サロン
「無理して付いてくることないのよ。ジャスパーとは因縁があるんでしょ」スピカは軍帽を直しながら気遣った。
「いいの。因縁だから会わない、なんていうのが自分で気に食わないの」
「……本当に?」
「ほんとに」
「強いわね」
「内省する時間ならいくらでもあったもの。それに、捕まったのが屈辱なだけで、そのあと何か酷いことをされたってわけじゃ」
「でも競りに出されたんでしょ」
「ん、まぁ……」
クローディアはマグダのバトルドレスを着込んでいた。腰のホルスターには拳銃を差してある。光の奇跡は弾速は速いが瞬間的な破壊力の投射力に欠けるところがある。
スピカが制服で、あとの天使たちは戦闘服にライフルだ。
盗掘家が東へ逃げたのだからまず向かうとすればサロン・ベルビューだ。大隊はベルビューの飛行場に乗りつけていた。スピカは近接戦闘の練度で6人選んで地上行きのエレベーターに連れ込んでいた。
塔の最下層はあたかも古代の神殿のように装飾されていた。円形の空間を12通りの大きな聖人の彫像が取り囲み、彼らの憩う東屋を模したのだろうか、アーチがメインシャフトの先端に向かって高く伸びていた。床には温かみのある白い石が敷かれ、かつて地上に栄えた生き物たちのレリーフが嵌め込まれていた。歩くととても足音が響いた。
発電プラントが隠れるように一段高く床を設けたようだ。貨物用のリフトは見えていたけど、全体的にカウリングで覆って機械っぽさが感じられないようにしてあった。それはなんだか遊園地のアトラクションを思わせた。盗掘家には塔に対するタブーがないのだろう。
サロンと呼ばれるガラス建築と塔の間は空中回廊で結ばれていた。地面から浮いているのは砂に埋もれるのを避けるためだ。中心に貨物車が往来するための車道があり、歩道はその両側に一段高いレベルで設けられていた。舗装の黄色いレンガはなんとなく軟らかく、歩いていて足に負担がかからない。日差しは強いけど、間に厚い大気の層と色入りのガラスが挟まっているせいか高空ほどの刺々しさはない。室温が低いのもあるかもしれない。
サロンの玄関は2人の天使が守っていた。かなりボーイッシュな装いの小柄な天使で、せいぜい10代前半、2人ともよく似ていて、白いセーラーもお揃いだった。どうも見覚えがあるなと思ったけど、ルネサンス期の宗教画に出てくるキューピッドがこういう感じだ。
「空軍のメルダース大佐だ。話は聞いているか?」
スピカが訊くと天使たちはほぼ同時に頷いた。
「部下を連れて入っても?」
「どうぞ」天使たちは壁際のコンソールを同時に操作して扉を開いた。エアロックの構造だが内側の扉は開けっ放しだった。通路に何かあって外気が入り込んでもこのロックをアクティブにすればサロン内の気密は保たれる。天使なら外に放り出されても問題ない。
通り過ぎる時にちらっと見たけど、2人とも腰の後ろ、上着の下にホルスターをつけていた。背後に回って注意深く見ないとわからない位置だ。
扉が閉まってから「可愛かったね」と大隊の天使たちが話していた。容姿のことだろうか、それとも銃を隠していたことだろうか。
「うんうん、男の子みたいだったね」
たぶん前者だろう。
エアロックを抜けたところでスピカが足を止めた。生態系の豊かさに心を奪われた――わけじゃない。サロンの中が妙に騒がしかった。
重機の駆動音、それに割れた鐘を叩くような音、微かな火薬の匂い。
「ひと悶着あったみたいね」
「怪獣でも暴れたのかな」
「ここ1時間って感じだね。着いてからなら気づいただろうし、ベルビューに降りる少し前かな」
「問題は――」
「そう、ジャスパーが彼を捕まえられたのかどうかだ」
オークションハウスには大口径の砲弾が貫通した跡があった。庭園の芝や生け垣には真新しい轍が走り、しかもそれは明らかにタイヤではなく無限軌道の踏み跡だった。まるで紛争地域だ。
掘り返された土に小鳥が集まって這い出してくる虫を啄んでいた。虫ってのは地面の土にもきちんと息づくものなんだな。タールベルグでも風の強い日のあとには吹き溜まりの腐葉土を漁る鳥たちを見かけたけど、地上で見るのは初めてだった。
クローディアはサロンに入ったことはなかった。ジャスパーに捕らえられたのはヨーロッパだ。向こうにはこんな立派な地上施設はなかった。
オークションハウスに入ったところでアンドロイドのアイリスが出迎えた。アイリスは両腕の肘から先がなかった。エレベーターも使わなかったし、ジャスパーの部屋のドアも開いていたので、それで問題ないといえば問題なかったのだけど、さすがに気になった。
「腕はどこへやったの?」クローディアは道すがら訊いた。
「ここにあります」
アイリスは腕の断面を見せてくれた。輪切りになった外殻の内側に指のサーボを突っ込んで、コード類が垂れ下がるのを押さえていた。
そういえば体のバランスが崩れているのか、やや突っかかるような歩き方だった。まだ腕がない体の重心移動に十分なフィードバックが収集できていないのだ。
「カウルの個体差によって力の入り方とか指の動き方も微妙に変わるでしょ?」とクローディア。
「そうですね」
「あ、やっぱりアンドロイドにも身体感覚があるんだ」
「それはそうと」
「何?」
「お久しぶりですね、クローディア」アイリスは耳打ちした。
「……タイミング?」
「あなたが挨拶で始めないから」
「それに、久しぶりったってせいぜい半年で」
「ヒトの尺度なら十分な期間です。一生の120分の1ですよ」
「微妙な数字だな」
ジャスパーの部屋は外向きの壁がなかった。
「まあ座って」
大隊の天使たちはサロンの入り口から各所に2人ずつ配置したので、部屋に入ったのはスピカとクローディアの2人だけだ。ソファに並んで座った。座面の隅から空気が抜けて中綿の羽毛が吹き出した。それについて誰も反応しないのがまたシュールだった。
「エマ、マユ、紅茶を用意できるかい?」ジャスパーは振り返って呼びかけた。
「はい、できますっ」探検家の格好をした女の子2人が元気よく答えた。
驚いたことに、1人はすごく胸が大きくて、もう1人はすごく髪が長かった。胸の子はシャツの前全体が丸々と膨らんでいて、横から見ると首元からきゅっと絞ったウエストまで見事な半円形、前から見ると肩幅より胸の幅の方が大きかった。髪の子はたっぷりとしたストレートが足首の少し上まで伸びていて、その長さにも関わらず、上から下まで少しの縮れ感もない艶やかな、もはや青みすら感じる黒髪だった。少し身動きする度に薄いマントのように揺らめいた。
見惚れていると胸の子が両手を組んで肘で胸を寄せた。そうするとシャツにくっきり下着の線が浮き上がった。作り物の挙動じゃない。どうやら本物のようだ。
それから自分だけ気を引くのも悪いと思ったのか、自分の前を横切ってキチネットに歩いていく髪の子の髪を手繰って扇のように広げてみせた。「どっちが好き?」と訊くような仕草だった。すごく嫌そうな顔をしたのはともかく、ちょっと引かれただけで首が動いたから、たぶん髪の子も地毛なのだろう。
アイリスのメイド服にしても、フェアチャイルドと嗜好の方向性が同じというか、ジャスパーの方がもう少し悪趣味な感じがした。ベイロンに行って馴染みかけていたのは先にジャスパーを見ていたのも原因だと思う。
それはそうと、まともな紅茶が出てくるのかどうかが不安だった。
「あ、ティーバッグじゃないの?」
「これ何杯入れればいいんだろう」
「チャプチャプしなくてもいいんだよね?」
「茶葉までコップに入っちゃった」
「茶漉しがいるんだ」
「何それどこ」
女の子たちはかなり純粋にエキサイトしていた。どう考えたって普段はアイリスがやっているのだ。2人がかりで代打だ。
ジャスパーは後ろで起きていることがよほど気になるのか紅茶が出てくるまで話を始めなかった。
女の子たちはきちんと客の方に先にカップを置いた。ソーサーもついていた。客対応だけは仕込まれていたようだ。紅茶の淹れ方がそこに含まれていなかっただけだ。
そしてカップの中の液体は深淵のように黒く、口に含むと舌の側面が剥がれそうなくらい苦かった。高ジャスパーはとても悲しそうな顔をしかけてから黙ってミルクを注いだ。ミルクと半々くらいなら悪くない飲み物だった。
「この様子だと逃したのかしら?」スピカがわざとらしく壁の開口に目をやった。
「逃してあげたんじゃなく、逃げられたんだよ」
「そうでなければおかしいでしょうね」
「追いかけるなら気をつけた方がいい。彼はカーライルを持って行った」
「カーライル?」
「外の轍を見なかったかい? まったく、愛すべき草花を……」
「あ、戦車だ」とクローディア。
「そう。旧文明のMBT。知られてる中では総合的に言って一番強い戦車に違いない」
「そうか、あの駅には戦車が置いてあったんだ……」とスピカ。
「でも戦車は戦車でしょう?上から飛行機に狙われたら一方的にやられるしかない」
「旧文明のFCS(火器管制装置)の試験映像を見たことがあるけど、10キロ先の機動目標に5割くらいの命中率を出していたね。同じ砲を使ってたんじゃないかな。10キロまで近づかずに上から攻撃する手段はそんなにない」
「10キロか。思っていたよりすごいな」
「とはいえ、彼も喧嘩を売りにここへ来たわけではないはずだ。盗掘家1人に出し抜かれたわね」
「いや、1人じゃない。天使がいた」
スピカは女の子たちに目を向けた。女の子たちは揃って頷いた。
「アークエンジェルじゃないと思う」
「あの状況で使えるなら奇跡を使ってたでしょ」
「若かったね。ハイティーン、銀髪」
「名前は?」
「今思い出す。……チェックインとは違ったな。確か、そう、イーグレットと呼ばれていた」
それを聞いてスピカは一度顎を上げてから大きく頷いた。
「ああ、イーグレット」
「なんだ、知り合いかい?」とジャスパー。
「ブンドの活動に参加してくれって何度も頼まれててね、その度断ってるのよ」
「ああ、ブンドか」
「知らなかった?」
「ブンドの人間ならここでも度々目にしているんだけど、見ない顔だったから。――なんだ、大佐殿だって天使なんだから、参加してあげたっていいのに」
「考え方が違うのよ。ブンドはかつての天使文化を守ろうとしている。私のような同化志向は本来彼らにとって卑下すべきものなのよ」
「あなたの地位しか見ていないわけだ」
「フォート・インレにサンバレノの捕虜収容所があるのは知ってる?」
「聞いたことは。ブンドは解放を求めているわけだね。でも軍は取り合わない。戦車砲なら地上から塔の外壁を破れると考えて彼に協力を仰いだのかな」
クローディアは核弾頭が話題に上がっていないことに気づいた。スピカはあえて伏せているのだ。あの盗掘家がジャスパーに核弾頭のことを話したかどうかはわからない。知らない前提で話した方が機密を守るにはいい。ジャスパーも知ってか知らずか、その点については疑問を挟まなかった。
「私がついてくるって知ってたの?」クローディアはスピカが腰を上げる前に訊いた。
「君のことは彼が話してくれたよ。僕に会いに来るとまでは思わなかったけど。どうだろう、少し彼女と話をさせてもらえないかな」
「……どうぞ、5分だけ」スピカはソファに深く座り直した。
でもジャスパーはスピカが席を外してくれることを期待したんじゃないかな。
「悪いようにはしないよ。大佐殿も早く上に連絡を取りたいはずだ」とジャスパー。
「違う。あなたの心配をしてるの」
クローディアは少し緊張している自覚はあった。スピカにはそれが殺気立っているように思えたみたいだ。
「まあいい、そういうことなら、聞かれて困る話でもない。というのも、意外なんだ。君を捕まえたのは軍の依頼だった。せっかくベイロンに行けたんだからわざわざ戻ってくることもないと思っていたんだが」
「私は軍人になったわけじゃない。勘違いしないで」
「うん、軍人ならそんな格好はしない。いいドレスだ。よく似合っている。誰の仕立てだろう?」
「今はたまたまここにいるだけ。用が済んだら中央を離れるし、軍とも距離を置く。自由にやってるわ」
「そいつはよかった。自由はいい。本当にそう思えるなら、ね。でも僕には君が『属している』ように見える。いま君は軍に属している。軍人かどうかじゃなく、軍の威光のもとにあるかどうか、だね。軍人じゃないから違う、というのは少し言い訳っぽい。
何も、属することが悪いことだとは思わない。生き物としてより合理的な生き方だろう。人は大きなものに属したがる。その方が生きやすい。安心はより大きく、ストレスはより小さい。精神的に健康でいられる。ただね、属することに無自覚でいるのは、なんというか、そうだな、美しくない。実際君は軍の中枢と関係を深めている。否定できないはずだ。もちろん僕も他人事じゃない。僕もまた軍に属している。軍人ではないし、なんなら対立する立場かもしれないが……、そこが難しくてね、どうも考えてしまうんだ。盗掘家にとって大きなものになるべくしてサロンはある。でも軍には逆らえない。その塩梅というかね、板挟みはなかなか難しいものさ」
「自覚的でありさえすればいいのか。それとも……、本当の意味で私が軍に属していないと言いたいなら、何をすればいいと思うの? ああ、別にあなたを感心させてやろうなんて思っちゃいないけど」
クローディアが訊くと、ジャスパーは目を伏せ、ゆっくりとこめかみに指を当てて考えた。
「それは案外とても弱いものかもしれないね。我々の尺度では弱く見える、という意味でね」




