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オリンピアのワイバーン

 ヴェルチェレーゼの中層大桟橋に天使の乗ったワイバーンが降りてきた。端正な鱗つきで細身、それでいて全体的に大柄で尾が長く、見るからに気位が高く、周囲を威圧するような気配を纏っていた。天使はオリンピアだった。

 いったい何の用だろう。ワイバーンの調子が悪いから診てもらいたい、という感じでもないし、ワイバーンが無関係なら自力で飛んでくるだろう。

「ワイバーンの飼育係を呼んでもらえるか」オリンピアはコートの前を開けながら言った。長い髪が広がった。

「私です」

「その髪の色、キアラといったな」

「はい」

「インレの活躍は聞いている、というか、目を通したよ。軍部で君の名前を知らないとしたら、それは真面目に仕事をしてないってことになるよ。それが、飼育係?」

「家業なので、本国では」

「なるほど、それでグリフォンか」

 キアラはバケツに水を汲んできて甲板に置いた。オリンピアのワイバーンは舌先を水につけて喉を潤した。もともと代謝が低く汗もあまりかかない。食べ物から摂取する水分で十分だと言われている。逆に言うと唾液の分泌も少ない。飛んで風を受けると口や喉の渇きがしばらくそのままになる。口をつけて飲み込むのではなく舌を浸しているのは舌の表面のざらざらによる毛細管現象で吸い上げているからだ。一見効率が悪そうだけど、そもそも天使とはスケールが違う。見ているとみるみる水位が減っていくのがわかるし、舌を引っ込めて口を閉じるとスポンジを絞ったみたいに水が溢れてくる。オリンピアは腰に提げていたタオルでワイバーンの口の回りを拭った。

「よしよし。レオでもこんなに飲むことがあるんだ」

 レオ、というのがオリンピアのワイバーンの名前らしい。案外可愛い顔もするんだな。

 オリンピアがハーネスからリードの一端を外してキアラに手渡す。気を抜いたわけじゃない。ただレオの態度がそこで一変した。キアラを跨ぐように前足を踏み出し、首を低くして片目で睨んできた。キアラからすると大きな黒い影に逃げ場を奪われたようだった。

 カルテルスの刃はワイバーンの厚い鱗だろうと容易く貫き切断する。使えない。ゼネラルのワイバーンを傷つけるわけにはいかない。奇跡を封じられた天使はあまりに非力だ。

「レオ、やめろ」

 聞く気がないとわかるとオリンピアは躊躇なく奇跡を使った。

「リードを放せ」

 キアラとレオの間に何か透明な膜のようなものが広がり、レオはその何かに腹の下を掬われてひっくり返った。何トンもある巨体がぬいぐるみのように宙を舞った。

 レオは身をよじって体の天地を戻そうとしたが、2枚目の膜が上から押さえつける方がよほど早かった。突っ張った足が膜をぐにゃっと歪ませるが、弾性に負けて押し戻される。膜の方が破れる気配はない。オリンピアは逆さになったレオの鼻を何度もぴしゃっと叩きながら叱った。「やめろと言ったらやめるんだよ。どんな状況だろうと興奮を制御するんだ」

「風の奇跡ですね」

「そう言われるが、本質的にはエントロピーの操作なんだ。この膜も光の屈折がそう見せているだけで実体はない。超高密度の空気の層がほぼ液体として振る舞っている」

「エントロピー」

「風っていうのは気圧の疎密の間に生じるものだ。私は風そのものではなく物質の疎密を操作している。層の表面に力場の境界があるから風が出ていくことはないけど、外から力場の内側に入ろうとすると、ほら、押し返される。いわば浮力だ。水に入ると体が浮く。水は比重の違うものを押し出そうとする」

 キアラは膜に手を差し込んでみた。確かに固体ではない。強く押し返される。バランスボールを押した時の感触に近い。

「熱くはならないのですね」

「いや。厳密に言うと加熱と吸熱が釣り合っているんだ。熱を圧力に循環している。まあ、そのあたりは私にも実感がないんだけど」

 レオがおとなしく、というかほとんどぐったりしたところで式を解いた。レオはしばらくそのまま、それこそぬいぐるみみたいに固まっていたけど、名前を呼ばれると起き上がった。キアラに向ける目はまだ冷めたものだった。

「ワイバーンを手懐けるには力を見せることだ」

「私の奇跡は傷つけます。押さえ込むような使い方はできない。殺すか、全てを許すか、どちらかです」

「君にとってはそうでも、ワイバーンというのは根本的に、はるかに天使より強い生き物なんだよ。猫とか馬のような、時に人間を警戒する生き物とは全然違う。こちらが全力で抗って命を守れるかどうか。ワイバーンにしてみれば自分の命を心配するような争いにはならない、なるはずがない、という認識なんだ。つまりね、こちらがいくらか傷つけてはならないと配慮していても、ワイバーンにとってそれはあくまで『傷つける方法がない』なんだよ」

「ワイバーンは天使の心を読むと言いますが」

「読む。しかし正しく読むとは誰も言っていないはずだ。ワイバーンは曲解する。天使の礼節はワイバーンには怯えに見える」

「接するにあたって礼節を重んじよと教えられましたが」

「それはワイバーンに対する礼節じゃなくて、ワイバーンの持ち主の天使に対する礼節でしょう。形無しになったのか、卑屈な感じがしてあえて隠したのか知らないけど」

「ワイバーンに対するリスペクトは虚像だったということですか」

「わかってて言ってるのかもしれないけど、リスペクトってのは天使側の礼節を押し付けることじゃない。ワイバーンの方の文脈に身を置くことだ。周知の通り、ワイバーンの序列は強さで決まる。上の者が下の者に従うことはない」

 説教されているんだ、とキアラはようやく気付いた。レオがマウンティングした時に何の抵抗もしなかったのが飼育係として不適格だとオリンピアは判断したのだ。

「手懐けるには、ただ周りでちょこまか飛び回っている鬱陶しいだけの存在じゃない。お前の支配者なんだと理解させなければいけない。レオを使え」

 強さを示す。ワイバーンの文脈で勝つ。

 キアラはカルテルスを抜いた。2本指、赤い刀身がレオの目に映る。切っ先を立てながらリードを掴む。

「レオ、今度はいいよ」とオリンピア。

 レオは口を大きく開けて威嚇した。戦うに値する相手だと認められたようだった。下がれ、近づくなと言っている。前足の踏みつけが来る。

 キアラは一歩踏み出して上段に切り上げた。レオの中指の爪が飛び血液が迸る。痛みは感じるだろう。それでも爪が伸びてこなくなるような位置ではない。

 レオは右回りに斜め上から尾を打ち下ろした。5本指で受け止める。衝撃。鱗の厚さが一瞬だけカルテルスを弾いた。運動エネルギーをもらうには十分な時間だった。空中に飛ばされた。いなしたが肩が外れそうだ。レオは対空砲の照準器みたいにキアラがどう動くか注視していた。

 キアラは背面で翼を広げて甲板に降下。立ち上がって一度裾を払い、確かめるように上段に構えて一歩一歩距離を詰める。レオは威嚇しながら後ずさる。後ずさる。これは明らかな弱腰だ。切られるのを恐れて手出しできなくなっているのだ。

 キアラは納刀してレオの額に飛び乗った。レオは首を振って暴れる。キアラは首の後ろに並んだ鱗の突起を切り払う。痛むだろう。手綱を握ってもう一度額を踏みつける。今度は大人しくなった。桟橋にぴったり顎を伏せて動かない。

「できるじゃないか」オリンピアは尻尾の手当てに入った。切断こそしていないが血が滴っていた。

 それに背中の棘、前足の爪。ついさっき端正な龍だと思ったのが嘘みたいだった。傷が消えるのに何年かかるだろう。

「ワイバーンの文脈で、と言われましたが、ワイバーン同士でこんな激しいケンカは見たことがないです」

 オリンピアはしばらく考えた。

「序列を気にするような歳になってから初めて顔を合わせる同年代のワイバーン同士、というのがこの国にはいないからじゃないだろうか。幼年期から知り合いならじゃれ合いの中で自ずとマウントの真似事をするだろうし、歳が離れているなら体の大きさが違うから無駄に挑むことはない」

 それもそうだ。ワイバーンはサンバレノにしかいない。個体数も少ない。ほとんどの個体が知り合いなのだ。

 レオは心拍が速まった上に失血でまたぐったりしていた。本質的に爬虫類なので天使ほど心肺機能は強くない。脈が落ち着くまでしばらく寝かせた。

 キアラはその間顔の横に立ってレオの目をじっと見ていた。睨んでいたと言ってもいい。レオは目を逸らすようになった。

 これほど短時間でワイバーンの態度が真逆に変わるのか。


「ところで」キアラは切り出した。こちらから言うのが筋だろう。

「そうだった。これが本題ではなかった」

「時間を取らせました」

「いや、無駄な時間ではなかった。気にすることはない。さて、カイエンに会いに来たんだ」

 そうか、目的はカイエンだったか。

 外周のスロープでワイバーンのフロアに上がる。レオの手綱はキアラが引いた。レオは歩幅を合わせてついてきた。渋々、恐る恐る。そんな緊張感のある雰囲気だった。

 カイエンはいつもどおり日向にいた。部屋の中は午後の陽で黄色く染まっていた。

 まずレオが頭を低くしてカイエンの前で止まった。カイエンはその額に顎を乗せて挨拶に応えた。これが本来のワイバーン同士の序列確認手順だ。下の者が進んで頭を下げる。つまりカイエンとレオの間ではすでに序列が決まっていて、レオの方が下なのだ。

 続いてオリンピアが歩み寄る。するとカイエンはじっと見返したあとくるりと尻尾を向けて開口部から出ていった。

「逃げたか。気難しいね」

 序列が決まっているならレオと同じように接すればいい。オリンピアに対して異なった反応を見せたのは序列が決まっていないからだ。カイエンは物腰や気配からオリンピアの強さを察して序列づけそのものを避けたのだ。

「威嚇もしないか」とオリンピア。「さすがに賢いな」

「強いだけではなく?」

「何と言うのかな、老獪なんだ。性格もあるのかもしれないが、波風を立てず、それでいて自分が不利にならないような処世術を心得ている。レオのような若造とは違う。あれを手懐けるのは大変だよ」

 大変、か。手駒のワイバーンがいる天使が、しかもゼネラルが言うのだからそうなのだろう。

 でもキアラは悲観的にはならなかった。どちらかといえば「気難しい」という言葉で気が楽になった。そうか、普通のワイバーンの相手をしていたわけじゃなかったんだ。難しいことを任されていただけだった。

 宇宙が透けた深い空にカイエンの白い鱗が光る。

「あれはギネイスのワイバーンだったんだ」オリンピアは言った。やや独り言寄りの話し方だった。「それを手懐けられないうちはゼネラルとして肩を並べることはできない。そんな気がしてね。懐かせることができれば、それでようやく彼女を本当に安らかに眠らせることになるんじゃないかな。このままでは私の自覚はいつまで経っても代理であり臨時のままだ」

「私はただ懐かせてみたいんです」

「使命か」

「いいえ」

 オリンピアはカイエンを目で追うのをやめて地平線を見た。

「その方がいいのかもしれないな。本当にそうなら、そうかもしれない。私は先に多くのものを負いすぎた。下心だな。ここでみっともなくなりふり構わず飛び出して追いかけられるほど若くもない」

 まるでそうしろと言っているようだった。その姿を見たいと言っているようだった。

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