなければならない。

 まずは高度を上げる。水平飛行もままならない気圧の中で登る。呼吸も楽じゃない。高空向きの長い翼でもない。たぶん、ここでどれだけ妥協を避けるかが決め手になる。

 スピードを保って上昇。羽ばたく。

 頭の中で繰り返す。

 スピード、羽ばたき。

 脳の酸欠で青黒のグラデーションと身体感覚が分離し始める。冷たい空気の上に危うく寝そべっているのか、ふかふかのベッドの上にいるのかわからなくなってくる。

 涎が垂れ、顎と首元に氷になって当たる。

 冷たい。

 息を吐く。意識的に肺の中身を吐き出す。頭が少しクリアになった。

 カイエンのシルエットは……下だ。ほぼ真下。気流が上手く流してくれた。水平線の丸みからして高度9000mあまり。イルバレノの高層に届く高さだ。

 体を捻って背面、翼を後ろに振って頭を真下に突っ込む。重力が軽くなる。空気が薄いせいで風圧がないのにすうっと落下が速まる。

 カイエンは真っ白な十字架のように浮かんている。背中の鱗がぎらっと光る。


 カイエンが首を傾ける。上になった左目がこちらを見た。2秒。おそらく相手のスピードと進路を確認するための時間。そして翼を畳む。降下。離脱にかかった。上を取られるのは不利だとよく理解している。

 爪先で舵を切り、軸をカイエンに合わせる。

 真空なら落下速度に差はつかない。だがここに来て空気に厚みが出てきた。髪が煽られ、瞼が閉じたがる。分厚いクッションに突っ込んでいくような感触。こうなると重さの分空気を押し返す力はカイエンの方がずっと強い。

 距離が開き始める。

 加速するには……羽ばたく?

 いや、広げたところで抵抗にしかならない。翼ではどうにもならない。

 体にまとわりつく空気をカルテルスで切って整流するのはどうか。

 確かに誘導抵抗は減らせるが風を受ける面積が減るわけじゃない。

 面積。 

 広げれば抵抗になる。

 ……?

 カルテルスの刃は分子構造の間に入り込む。刃の側面は触れた分子を滑らせて摩擦を打ち消す。刃先が切ったものを受け流す。何よりここに摩擦がないからこそカルテルスは「手応えのない刃」として機能する。

 手を開き、閉じる。手のひらに渦巻く空気の感触。乱流。小さいが空気抵抗の原因だ。空気は押しのけられるとその物体の後ろに回り込んで真空を埋めようとする。この巻き込んだ空気の塊が周りの流速の速い空気と引き合って抵抗を生む。後端の面積が大きい物体ほど抵抗も大きくなる。抵抗を小さくしたければ後端を絞るか、あるいは突起などで後端方向に伸びる渦流を意図的に生成することで巻き込みを防いでもいい。天使の体は羽根の先端や爪先などもとより後端面積が絞られているので後者の対策にはあまり目を向けられない。キアラにも自分が乱流を引っ張って飛んでいるという感覚はなかった。体感的には顔面に受ける前方からの風圧の方がよほど問題なのだ。「空気抵抗=風圧」という感じがある。

 指先に2本指のカルテルス。刀身に受ける風圧の手応え。それが舵になり姿勢をブレさせる。向きの調整がシビアだ。まずは刃を前面に。刀身を隠す。そして空気を切るのではなく、空気の流れを刀身に沿わせる。切っ先を後方に向けできるだけ体に近づける。体表を流れる低速の境界層が剥離して巻き込みが生じる。

 違う。整流が必要なのは指先ではなく足の爪先だ。

 手をローブの袖に隠し、カルテルスの根元の座標を爪先に合わせる。遠隔ではまだ自分の体を切る恐怖を感じる。切っ先が渦流の細長い雲を引く。整流効果が出ている証拠だ。空力の世界では形状の小さな違いがスピードの大きな差につながることがままある。

 そこから明らかに落下が速まった。

 今まで何かに吊られていたのかと思いたくなるような変化だった。体の周りを流れる風の感触が弱まり、重力が再び剥き出しになる。

 キアラは加速した。カイエンが近づいてくる。

 目の前に白いものが広がった。

 カイエンの翼だ。急減速して浮き上がる。迫ってくる。この速度ならぶつかるだけで凶器。キアラはめちゃくちゃな乱流の中でどうにか舵を切る。立て直す。減速、いや、スピードを乗せたままターンして垂直上昇。上に抜けたカイエンを追う。幸い向こうはエネルギーを殺しきってほぼ浮かんでいるだけ。

 突き上げをかけるとカイエンは体を捻って背中を見せ、半ば宙返りで向かってくる。すれ違う。

 キアラは尻尾の動きに沿って反転。小回りなら天使に分があるのは当然。

 カイエンが体をくねらせるのに合わせて離合を繰り返す。互いに螺旋を描きながら降下していく。カイエンはスピードで振り切れる機会を窺っている。大回りに、エネルギーのロスを避ける。キアラが小回りの有利なインコースに入って距離を詰めようとするのをわかっている。何度も軸をずらし、小回りの方がロスになるように誘導してくる。ショートカットに囚われて余計な旋回を打てば落下で溜め込んだスピードが無駄になる。

 ここは我慢だ。カイエンの軸を正確にトレースする。距離は少しずつ詰まっていく。

 やがて翼や足が当たる間合い。もはや急機動で逃げるより攻撃で片付ける方が早いはずだ。が、どの足も伸びたまま。なぜ攻撃してこない? なぜ追い払わない? 

 わからない。突っ込めるチャンスがいつまでも続くわけでもない。キアラは翼を窄め、肘の間をくぐって首筋に組みつく。

 カイエンが首を振る。鱗の突起にカルテルスを立てしがみつく。下半身が振られ、叩きつけられる。鱗が切れる。

 と、そこで急に抵抗が止まった。空が回り、水平に戻る。翼をピンと伸ばし、羽ばたかず、風に乗っている。風の乱れに合わせて翼端を僅かに動かしているのがわかる。

 キアラは首の後頭部寄りにある鞍鱗まで移動して腰を落ち着けた。

 カイエンが振り返る。左目がキアラを見る。ただ、視界には入っているという程度で直視ではない。

 何かを待っている? 指示? いや、たぶんそういうことじゃない。

 キアラは自分の翼を広げてカイエンの頭の横につけた。相手の姿をきちんと見ておきたいのだろう。逆に言うと今までどれほど意識の外に置かれていたのかわかる。

 たぶん、飛ぶのが下手な天使に従うつもりはなかったのだろう。だからあえて空中で待っていた。たとえ力が弱くても構わなかった。戦闘で測るつもりなどなかった。接近した時攻撃してこなかったのも、組み付いた時すぐに抵抗をやめたのもそのためだ。一度だけ首を振ったのはまぐれで手がかかっただけではないか確かめたのだろう。

 だとするとそもそもカイエンは避けていたのではなく誘っていたのかもしれない。最初に会いに行った時から「飛ぼう」と呼んでいたのかもしれない。理解できなかった。拒絶のように見えるものを拒絶としか取れなかった。

 気が済むとカイエンは僅かに減速してキアラの後ろについた。

「もう一度高度9000メートルへ」キアラは顎を引いて自分の爪先越しに呼びかけた。

 理解してくれるのか? そもそも声が通るのか?

 カイエンは増速して額でキアラを掬うように首を上げた。境界層に吸われて足が鱗につく。キアラが鞍鱗に掴まるとカイエンは仰角を大きくとって羽ばたいた。ほとんど垂直に上昇しながらなおスピードを上げる。自力で味わえる加速度ではない。さっきほとんど死にかけで到達したのが嘘みたいだった。

 しかもこれでカイエンがどれほど正確に指示を聞いているのかわかった。9000mというのはこちらの尺度感覚を把握していなければ絶対にわからない。

「ありがとう、カイエン」キアラは鱗を撫でた。


 重心を左に傾けるとカイエンも左にバンクする。旋回。

 すごい。高度が下がらない。

 ヴェルチェレーゼの上層が下にある。細長い桟橋から雪の粒のようなものが舞い上がるのが見えた。ワイバーンだ。

「あのワイバーンの横へ」

 キアラが言うとカイエンは翼を畳んで尻尾を振り、その僅かな重心移動で体の軸を下に向けて降下加速に入った。風圧はほとんど感じない。前の鱗が守ってくれているのだ。この鱗はとても薄く前方が透けて見えるので風防爪という名前がついていた。

 ワイバーンはレオだった。オリンピアも乗っていた。近づくとレオは自らカイエンの翼端についた。編隊の先頭が上位のワイバーンということになるらしい。ただキアラとオリンピアの位階で言うとちぐはぐだ。天使の間では偉い方が前という決まりがあるわけではないが、確かにこちらが振り返ってオリンピアと話すというのは少し気が引ける。ワイバーンの序列意識がうつったのだろうか。

「おめでとう。カイエンは君を認めた」

「わざわざ」

「その気持はあるんだが、できれば落ち着いて祝いたかった。急用だ。イルバレノに戻らなければならなくなった」

「お供します」

「よし、来い」

 キアラの舵取りを待つまでもなくカイエンは緩やかに右旋回して針路をイルバレノに合わせた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ