無知
ベルノルスの別荘には無線室があって、塔から回線を引っ張った上に交換機が置いてあった。
中でディアナが何の話をしているのか、廊下で聞いていても聞き取れなかった。防音扉なのだ。ついでに電波も遮りそうな分厚い鉄の扉だった。これじゃ部屋というか金庫だ。
ディアナは白いネグリジェで出てきて寒そうに肩をさすった。カイが抱えていたガウンを広げるとその中に一旦体を預けた。
「あー、あったかい」
「何の連絡だったんです?」
カイはそれとなく訊いた。かなり機密レベルが高いのはわかっていた。まず、携帯電話が鳴った。この島を特定して送られてくる通信が入ると連動して携帯電話も鳴るようになっているらしい。鳴ったところを見たのは初めてだった。それからディアナは上着を取らずに無線室に駆け込んだ。コレクトで通信が入るというのはそれだけで危急の要件なのだろう。そしてディアナは無線室の扉を締め切っていた。他人に聞かれてはまずい内容なのだ。だからこその「それとなく」だった。
「なるはやでインレに戻らなきゃいけなくなっちゃった」とディアナ。
「インレ? 捕虜の暴動でも?」
「ここで答えるとなると、それを聞いたカイくんの言動は今後おそらく数日間制限されることになるわ」
「結局聞かせるつもりでなきゃそういう言い方はしないでしょ。クローディアに関わることなら、彼女に何かあったのに俺には何もできない、なんてことにならない限り、聞きます」
ディアナはそこで一度目を合わせてカイの意志を確かめた。
「わかった。そういうことなら話してあげる」
ディアナは無線室に取って返し、カイを中に押し込んだ。
「ブンドがインレを襲撃するかもしれない。核を使うつもりらしい」
「それは……、大変だ、とは思いますけど」
「ど?」
「なぜ止める必要が? いや、ディアナにとっては必要なのはわかる。でも俺たちにとっては?」
「ふふん」ディアナは得意げに目を細めた。「天使大隊が阻止に動いているから」
「つまり、クローディアもそこにいる」
「そう」
「クローディアたちは無事なんだろうか」
「ええ、それは確認した」
「それなら十分な動機だ」
「でも私たちは彼女たちを直接助けに行くわけじゃない。彼女たちは今地上にいる。私たちの土俵じゃない。あくまで作戦の中で間接的に連携する。そこは弁えて」
ディアナはシピを起こしに行った。扉をノックすると少し遅れて返事があった。
「少し早いんだけど朝の支度をしてほしいの。頼める?」
「はい、もちろん」
「入るわね」
廊下で1人になって間もなくメル・ベルノルスが歩いてきた。黒いセーターを着ていた。起きていたようだ。
「何かあったのか」彼は訊いた。
「俺の口からは言えません」
つまり、あなたは関係者じゃない。
「軍事機密か」
「はい」
「だが君は知っている」
「はい」
彼はそれ以上何も言わず、短く溜息をついて両手の人差し指から小指までをズボンのポケットに突っ込んだ。
居心地は悪かった。ただ他の話題に費やすべき時間でないのも確かだった。
2分ほどできちんと仕事着に着替えたシピが車椅子に乗って出てきた。
「ディアナ」
「なに?」
「民間人を巻き込むつもりか」
「時間がないの。シフナスのチェックをする。話なら歩きながら聞く」
「プライベートな訓練ならまだしも、実戦の作戦に関わるとなればワケが違う」
「現役士官による直接召集と動員よ。現地における戦力補填として慣例的に認められている。この国では必要とあれば全ての住民が軍の指揮下に入る。それに彼はすでに過去2度作戦に関わっている。実績があるのよ」
「必要というのは」
「私は至急インレに戻らなければならない。一番速いのはそこにあるシフナスを使うこと。ただ単独飛行は危険が伴う。随伴をつけるのが妥当であり、彼の技量はその任務に十分なレベルに達している。十分すぎるほどにね」
ディアナは並んで歩きながら兄の顔を見上げた。「まだ文句ある?」
「いや、もうわかった」
納得したというより、上着なしで外に出てきたせいで寒さに耐えかねたように見えた。
シピに朝食を任せている間にカイとディアナはシフナスの燃料補給と点検を済ませ、自転車で走って滑走路の路面も確認した。シャワーを浴び、荷物をまとめた。フライトスーツを着るとトイレに行けなくなるので着替えは後だ。
「1日くらいここを空けるわ。何かあればフリップを頼って」
「はい」
通信が終わってから1時間20分くらいで離陸した。ただ燃料はフェリーでギリギリ1000km飛べる程度、武装もなしの丸腰だったので最寄りの基地で改めて補給して飛び立った。半分プライベートで飛んできた飛行機に爆弾が積み込めるというのはどういう指揮系統なのだろう。ディアナの個人的な権限だろうか。余計に空軍が嫌いになりそうだったので訊くのはやめておいた。
南西に迂回するルートをとってインレまで2時間ほどのフライトだ。
エトルキア軍機にはごく低出力の紫外線レーザーを使って密集編隊の時だけ暗号化なしで内密の話ができる機能が備わっている。垂直尾翼全体がレシーバーになっているようだ。距離減衰が激しく、太陽光に紛れるので傍聴の心配がない代わり、互いの距離を100mくらいに収めないとノイズが酷くて使い物にならない。
ディアナはそのLEVコミュなる秘匿回線を介して無線室で聞いた報告を改めて順を追って話してくれた。天使大隊がベルビューを飛び立ってブンドの過激派を追っている、というところまでだ。
「核って、ラークスパーで見た井戸の爆発の、あの爆弾の」カイはこれから何が起ころうとしているのかを想像した。
〈そう〉
「すごい威力だった」
〈天使大隊が――軍が問題視しているのは威力じゃないのよね〉
「ええと、汚染、放射線?」
〈とても恐いものなのよ。ラークスパーで説明を受けたでしょ?〉
「受けましたよ。高エネルギーの電磁波で、気づかずに浴び続けると死に至るって」
〈どういう死に方をするか想像がつく?〉
「……いいえ。なぜ知ってるような口ぶりなんです? あ、いや、これは質問じゃない。そんな事情は聞くつもりは――」
ディアナは構わず答えた。
〈なんだかね、生命と物体の境目を見ているような感じがしてくるのよ。時間的に微分していって、ああここからがただの物体、生きていたもののその後なんだって、そう思うのよ。そういうのって、ラークスパーに行く前から意識していた?〉
「そういう?」
〈放射線の毒性を、よ〉
「性質としては宇宙線と同じで、高空に登って浴びる日光は有害だからって前々から意識には入れていましたよ。爆弾にするとそうやって自然に浴びるのとは桁違いの濃度なんだろうけど。いや……、具体的にって言われると困るな。タールベルグで罹った人がいるわけじゃないし」
〈いいのよ。カイくんがとりわけ無知というわけじゃない。エトルキアもルフトもラジオやテレビの放送では放射線の脅威なんて取り上げないでしょう。自分の手で扱うわけでもないのだから、無駄に意識しないで生きていればそんなものよ。何ならもっと無知な人間だっているでしょうよ。放射線という言葉を知らない人だっているかもしれない〉
「放射線と言わず、軍の汚い側面を扱った番組なんてやらないじゃないですか」
〈まあネ〉
「俺だって、ラークスパーに行かなければ何も教わらなかっただろうし、飛行機をやってなければ意識もしてなかった」
〈無知は幸福だけれど、それでも知識を得たあとで知らない方がよかったとは思わないのが人間よね〉
「国家にとって都合がいいのは無知な人間ですか。誰も放射線の毒性を知らなければ、究極、レゼの目の前に巨人の井戸を掘ってもいい」
〈うーん、そうとは言い切れないわね。ただ無知であるより、自覚的に無知であろうとする人間、あるいは国家にとって『正しい』知識を持った人間かしら〉
「それ、後者は『都合のいい人間』という以上の意味はないでしょ」
〈そう。実際には前者も幻の存在。無知な人間というのは苦心して生み出すべきものなのよ。誰もあえて核の心配してないんじゃない。結果としてはそうなっているけど、心配することを避けさせられている、と言った方が正しい。エトルキアもルフト側も、互いに独立戦争の間に核を使った。核を使っていくつもの塔を崩した。そうして幅が何百キロもある塔のない一帯を作って、それを国境線とみなし変えた。積極的に使った手前、その兵器にどういう闇の側面があるのか、本当のことは言いたくなかったのよ。発言力のある人間たちが本当のことを知ってしまうと政府の立場が悪くなるから、ただ単にできるだけ知識を与えたくないという目的において、エトルキアもルフトも互いを責めなかった。奇妙な合意だった〉
「隠そうとすることに反発する人間だっているだろうに」
〈まさに。旧文明ではそれ単体で学術分野を構成していたくらいだから、人口の多い島や学園島には詳しい人間がいて、彼らを中心に時々デモが起きている〉
「レゼでその波が起きると軍もさすがに困る」
〈そうね、間違ってない。でも軍はわざわざ弾圧なんかしていないわ。やらせておいた方が適度にガスが抜けるし、軍の中にもその派閥の人間はいるもの。統制が乱れる方がよほど厄介。だから、違う。問題はその側面じゃない〉
「放射線ネガティブな見方が広がると巨人の井戸計画がやりづらくなる」
〈やりづらくは……ならないかな。強行できるなら実行自体は難しいことじゃない。ただ、放射線に対する有象無象の不安が蔓延したら、一度核で崩した島には誰も住みたがらないでしょ。いや、誰も、とは言わないまでも、やむにやまれぬ人々が集まってきて、訳あってそんな島にしか住めないんだと差別が広がりかねない。詳しい人間って、必ずしも頭がいいわけじゃないのよ。彼らはただネガティブな側面が隠されていること、あるいはその手段として国家権力が行使されていることに気高い正義感をもって反発しているだけであって、なぜ隠さなければならないのかという事情には全く興味がなく、興味がないことには意味がないと信じているのよ。頭の良さを併せ持つ詳しい人間はあえて発言しないのだから、表舞台に出てくる詳しい人間というのはどうしても厄介なものに見えてしまうのよね〉
「表舞台にいる以上、簡単に始末するわけには行かない」
〈そう。『隠す』というセオリーに反するわ〉
「ラークスパーの実験は塔の上には放射線の影響がないってことを確かめるためのものなんですか」
〈それもあるんじゃないかな。爆煙の噴き上げをできるだけ小さくしようとしているみたい。初期の実験の記録と見比べると最近のはずいぶん小さくなってるわ〉
「ケーシングの造りを工夫してるんだ」
〈そう。だから適当に起爆したらこの前よりずっと大きな煙が上がることになるわね〉
「ああ、わかった。それならブンドを止めなきゃいけないっていうのは納得が行きますよ。結局、レゼの近くで起爆するのが目的ならブンドも巨人の井戸も同じじゃないかって思わないではなかったんだ」
〈手段もタイミングも問わないなら、インレは電力供給を天使の奇跡になんか頼らずにとっくに再建されていたはずで、段階を無視してインレを崩せば、塔の再建、新造と核は二度と結びつかないかもしれない〉
高度は11000mまで上がっていた。矢印のような細長い雲が水平線の四方を結ぶように伸びていた。穏やかで、それでいてどこか冷たい空だ。
大気の濃度中心はもはや下にある。遮られることなく降り注ぐ宇宙線は放射線そのものだ。戦闘機のキャノピーは複合素材による積層構造であり、その中には放射線の侵入を防ぐための層もある。十分とは言えないまでも視界と強度を犠牲にしてでも対策している。キャノピーが少し黒っぽく曇っているのは単に紫外線と熱を防ぐためではない。
〈ラークスパーよりインレ。所属不明機を拿捕、捜索対象と断定。臨検したが弾頭は確認できなかった。すでに持ち出されたと思われる〉
〈カイくん、聞いた? 弾頭は別便だ。インレに先回りしよう〉
「遠くから撃ち込まれたら?」
〈だとしたらもう一番いいタイミングを逃してるわ。やっぱり持ち込みたい事情があるのよ。それに、途中で落としたら弾頭が回収できない〉




