古地図
「リルメインの名前は黙示録に出てきます」ジリファはジャスパーに説明した。オークションハウスのラウンジだ。他に客の姿はなかった。
「名前?」
「アナ・リルメイン。天使を生み出したグラト・アーバインと同時代の人物で、アンドロイド技師、アーバインとは対立する関係だったようです。政府の支持を巡って競い合ったという記述でしたか。結局リルメインが予算を勝ち取ったことでアーバインは細々と研究をしていかなければならなくなる、という人間の愚かさを示すエピソードとして語られています。リルメイン工廠というのはその名を冠したものではないでしょうか。場所を知りたいというなら、『グレナディーンのリルメイン』とか、『グレナディーンにおける研究』といった表現が出てきます」
「グレナディーン……。カリブ海だったか」
「私も地理までは把握してない」
「いや、あの厖大な聖書の内容が頭に入っているというだけでも驚くべきことだ。――しかし聖書に手掛かりがあったとはね。専門家に聞いてくる。少し待っていてくれ」
ジャスパーは席を立った。さすがに初対面のクルキアトルを書庫に通す気にはならなかったようだ。
「私、待ってないとだめかな」とマユ。そう、ジリファが出てきたから巻き込んでしまっただけで、彼女はリルメインの件には無関係だ。
「興味があるなら待っていれば? 下がれとは言われてないんだし」クローディアは答えた。一応、巻き込んでしまった側の義理だ。
結局、4人で5分ほど待った。ジャスパーは足早に戻ってきた。
「グレナディーンという地名はいくつかあるようだけど、カリブ海で間違いなさそうだ。聞き取りの風景の中の島の並びと地図上の配置がよく似ている。サラも目星をつけていた」
「天使の知識がなくても事足りたのね」ジリファは肩を竦めた。
「いや、そんなことはない。裏付けとしてとても大事な情報だ。無駄足になるおそれがずっと小さくなった」
ジャスパーが座ろうとしたところでアイリスがサラの手を引いてくるのが見えた。サラは体の後ろに何かとても重そうなものを引きずっていて、ただ、たっぷりしたウエディングドレスのようなフリルで隠されていてそれが何なのかはわからなかった。その姿はなんとなくナメクジを思わせた。サラは顔面蒼白で息も苦しそうで、明らかに酸欠だった。
一見、すごく太っているのかと思った。でも違った。腕や首筋はむしろ華奢な方だし、時折裾から覗く足首もやっぱり細かった。
「どうした、サラ」ジャスパーはアイリスから片手を預かった。
「すみません、お見苦しい格好で」
「構わない」
「ええと、大事なことを、伝え忘れて」
サラは息を整えた。
「参考に使ったパトリスの記憶イメージは、少なくとも1000年前のものです」
「つまり……」
「島と言いましたけど、標高の低い島も少なくありません。海面上昇で完全に水没している島もあると思います」
「今から行っても景色が変わっているかもしれないから気をつけろということだね?」
「はい」
「大丈夫だよ。そんなに急いで出かけたりしない」
「でも、すごく楽しそうだから」
「そう、楽しそう、か」
「はい」
ジャスパーは自分の口周りを確かめるように触った。なぜか嬉しそうだった。
サラはカウチに寄りかかってしばらく休憩した。その間にアイリスがポスタータイプの地図を持ってきてテーブルに広げた。古いものと新しいものが1枚ずつ。両方とも中央エトルキア大陸全体が収まっていて、四方が海に囲まれていた。南側の海がかつてカリブ海と呼ばれていたようだ。
新しい地図は旧文明のものと比べると陸地がかなり小さくなっているのが一目瞭然だった。特に南部と北東部で湾が食い込むように拡大していた。
「こっちの地図は10年ほど前にエトルキア地理院が発行したものだ。つまり今の地図だね。図法が違うから完全には重ならないんだけど、そうだな、この辺りだ。古い方にはきちんとグレナディーンと書いてある」ジャスパーは教師みたいに杖で地図を指して説明した。
新しい地図には網目状に小さな丸が打ってあった。塔の位置だろう。その丸がジャスパーの指したエリアにもあった。丸だけが海の上にポツンと打ってある。陸地より丸の面積の方が大きいのか、それともまったく陸地がないのかもしれない。
「塔がある?」
「ある。だからたとえ地上が完全に水没していたとしても位置はわかる。塔の配置は島の並びをそのまま映しているはずだからね。この程度の小島に2基も3基も塔を建てるスペースはなかっただろう」ジャスパーはサラにちょっとだけ目を向けた。サラは頭を下げた。
「海面が上がってるってことはリルメイン工廠が水没している可能性もあるんじゃない?」クローディアは訊いた。
「そう。可能性はゼロじゃない。考えたくはないけどね。彼らが職場の立地についても先見の明に満ちていたことを祈ろう。研究内容自体は極めて未来に投射的なものなんだ。期待はしてもいいだろう。たとえ工廠が水底にあるとしても、どのみち我々はそれを確かめに行かなければならない」
「グレナディーンが今どんな景色なのかはあなたも知らない。行ったことがない」
クローディアは確認した。ジャスパーは頷いた。
「盗掘家にとって、海や島嶼部の遺跡というのはターゲットにしにくい場所ということ?」
「まさしくそのとおり。中世以降、水上航行・潜水の技術は大いに失われている。失われ続けている。水中の遺物の回収には厖大なコストとリスクがかかる。たとえ陸地があってもペイロードの大きな飛行機が降りられない地形がほとんどだからね。動機づけの面で見ても、地上の面積が小さいというのが何より致命的だ。ほとんどの遺物は地上の都市にある。森や海じゃない。塔でもない。いや、塔なら遺物が残っていることもあるけど、それなら大陸にある塔の中を探した方がいい。盗掘家の探究心はたやすく大陸を飛び越えるが、海へ漕ぎ出すにはまだそれでも足りないのさ」
「アイリス、縮尺の大きい地図を」サラが体を起こした。
アイリスは冊子型の地図を新しい地図の上に開いた。
「これも古地図です。パトリスが持っている記憶イメージの中にこの方角から見た時の島の並びとほぼ一致するものがありました。この岬や浜の形もぴったりでした。ですから、視点はおそらくこの島です。高度もこの山の中腹あたりとして違和感ありません。工廠そのものがここにあるのかどうか断定はできませんけど、パトリスは確かにここにいたことがある」
「場所はわかった。支度をしよう。急ぐなとサラに言われたからね、出発は明日だ」ジャスパーは仕切った。「クローディア、カイ、君たち、1日2日なら時間はあるんだろうね?」
「ある」とクローディア。
「パトリスを僕に預けるつもりにはなるまい。ついてきてもらおう。――さて問題は」ジャスパーはジリファに目を向けた。
「来いと言うのならやぶさかではないけれど」
「ならば、来い」
ジリファは頷いた。
「マユ、元気になればエマも連れていく。伝えておいて。あと、S4の点検を。飛べるようにしておいて」
「はい」
話を把握していないマユを待たせていたのはこのためだった。マユの顔がぱっと明るくなった。




