アーバインの手記③ 別れ
2263年、第1世代から第2世代への変化は微々たるものだった。内臓の容積にして平均5%以下、翼の形も見てわかるようなものではなく、飛行性能も個人差と呼べる程度のものだった。
時間が必要だ。
種そのものの操作にはとにかく長い時間が必要だと私は思った。
ひとまず、第1世代のような大きな操作を加えなくても、純粋な人間男性との生殖で自然に世代を継いでいけることだけは明確になった。男性天使の不在は種として不完全だが、種の保存はなされた。
そこには大きな意義がある。それは間違いない。
ただ、クレス、第1世代、第2世代と次第に感動が薄れつつあるのを自覚しないではなかった。
この20年、あるいはのちのもう20年も含め、私にとって最も重要だったのは家族のことだ。
2283年、アナは次の目覚めまで私を待っていた。
まだ80歳を過ぎたばかりだったが、特に肺の機能が低下して、認知機能も衰えていた。
その年だけは彼女は私のカプセルを覗き込むのではなく、隣に置かれたベッドの上で私を待っていた。
彼女と顔を合わせるには私の方が体を起こさなければならなかった。
「おはよう、グラト。今日もハンサムね」彼女は言った。
それがほとんど最後の言葉だった。
私が触れるのを待っていたかのように永遠の眠りについた。
私はクレスとともにアナを送った。塔の上では遺体は例外なく完全に焼却されなければならなかった。
部下たちはアナの死を無線に乗せて発信した。すでに塔の間を行き来することはできなくなっていたから、それが精一杯の方法だった。
知らせは塔という塔で中継され、世界を巡った。やはり数多の塔を経由して返事が届いた。この時ほど多様な言語で書かれた弔慰を私は未だかつて知らない。
私は彼女がいかに偉大な功績を残したのか思い知った。
私が象牙の塔に籠もっている間に彼女は世界の英雄となっていた。高度順化用のナノマシンはそれほどまでに普及していた。
悲しい出来事は続いた。
2303年、次の冬眠のあと、クレスが目覚めなかった。すでに3度耐えたのだから大丈夫だと慢心があったのだろうか。
いや、違う。すべて今までと同じだった。カプセルの整備も体調の管理も万全だった。
だがクレスは目覚めなかった。息をしていないわけではない。ただいくら加温しても代謝のレベルが上がらないのだ。一種の植物状態だった。
私は今までどおり次の世代のための作業を終えた。
クレスは目覚めない。
ただひたすら待って半年経った。クレスは目覚めない。
その後、私はクレスに死を与えることにした。それは私自身に死をもたらすのと同義であるように思えた。
天使種の開発はもはや決まった作業の繰り返しだ。天使の中から遺伝子工学のエキスパートも育った。男の天使がなくても種は存続できる。フラムに耐えられなくてもフラムが塔の先端まで覆い尽くすことはない。私の役目などもう些細なものだ。
私は一種の心中を求めていた。
私は再び目覚めた。
二度と目覚めないようにカプセルの設定を書き換えたつもりだった。天使たちにも手出ししないように言い置いたはずだった。
だが目覚めた。
2323年になっていた。
最初に眠りについてからちょうど100年だ。
コールドスリープなどというのは幻で、100年分時計が狂っているだけなのではないかと思った。その4桁の数字そのものは何の確証も実感も与えてはくれなかった。
むろん、それにしては天使が多すぎた。私の目覚めを待つ人々の半分は天使だった。人間の女性はいなかった。
私は初めて眠りにつく前に覚えた茫漠とした未来に対する不安を思い出した。クレスにかけられた魔法が解けてしまったかのようだった。
「なぜ殺してくれなかった」
「私たちにはあなたが必要なのです」30半ばの天使が言った。周りより一歩こちらに近い。彼女が中心的役割を担っているようだ。
見覚えが……。
「君は……アガサか」
「はい」
「綺麗になったね」
前に見た時は15歳の少女だった。いわゆる「私の世代」ではない。直接私の手で操作した世代ではないという意味だ。
何もこの研究所では20年に1度しか生まれないということはない。私が眠っている間に自然に子をなして年齢層にも偏りがなくなりつつあった。
「私以外に研究所創設以来のメンバーは残っているか?」
私が訊くとアガサは目を伏せた。
「5年前に最後の1人が亡くなりました」
それはイヴン・パストールだった。やってきた頃の少年のような元気いっぱいの姿を憶えている。それでも最後の10年は寝たきりだったというが、最年少の彼が順当に最後まで残ったわけだ。
「……いよいよ孤独になった」
「いいえ。私たちがいます。私たちが死んでも、その子孫が必ずあなたのそばにいます」
クレスは言っていた。天使種の礎とならないなら自分の存在に意味はないと。
その心は今の世代でも変わっていないのだろう。
それに応えるのは生み出した者としての責務、罪滅ぼしなのではないか。私は人間を創った神ほど無責任にはなれない。
気力などなかった。私はただ機械的に体を起こした。
これだけ長い眠りを経てきたのだ。単に肉体が機能しているというだけのことで、ここはもはや死後の世界なのだ。
かつて私はあくまでその姿において「天使」と命名したつもりだったが、今になって意味的にもふさわしく思えてきた。
その名前によって何かひどく重苦しい呪いをかけてしまったのではなかろうか……。
「問題は山積みですよ。さあ、立ってください」
その言葉通り、アガサは私の身の回りの世話をするとともに怒涛のように仕事を回してきた。彼女の用意した仕事は妙に課題がはっきりしていて取りかかりやすかった。きっと相当練り上げってから私に伝えているのだ。
思索する時間を与えず、独りになる時間を与えず、自殺、あるいは精神的な死を防いでいる。
私は次の目覚めより先のことを考えるのをやめた。目先の改良で十分なほど天使種は完成されつつあるように思われた。
アガサは美しい天使だった。
ここまでで済めば平穏だったのだが、あまりに多くの出来事があった1年だった。
天使は5世代目になっていよいよ内臓に操作の影響が出始めていた。糖尿病や黄疸の症状が有意に増加していた。これは天使の母数が増えたことで生活習慣や体質にもばらつきが出始めたことも意味しているだろう。対策としては縮小を肝臓と腸に限定すべきかもしれない。
だがこの年、私の本分における問題は結果的に比較的小さな問題だったと言わざるを得ない。
グレナディーンの塔そのものに死が近づいていた。




