飛行艇
生まれて初めて本物の飛行艇というものを見た。その手の飛行機は胴体の下面が舟形に切られていて水面に降りることができるのだ。サロンの飛行艇は翼の前にスクリューのような二重反転プロペラが4つついた4発機で、胴体の側面に車輪が格納してあって普通の滑走路にも降りられるようになっていた。全く同じタイプではないだろうけど、旧文明の映画の中で時々見かけていたのと同じ種類の飛行機だ。なんだろう、今ひとつインパクトに欠けるのは先にブンドのイドラを見てしまったせいか……。
ジャスパーがそんなものを手配したのは、もちろんリルメイン工廠の周りに滑走路がない可能性を考慮したからだ。不整地着陸を想定した飛行機ならラークスパーで見たけど、いくらなんでも水の上は無理だ。
翼が長くて、低速飛行を重視したデザインなのはクローディアにもわかった。ただそれでも管制とのやり取りを聞く感じ航空路には乗っているようだった。カイに言わせるとこれは結構難しいことで、スピードも速いし高度も高いから、例えばレース機では乗れないらしい。機敏だけどジェット機みたいに単純なスピードが出せるわけじゃない。
飛んでいる間はマユが操縦士席、カイが副操縦士席、ジャスパーが航法士席についていて、キャビン――といってもガランドウのほぼ荷室――にいるのはクローディア、ジリファ、エマの3人とパトリスだった。エマはまだ本調子ではないようで奥の仮眠棚でゴロゴロしていたから、あとの2人で話すには顔を寄せて小声にしなければならなかった。なまじっか遺物そのものだからエンジンがクソほど静かなのだ。
「平気? 酔わない?」クローディアは訊いた。
「平気、平気、イェーイ……」エマは横になったままげっそりした顔の横にピースサインを持ってきて答えた。
「ほんとかよなぁ」
クローディアは毛布の中に手を突っ込んで彼女の腰に手を当てた。鎮痛の奇跡だ。
「あー、効くぅ」
「何か感じる?」
「なんかお腹の中が柔らかくなってく感じ」
「ふうん」自分でもやったことがあるけど、そんなに劇的な実感はなかった。彼女の症状が重いのだろう。
結構下の方に手を当てていたけど、彼女が身をよじる度に胸に手が当たってなんだか複雑な気分になった。やはり少し硬い感触だった。
「ところで、例の亡命先の教育とかいう仕事、あれは放っぽり出してよかったの?」クローディアはキャビンの真ん中に戻ってからジリファに訊いた。
「それなら昨日のうちに終わらせています。ご心配なく」
「そんな簡単な仕事のためにわざわざ海越えて戻ってくるとか……」
「私にとっては簡単な仕事ですが、他の天使にとっては違います。簡単な仕事ですが、重要な仕事でもあります」
なんとなくだけど、ジリファは嬉しそうに顔を近づけていた。何かいいことでもあったのかな。顔の近さに抵抗がない感じだ。
クローディアは自分の爪先に目を落とした。
つまり、こっちがメインの目的だったんじゃないかな、と感じていた。彼女にとってみれば私は慕うべきギネイスの姪っ子、忘れ形見、血と奇跡を継いだ者、そして命を奪った元凶だった。愛憎入り混じった複雑な感情を向けているに違いなかった。
複雑……。複雑で、その上、重い感情だ。
いや、論理的に「憎」は確定的だが「愛」の方はわからない。血縁が愛を所与のものにするとは限らない。憎にだって同じくらい可能性がある。
でも、本人に尋ねたって何かがはっきりすることはないだろう。本当の感情を生のまま包み隠さず表に出すタイプとは到底思えない。
「あなた方もこっちの大陸に来た目的は達したのでは?」
「私の奇跡のこと?」
「ええ」
「経過観察だとかで引き止められているの。それに、タールベルグから来たもう1人とはぐれてて」
「もう1人?」
「ラウラ・クレスティス。私よりひと回り上くらいの、陰気な魔女。知ってる?」
ジリファは首を傾げて少し考えた。まるでそうすれば目当ての記憶が重力に従って耳から出てくるみたいな格好だった。
でも答えはノーだった。
「いいえ」
「そう。魔術院には詳しくないか」
「みんな、島並みが見えてきたよ」ジャスパーが呼んだ。
キャビン側面の窓から見えるのはまだ一面の海と雲海だけだった。ジャスパーが指したものを見るには操縦席越しに前方を眺めなければならなかった。
不思議な光景だった。8基の塔が一列に並んでいるのだ。しかもどの塔にも甲板がなかった。まるで巨大な針が海面から生えているみたいだった。ジャスパーが言った島並みというのは、かつて海の上にあった地面のことであって、塔の上に築かれた人工地盤のことではなかった。塔はただ塔そのものだった。
「甲板が……ない」クローディアは呟いた。
「10キロくらい距離を置いて周りを旋回してくれ。――驚いたね。フラムの嵐が止む前に塔が機能停止して住民が全滅してしまったんだろうか」
「8基もあるのに、全部?」
「海辺の塔は海水を上げるせいで水インフラの負荷が高いんだ。加えて塔全体が塩害を受ける。海面が上がって陸地がなくなれば、波を受けて基礎も削られる」
「過酷な立地すぎない? 旧文明の人間たちはその程度の予想もしなかったの?」
「しただろうね。したからこそ、見てごらんよ、基礎部分がまだ海面より上に出ている。それでも建てないわけには行かなかったんだろうね。火山性の島なら地盤は強固だし、何より、資材を運び入れるのに都合がいい。たぶん建てやすかったんだろう。だからグリッドプランを無視してあんな並びになってる」
「昔は船が使えたから」
「そう。本物の船の積載量は飛行機の比じゃない。大型の船なら一隻でスフェンダムの100倍は運んだそうだ。それがまた何万隻と海の上を走っていたんだからね。――いい角度になった。3,4,5……1基多いな。なるほど、一番手前の塔の奥に回り込んでくれ。大回りでいいよ」ジャスパーはサラが描いた絵と景色を見比べながらマユに指示した。
「この塔、下に陸地が残ってる」
「そうだね。地図にあったとおり、この島には山がある。他の島より標高が高かったんだ」
「塔は水没しているみたい」
「山に何があるかな。――高度を下げよう。爛気に潜る。人間諸君はマスクをつけるように」
ジャスパーはクローディアとジリファの間をすり抜けてキャビンに入った。エマの様子を見るためだ。
サロンのマスクは鳥の嘴のように尖っていて、ちょうど上下の境目のところがスリット型の吸気口になっていた。現代の技術で作ったものだろうけど、軍の制式品に比べるとかなり未来的なデザインだった。
「準備はいいか」ジャスパーが戻ってきた。
「私、先に出て偵察する」クローディアはバトルドレスの前を閉めた。
「無線を」ジャスパーがトランシーバーを持たせた。
キャビンの側面後部に内開きの気密扉があって、飛行中でもそこから外に出ることができた。天井にスライド式のレールが吊ってあるところを見ると空挺降下用の扉なのだろう。水平尾翼は垂直尾翼の上だ。ぶつかる心配はない。
境界層に吸いつけられるのを避けるために助走をつけて飛び出した。
母機の風圧と乱流が収まる頃合いで丸めていた体を伸ばす。前を見ると母機は翼の上下にスポイラーなどを広げてブレーキをかけつつ緩降下を始めていた。




