アーバインの手記① 天使
「天使という種を生み出すには、いくつも世代を重ねなければならなくて、それにはとても長い時間が必要で、それを最後まで見届けるために自分を生き長らえさせた、ということなんだろうか」とカイはアーバインに対する認識をまとめた。
「ええ。あの方は世代交代の周期でコールドスリープを繰り返したの。基本的には20年。19年眠り、1年で次の世代の誕生を見届け、再び眠りにつく。それを80回近く」パトリスが答えた。
「天使を生み出すのに1600年かかったということかい? しかし4〜500年前といえば今のエトルキアが天使の支配下にあった頃のはずだ。新しい生き物がそんなに短時間で世界中に浸透してヘゲモニーを握るとは思えないな」とジャスパー。
「エンジェルの開発は最初の500年で十分なレベルに達していた。残りのうち300年は奇跡を持つ天使のために、800年は男性天使のために費やした」
「アークエンジェルも意図的に生み出されたと言うの?」ジリファが訊いた。
「いいえ、彼の意図ではないわ。彼が奇跡に可能性を見出していたのは確かだけれど、それは偶然生まれた奇跡を目にしたあとのことだった。彼は天使種の存続のために奇跡を活かそうとした。けれど制御することはおろか仕組みを明らかにすることさえできなかった。300年というのはあくまで彼が諦めるまでの300年なのよ。非意図の変異が種の進化を引き起こすものならば、これ以上の進化はないでしょう」
「天使そのものより時間をかけたのが男性天使?」とジャスパー。
「ええ。天使の遺伝情報が煮詰まったタイミングで彼は性染色体以外の染色体による遺伝を試みた。人間では実績のある方法だったようだけど、なぜか天使では上手く行かなかった。もうわかるでしょうけど、結局彼は成功しなかったのよ」
「諦めた、というニュアンスではないね。死の間際まで挑戦を続けていたということかな」
「諦めたくはなかった。けれど諦めなければならないこともわかっていた。晩年には彼も体が弱って自らの手で研究を進めることは難しくなっていた。余計に時間がかかった。後世に託すという形で身を引いた。引かされたと言ってもいい。彼を囲む者たちも死に方を選ばせるくらいのことはしてあげたかったのよ」
「最後の人間さん、最後まで一人ぼっちじゃなかったんだね」とエマ。
「ええ」
「その中に君もいた」
「彼を看取ったもの、という意味ではそうなるのでしょうね」
「ところで、君はいつからアーバインを見ていたんだろうか」
「いつから?」パトリスはその問いには答えなかった。ただ何も言わずに手帳を開いた。
……………
いくらか遡ることになるが、私が天使として生み出した最初の子の話から始めるべきだろう。当時はまだ一般向けの塔への入居が始まっていなかったので、グレナディーンの塔で最初に生まれた命と言ってもいいはずだ。
肩の後ろに翼を持った赤ん坊が取り上げられるのを見た時、私は心底感動すると同時に、自分が何か取り返しのつかない罪を犯したような感覚にとらわれた。それが遺伝子工学の実践者として当然の感覚であると思っていたのも事実だが、そういった同種の感覚によって積み上げられ押し固められた殻のようなものがその時突き抜けに打ち破られるのがわかった。本来長い臨床を経て少しずつ行うべき操作を私は大胆にも自分の娘に施し、自分の妻に産ませたのだ。
可愛い娘だった。翼の付け根があせもになりやすい以外は至って健康だった。クレスと名付けたその子が初めて翼を開いたのは4歳の時だった。
翼もまた手の指と同じように月日とともに器用になっていくもののようで、2,3度換羽を経て風切り羽も立派になり、翼の先端まで空気を掴む感触が行き渡ったようだった。
ところがクレスはいくら待っても自力で飛翔することはなかった。羽ばたいてはみるものの、翼の動きはいかにも緩慢で、体が浮き上がる気配がなかった。
必要な筋力が不足しているのだとわかった。ただそれは操作を加える前から危惧していたことであって、成長にしたがって力がついていくようにデザインしたつもりだった。デザインが意図どおりに現れるとは限らないというジレンマの典型例だった。特に生まれ持った形質ではなく成長過程による変化は予め決定しづらいという問題も認識していた。
問題はもうひとつあった。翼の付け根の位置だ。骨格としては肩から指先までを複製し、肩甲骨が二重に重なるようにデザインしていたが、確かに窮屈な配置ではあった。クレスは背もたれの高い椅子には座りづらそうだったし、仰向けに寝るのも嫌った。
何よりの影響は飛行姿勢だった。クレスは自力で飛び立つことはできなかったが、安定して風のある日であれば私の手を引いて凧のように滑空することはできた。その際に彼女は翼をパラソルのように持ち上げてほぼ直立の姿勢で浮上するのだった。風速があれば姿勢が前傾していくのかといえば、そうではなかった。風に向かって額から足の爪先までが同軸一直線になるのが理想的な飛行姿勢であって、クレスのそれはどちらかといえば降下姿勢だった。
つまるところ揚力中心が体の重心に対して上すぎる――頭に近すぎるのが原因だった。
私は航空力学についてあまりに無知に過ぎた。
翼を腰の方に引きつけて広げてはどうかと思いもしたが、その形だと付け根の関節が痛むという。つまり浮力を受けることで背中側に力がかかり、腕が極まったような状態になるのだ。
まだ洗練されていない、というのはかなりオブラートに包んだ感想だった。
正直に言えば、失敗だと何度も何度も思いかけた。しかし私はその感情を自分自身にさえ隠そうとしていた。自分の娘が失敗作だなどと決して思いたくはなかった。それを認めることは私にとって重すぎる罪であり、それ以上にクレスにとって重く深い汚辱だった。
クレスは献身的だった。12,3歳ですでに私の論文を読み漁り、15にして立派に助手の役をこなしていた。彼女はアナの伝手で航空工学の専門家に当たり、自ら自身の問題に行き着いた。そして私にこう言った。
「翼の付け根は本来の肩甲骨の下に置くべきだと思うの。そうすれば背中のラインもシンプルにできるわ」
「しかしそうなると翼を打ち下ろすための筋肉を内臓が収まるべき位置に置かなければならない。どちらかだ。生き物として成り立たない」
「いいえ、何も小鳥のように羽ばたく必要はないのよ。オオワシやミズナギドリのように必要な時だけ羽ばたいて、あとは風に乗って滑空しておければいい。その程度の筋肉なら胸骨を伸ばしてそこから背中に鎖骨を渡して、肝臓を縮小して空けたスペースに収まるでしょう?」
「内臓全体を動かすというのか?」
そう、私はこの時まで翼を付加的な器官だと思っていた。あくまで翼を持った人間を作ろうとしていたのだ。
だがクレスが見ているものは違った。アウストラロピテクスに対するホモサピエンスのような、全く新しい種の生き物を生み出せと言っていた。
確かにそれはフラムに覆われた新しい世界の生態系にとって必要でふさわしい新しい人類種の姿なのかもしれなかった。私とて夢想しないではなかった。ただ躊躇していたのかもしれない。
「私はこの体に生まれついたことを悲しんではいないわ。風は気持ちがいいし、この塔の上にいれば人目に晒されることもない。でも、満足していないんでしょう? この体を生き物として洗練された姿だなんて思っていない。歪だ。違う?」
そしてクレスは私が避け続けていたものを突きつけた。
「失敗だということを認め、自覚するのよ、グラト・アーバイン。その礎になれないのなら、私は自分の存在理由を失ってしまう」
「それだけ繊細な操作は1代や2代ではきっとうまく行かない。10世代、あるいは100世代、神が我々を作ったのと同じくらいの時間をかけて洗練していかなければいけないかもしれない」
「それを見届けるのよ。すべての天使の父になるの」
私はその時「どうやって?」とは訊かなかった。愚問だ。すでに種の保存のためのコールドスリープ技術が普及しつつあったからだ。何度も目覚めと眠りを繰り返す運用は想定されていなかったろうが、不可能ではないはずだった。
そう、種の道程を見届けるならば世代交代のその瞬間に立ち会えればいい。時に50歳を目前にした私は自分の寿命をどこまで引き伸ばせるのかを想像した。あるいはそれは普通の眠りの体感と大差ないのかもしれない。しかし人間の時間感覚は本質的には体内時計ではないのだ。環境だ。
大勢が私の前に現れ、駆け抜け、去っていくのだろう。自分が旅する時間の長さよりも、その最中で失っていくべきものの大きさと多さに私は恐れおののいていた。
「父さん、大丈夫、私も一緒に飛んであげるから」
その言葉にどれほど背中を押され、心が安らいだか。私は今でもひどく鮮明にその時のことを思い出すことができる。




