アーバインの手記⑤ キメラ
2463年8月、私は苦痛で目を覚ました。
誰かが私の首を締めているのが見えた。8月だ。通常の周期なら9月に目覚めるものだ。
冬眠カプセルも3代目になり、目覚めとともに体を動かすこともできるようになってはいたが、それは事前に時間をかけて代謝を調節しているからであって、フライングには対応していない。体が追いついていなかった。
喉に力を入れて抗うことさえ困難だった。やがて痛みも朧になり、再び眠りに呑み込まれていくような感覚があった。
天使の手によって殺されるならそれもいい。順当な罪の清算だ。誰に殺されたか知らずに死んでいくよりもむしろ救いがある。
私は死を受け入れかけた。
だが、それでいいのか?
私に希望を託して死んでいった天使たちに対してそれで説明がつくのか?
死は自己満足に他ならないのではないか?
耐えられる限り耐えてその罪とともに生きるのが私の使命ではないか?
まだ終わってはいけない。
私は全身全霊で腕を持ち上げて相手の手首を掴んだ。10秒でも時間が与えられたことで感覚が戻りつつあった。
間もなく拘束は解かれた。
別の誰かが割って入り、突き飛ばしたのだ。突き飛ばしたというか、飛び蹴りを入れたようだった。
私は勝手に閉じようとするカプセルの蓋をどうにか押さえて外に這い出した。
蹴飛ばした方はジョイスだった。アガサの孫の孫の娘だ。
蹴飛ばされた方は私には見覚えがなかった。若そうだ。冬眠の間に生まれた世代かもしれない。一度は壁に押しつけられたものの、彼女も抵抗してジョイスを殴り返した。
拳と翼による突きの応酬から掴み合いになり、抜けた羽根が舞った。
「やめないか! 私は大丈夫だ」
私が割って入ると2人はようやく手を止めた。
ジョイスが先に力を抜いた。相手にも抵抗の意思はなかった。
「名前は」私は訊いた。
「レヴィ」
「なぜ首を絞めた」
レヴィは沈黙した。
「私の世代か」と訊くとジョイスが頷いた。つまりこの年次の世代を産むお役目を与えられているのだ。
「レヴィ、嫌なら母胎役を引き受ける必要はないんだ」
「そういう問題じゃない」レヴィは顔を上げて答えた。髪は黒いが翼は白かった。賢そうな、悪く言えばこまっしゃくれた顔立ちだった。
「そういうことじゃない。私はあなたを崇めるだけの天使種を継ぐことに懐疑的なのよ」
ジョイスがすごく口出ししたそうにしていたので私は彼女を下がらせた。レヴィと2人だけになった。
「つまり、私が思ってるのは、あなたがいることによって種の方向性が歪められているんじゃないかということ。昔からあなたの業績や思想ばかり聞かされてうんざりしているというのもあるんだろうけど」
「私が歪めている?」
「あなたは神のように崇められていて、あなたが言った『天使かくあるべし』というのが種の命題のように扱われている。私たち天使自身には何の自己決定権もない。このままでは主体性を失った種になってしまう。あなたが本当に死ぬときに大勢の天使が殉死を望むような、そんな生き物が真にあなたが求める自然な生き物であるはずがない。違う?」
確かに自覚がないではなかった。ここ数サイクルの間、私の目覚めは祭のようなイベントと化していた。天使たちは冬眠の部屋を飾り立て、楽器や踊り、御馳走で私を迎えた。
レヴィは私に対してそのような過剰なリスペクトを抱いていなかった。
「私の死によって種として解放され、真に自然なあり方を手に入れると」
「このままじゃ、天使があなたという神から解放されることはたぶんない。ただ、死によって無害で都合のいい神になることはできると思うの。直接意思を確かめることができなくなれば、問題は残った言葉や業績をどう解釈するかだけでしょ?」
「このままじゃ?」
「神に挑み、その座を奪うことによって、先代の神はやっと価値を失うことができるのよ。違う? あなたは天使を生み出す時にそうは思わなかった?」
「……まさか」
「疑問に思ったことはない? なぜ天使が新しい生き物を生み出そうとしないのか。ここにはその技術があるし、やり方だって知っているはず。――なぜならそれがあなたという神の御技だから。あなたに並び立とうとするのは不敬な行為だから。だから誰も挑まないの。でもそれって不当に遺伝子工学の解明を遅滞させているんじゃない?」
「私は控えさせているつもりはないが」
「神っていうのはそういうものなのよ。自分の意図を100%下界に伝えることはできないの。そんなに気を遣わなくていいと思ったって、忖度が独り歩きしていくものなのよ。でも私は畏れない。同じ土俵であなたに挑む。だから見てほしいの」
「本気で殺すつもりはなかったのか」
「みんながあなたを囲んでちやほやし始める前に一対一の時間が貰えればよかったの。あれくらいやらないと覚醒しないでしょう? でももし抵抗されなかったらそのまま続けていたと思う。死にものぐるいでもやりたいことがあるってくらいじゃなきゃ、挑む意味がない」
レヴィは私を塔の下層まで連れていった。そこにはかつての地上世界を再現した部屋があった。土が敷かれ、芝が這い、灌木が根を張っていた。
しかしレヴィが見せたいのはそんなものではなかった。
それは4足歩行のワシとしか形容できない生き物だった。鉤爪のついた4つの足でサラブレッドのように気高く歩き回っていた。レヴィが足に触ろうとすると翼を広げて威嚇した。頭の高さこそ大型の猛禽と同じくらいなのだろうが、がっしりした肢体のせいで二回りも大きく見えた。
「先に嘴が出るのはまだワシなのよね。見てのとおり、グリフォン」
「体はライオンで尾は蛇という」
「そんな気持ちの悪い組み合わせは御免よ。美しい羽並みでしょう? ああ、ライオンといえばネコの骨格は借りているけど、それだけ」
「母胎はどうした?」
「人工子宮。私はあなたほど自然主義じゃないの」
「しかし、何のために。道楽ではあるまい」
「趣味と気まぐれで生き物を生み出すのは許せない?」
それは人間の時代の創造神を揶揄した言葉だった。
「かつての生態系を可能な限り保存する使命を与えられた世代としてはね」
「嘘。残念だけど、グリフォンにも目的はあるわ。天使の、塔の時代の家畜になるのよ。もっと体を大きくして、天使が乗ったりものを運んだりできるようにするつもり。それに、地上の動物を持ち込めなかったせいでフラム耐性の研究が滞っていたんでしょ。グリフォンを使えばいいわ。ここで生まれたのだから清浄だし、プラントの家畜みたいに管理されてない。」
レヴィの価値観には共感できない部分もあったが、正直なところ、私はグリフォンの完成度に感心していた。舌を巻いていたと言ってもいい。それが天使全体の技術レベルなのか、それともレヴィの個人的なセンスなのかはわからなかったが、200年前のノウハウが、目覚ましい発展こそないにしても、失われることなく成熟しているのは明らかだった。
レヴィはすでに10頭あまりのグリフォンを飼育していた。彼女の言ったとおり、グリフォンはフラム耐性研究によく貢献してくれた。生後3年で成熟し、年2,3回繁殖を行うことができた。サイクルが早いのは何よりのポイントだった。
鳥類と哺乳類のキメラという点では天使に応用しやすい成果も少なくなかった。
2663年、次のサイクルではすでに馬のサイズまで大型化したグリフォンが誕生していた。
しかも彼らはフラム耐性遺伝子を与えられ、時間制限なくフラム下で活動することができた。
それはレヴィの娘たちも同様だった。彼女は私の判断を待たずにフラム耐性遺伝子を天使に導入し、そしてやはり驚くほど成功していた。レヴィは間違いなく私以上のセンスの持ち主だった。




