回想
「黙示録にはアーバインとリルメインが袂を分ったと書いてあるけれど、その記述は誤りだと思うの?」ジリファが訊いた。
「おそらく誇張でしょう。リルメインはあの方の教え子だった。もとより遺伝子工学を学んでいたのよ。修士課程を機にアンドロイド分野に転身したことを捉えて『訣別』と表現しているのでしょう。もっとも彼女自身はその選択についてあの方の研究を助けるために試した異なるアプローチに過ぎないと考えていたようだから、表面を掬っただけの誤謬、あるいは恣意的な曲解と言えるでしょう。その中立性は私も一目置くところだけど、それはあくまで『比較的』と枕のつくものであって、黙示録にもまた筆者があり、彼らにも意図はあった。違うかしら。――その点、カイ・エバート、あなたの考察はいい線をついていた。あの方もリルメインも一種の進化を命題にした点については一貫していた」
「彼らはこの世界にフラムが現れてから研究を始めたんだろうか」
「いいえ、と答えましょう。今日においてフラムばかりがカタストロフィの元凶と認識されているのは仕方のないことよ。けれど、それ以前から人類を取り巻く環境はとても険しいものになっていた。海は荒れ、空気は濁り、太陽は翳った。その中で生存環境を確保するには、より深く自然を傷つけるエネルギー交換が必要だった。負の連鎖が周期を狭めつつあった。人間の方が生き物として文字通り変わらなければ根本的な解決には決して至らないとあの方は考えていた。生存環境の操作なしに、過酷な環境を肉体的に受け入れて生きていけるようにならなければ、と。フラム以前に明確な到達目標を定められていなかったのも確かでしょう。その時点では言ってしまえば贅沢な研究だった。人間に対する遺伝子操作というハードルも高かった」
「フラムの出現によって的を絞ることができるようになったわけだね」
「そう、そして危急性が生じた。西暦2189年、この時あの方のもとに集った大勢の中にリルメインもいた。でも当然数年で結果の出る分野じゃない。2192、リルメインは民間企業に移ってアンドロイドの開発に関わるようになった。当時は人間に代わってフラム環境下で塔の建設を進めることのできるアンドロイドの普及が世界的な急務だったのよ。土木作業用の、堅牢でものわかりのいいアンドロイドが。リルメインはソフトウェア設計で頭角を現した。彼女の作ったモジュールは程度の差はあれほとんどのアンドロイドに使われた。この島の地上にある研究所の予算はその名声をもって獲得したもの。サイボーグ研究に傾倒していくのはそこからだけど、あとから思いついたというより、かねて野心を抱いていたのでしょう。そして師を招いて共同研究を持ちかけた。時に2192、すでにあの方の研究は資金繰りに苦しんでいた。資金投下を続けるには時の政治家たちの心はあまりに焦りすぎていたのよ」
「案内してあげる」パトリスはハンガーから降りて翼を畳んだ。
展示ケースの通路の逆端が広い下り階段になっていた。3階層ほど下りただろう。工場区画だった。塔のメインシャフト側に大きな扉があって、地上からプラントを運び込んだのが窺えた。
プラントといってもコンベアやロボットアームがほとんどで、組み立てラインといった具合。メインシャフトを左手に反時計回りに進むとエアシャワーで区切られた区画に入った。そこにはプラスチック用のプレス機やシリコンの成形プラントが置かれていた。部品の生産区画だった。
「この塔の建設が始まったのは2202。この工場も設計に組み込まれていた。あくまでアンドロイドの工場として、ね」
「その時点ではまだ魔素の可能性は認められていなかったということだろうね」とジャスパー。
「ナノマシンに関しては、彼女自身、まだアイデアにも辿り着いていなかった。サイボーグの普及に見切りをつけたのもそのあとでしょう。2208、竣工。この塔に入ってから2人の研究は大きく洗練されたと私は思っているわ。4000メートルの上空で、地上の混乱や戦争、政治の思惑からも隔離され、塔が供給する潤沢な素材を使って研究に専念することができた」
さらにもう1つエアシャワーを抜けると今度は集積回路などの電子部品の生産プラントに変わった。
次の区画もきちんと区切られていたが、エアシャワーはなかった。出口なのだろう。休憩室やロッカーがあり、メインシャフトのホールにも直接出ることができた。
平面図にするとちょうど4等分したうちの1つが各々に割り振られているようだった。塔の中といっても断面の半径は100m近くある。きちんと片付ければ野球ができるだろう。
ただ休憩室の区画だけは天井が低かった。きっかり1階層分だ。パトリスは階段を上った。上の階には個室が並んでいた。ビジネスホテルのような設えだった。さらに1階上がると研究施設だった。冷凍室があり、培養室があり、手術台があり、解剖室があり、薬品庫があった。
この場所で天使が生まれたのだとクローディアは悟った。あえて訊くのも憚れるほど強い直感だった。
「アーバインは人間の遺伝子を操作することによって天使を生み出した。操作した卵、受精卵を人の形になるまで成長させるにはそれなりの設備が必要なんじゃないのかな」ジャスパーが訊いた。
「人工子宮のこと? あの方は使わなかったわ。母親の子宮に戻して、然るべき妊娠期間を経て生まれ出る。下の部屋は彼女たちのためのものよ」
「母親というのは」
「先代の天使よ。よりよい形質を現した天使の卵を使って次の世代を生み出した。今日天使の国で行われているのと何ら変わりのない営みがここにもあった」
「あの部屋の数だけ母胎役の天使がいたということ?」
「ええ」
「その規模なら今でもコミュニティが続いていそうなものだけど」
「脱出したのよ。エトルキアの建国戦争の時、この塔の占領を恐れた天使たちはサンバレノへの流れに合流した。予想に反してエトルキアの人間たちは甲板のないこの塔に興味を示さなかった。かくして聖地の伝承が生まれたのでは?」
「そうか、黙示録はその時代に書かれたんだ……」とジリファ。
「人工子宮を使わなかったのは技術レベル的な問題かい?」ジャスパーは話の筋を戻した。
「いいえ、そんなことはない。それはあの方のこだわり。たとえ時間がかかっても、文明が滅んだあとも続いていく種を創造したかった。あくまで分娩に耐えるものでなければ自然な生き物ではないと。実際そうなっているでしょう?」パトリスは天使たちに投げかけた。
「それって1人の人間の人生の間に成果が出るような研究なのかな。だって数年では足りなかったんでしょう?」
「出したのよ、あの方は」
パトリスは通路を進んだ。
再び円形の空間だ。真ん中に柩が置かれていた。その柩を囲うように傾斜の緩い螺旋階段が上階に伸びていた。天井の造りからして上の階から隠されているのかもしれない。上は先ほどの部屋か。
柩は蓋がガラス張りになっていた。中に寝かされているのは老人の遺体だった。男だ。白装束を着せられ、造花に囲まれていた。筋肉が萎縮して体も顔も痩せこけているが、それだけに妙にみずみずしい肌と耳にかかったつややかな白髪が違和感を醸していた。
「この棺は高度な気密構造になっているの。中に満たしてあるのは高濃度のフラム」
「フラム……」
地上では生き物の死体は腐らない。他の生き物が分解しないからだ。ただ乾燥はしていく。棺の中は湿度も管理されているのだろう。だからすぐにフラムと結びつかなかったのだ。
「誰、このおじいちゃん?」エマが柩に寄りかかって顔を覗き込んだ。
「グラト・アーバイン、あの方です」
「綺麗に残ってるね。まるで昨日死んたみたいだ」とジャスパー。
「この体の死は400年前です」
「そいつはすごいな。腐らないのはよく知っているけど、質感が生きている…………って、400年? いや、いや、2000年前の人物じゃないか? まさか、クローンかい?」
「いいえ、本物、本人よ」
「じゃあ、なんだい、1600年生きたと?」
「そう。断続的に、だけど。でも厳密に言えばそれでも生きていたことに変わりはない」
パトリスは柩の下についた引き出しを開け、革表紙の古びた手帳を取り出した。




