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エンジェル・ストライクに気をつけろ  作者: 前河涼介
プロトタイプ・エンジェル
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アーバインの手記② フラム

「それは選択ね」

 私の話を聞いてアナはそう言った。

「つまり、両立はできない。なぜ今フラムに耐性を持った生き物ではなく、翼を持った人間なの?」

「フラム耐性の開発を進めてもどのみち今の世代の人間たちは地上では生きられない。次の世代になったからといって直ちに全人類に操作が行き渡るわけでもない。長期的に塔の上だけで種をつなぐことを考えるのなら、塔を渡る能力はいずれ必要になる」

「わかった。未来はあなたに任せるわ。私はこの時代に残る。この時代に残って、あなたのためにあと20年人類を生かしておいてあげる。私なりに人を変えてみせる。……なんてね、今できること、やらなければならないことが多すぎるのよ」アナはそう言って肩をすくめた。茶化した方が本心だった。時間に引き裂かれたくなんてなかったのだ。彼女は私の腕の中で泣いた。


 最初の課題は母胎の募集だと思っていた。誰も自分の肉体の改造を望まない、というのがアナのサイボーグ研究において最大のボトルネックだったことは私も強く意識せざるを得なかったからだ。

 自分の体でさえ操作を嫌うのに、まして自分の子供をそのような実験に捧げてもいいという親などいるのだろうか?

 しかしその点、研究所は特異なコミュニティだった。

 スタッフたちは私たちの研究について過不足なく理解し、かつ使命に燃え、何より、クレスというか、私自身とアナのケースによって勇気づけられていた。

 私がクレスの次の世代に挑もうとした時点でアナの部下を含めて30組ほどのカップルがあったが、16組までは被験を引き受けた。これは適齢期というものを考えれば100%といって過言ではない割合だった。

 大きな心配が片付いたことで、私は1ヶ月余り新しいデザインの遺伝子組み換えに集中することができた。

 妊娠期間の経過観察と並行してコールドスリープ用のカプセルも調達し、1週間や1ヶ月の短期冬眠ならば繰り返しの使用も問題ないことを確認した。

 そして16人の新しい世代は全員無事に誕生した。

 彼女たちの成長を記録できないのは残念だったが、私とクレスはまるで祝福を与える聖人のように去らなければならなかった。最初の長い眠りが始まった。


 長い、という感覚がないではなかった。ただそれはまるで幻覚のようだった。時折長大な時間を旅する夢を見ることがあるけれど、それと区別がつかなかった。夢なのだと言われれば確かに夢のように思えた。


 目覚めた時、アナが待っていた。感覚が開いてから体が動くようになるまで非常に長い時間がかかった。筋肉より神経細胞の方がより低温でも機能するらしい。

「おはよう、グラト」

 見間違えることもなかった。予想もしていた。それでも明らかに歳上になったアナを見るのは気が咎めた。私にとっては昨日ぶりでも、彼女にとっては19年来の再会だった。

 どれだけ求められていたか、感情ではわからなくても考えれば理解できた。理解できないはずがなかった。


 私たちはクレスを起こした。彼女にも無事の目覚めが訪れた。

 16人の天使たちは1人も欠けることなく元気いっぱいの19歳になっていた。

 飛び立つにはまだ向かい風と長い助走が必要だったが、それでも飛行姿勢は美しかった。


 彼女たちはおおよそ期待通りの形質を獲得していた。遺伝子操作の弊害と呼べそうなものもまだ発現していなかった。

 ただ、それは決して天使として十分な姿に至ったという意味ではない。彼女たちは鳥類から譲り受けた立派な翼を持っていたが、まだ羽ばたきの力は弱かったし、内臓の容積や体重も純粋な人間並みだった。さらに言うなら翼の形状もまた人の体で飛ぶために最適化されているわけではなかった。

 まだこれからだ。クレスが言ったとおり、自然による淘汰がどのように種を洗練していくのかを想定して微妙な操作を続けていかなければならないはずだった。

 最新の世代の遺伝子をベースに次の世代をデザインする。それを繰り返す。

 それは遺伝子操作というよりももはや交配の領域だった。


 19歳の天使たちはその親によって次の世代の母胎となることを幼い頃から運命づけられ、それを一種のイニシエーションのように捉えていた。

 自分自身への気休めに過ぎないことは自覚していたが、私は彼女たち1人1人と話して意思を確かめた。まるで志願兵と話しているような気分だった。

「私が自然母胎にこだわるのは人為に頼らない種の存続を目指しているからだよ。強制力を働かせるのは早速そのポリシーに反する」

「迷いはありません。私も同じ思いだからこそ協力しなければならないと思っています」

 語気の強さに差はあれ、彼女たちは軒並みそう答えた。

 しなければならない、か。

 あくまで自分の意志のニュアンスで固めてくる子もいたが、ほとんどは必然性を含んだ言葉選びだった。

 彼女たちは自分で発した言葉から心が弱りかねないことをよくわかっていた。私もそこに水を差すべきではないのだろうと思った。思うことにした。


 次の世代の誕生を待つ間は天使以外の研究や家族のために時間を割くこともできた。

 私はアナに世界の変化を聞いた。グレナディーンの塔の入居は数年前に完了していた。この20年で爛気は北半球を覆い、地上は森林面積の90%を失い、北極圏の氷は完全に消失した。上層ではまだ外気に出ることができたが、地上の景色は様変わりしていた。街も森も境目なく灰色に塗り込められていた。海だけが青く不気味なほど健康的にきらめいていた。


 彼女は外科的なサイボーグ研究に見切りをつけ、血中ナノマシンの研究に転換してすでに成果を上げていた。

 いや、転換というのは不適当かもしれない。機械と人体の融合を突き詰めた先にあったのが核動力のナノマシンだったに過ぎないとも言えるようだ。

 血中に留まる性質上、爛気に対する耐性を持たせるのは難しいが、とりあえずは高度順化を助ける代用赤血球として完成していた。

 地上からの退避が進み、塔では高山病が深刻な問題になっていた。特に中上層に当たる高度15000フィート以上はその高度で改善しない慢性的な体調不良を起こすことが多く、「非生存圏」つまり爛気に覆われたエリアと同じ呼び名で揶揄されているようだった。

 確かに上層に位置する我々の研究所でもその影響は以前から認識されていた。診療所に高与圧室が併設されていて、私自身世話になった経験があった。

 すでに研究所のスタッフのほとんどがナノマシンの注入を受け、高高度での快適な生活を手にしているという話だった。

「フラム耐性の方を諦めたというわけではないんだろうね?」私は訊いた。

「もちろん。でもあなたが言ったとおり塔への適応の方が危急の問題なのよ。いい下地を作ってみせたでしょう?」

「ああ。こと実現性の面においては君には敵わないよ」

「それに、フラムに関してはあなたの答えの方がずっと綺麗だと思うの」


 私は天使の研究と並行して、というより天使の着想以前から、生来的(アプリオリ)なフラム耐性の開発に努めていた。

 フラムが作用するのは専ら肺なので、何らかの方法でフラムに晒されても呼吸を妨げられないようにすればよかった。最も実用的なのはじん肺の仕組みを応用した方法だった。肺胞細胞の再生を速め、フラムと反応した細胞を古い皮膚のように剥がして吐き出すことで呼吸を維持するものだ。

 イヌ・サルまでの実証は済ませたが、塔に入ってからは実験動物が手に入らなかった。防疫の観点から持ち込みを厳しく規制していたのだ。動物には動物の、ペット同伴者にはペット同伴者のための塔が用意された。研究所があるのは最も厳しい基準で守られた塔だった。

 だからといっていきなり人間で試すのはステージの飛躍である上に倫理観が咎めた。試すというのは、つまり被験者をフラムに晒すということだ。私は息ができずに苦しんで死んでいく動物たちをたくさん見てきた。あまりにたくさんの、だ。


「来年生まれてくる子供たちに耐性遺伝子を持たせるのはどうかしら」アナは言った。

「観察は?」

「耐性だけなら成人を待たなくても確かめられるでしょう。その程度なら私とあなたの部下たちでも記録できる。結果が出ればあなたが見ている世代の子供たちにフィードバックすればいい。大丈夫よ、あなたのポリシーに反するようなことはしない」

 確かに、呼吸機能の低下を自覚しない程度の糜爛であれば局所的には許容できるのだ。私はただ自分で手を下すことから目を背けていたいだけだった。

 私はアナの提案を受け入れることにした。そしてクレスとともにまた長い眠りについた。

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