自壊
イーグレットは核弾頭が本物かどうか調べたいようだったが、エドワードは断じて近づけなかった。積み込みの作業も手伝わせなかった。もはやチェッカーもないが、長い間高濃度汚染空間に置かれていた弾頭の外殻はそれ自体が放射性を帯びているはずだった。生き延びる者の余生など知りようがないといえばそれまでなのだが、なんとなく彼女には穢れのようなものを残したくなかった。
イーグレットは訝しんだだろう。でもそれを口に出すのは「救済」の名目に反していた。核弾頭があろうとなかろうとエドワードが満足して死ねればそれでいいはずだった。だから彼女は実際食い下がらなかったし、猫のように大人しく待っていた。
かくしてガーデン・シティの駅で核弾頭を回収したあと、イーグレットが指定した会合ポイントに向かった。
道のりのほぼ中間から砂が空を覆ったのは幸いだった。もし晴れていればベルビューの塔がよく見えただろう。地上から塔がよく見えるということは塔からも地上がよく見えるということだ。砂塵を巻き上げながら走っているのだから距離があっても目印みたいによく見えたはずだ。狙撃でもされたら避けようがなかった。ひとまず緊張の解けるフェーズに入ったと思っていい。
エドワードはアイリスに掴まれてから上腕の鈍い痛みが引かないのがさすがに気になり始めていた。血管が切れて内出血でもしているのだろうか。
コートを脱いで腕を見ると案の定肌が紫色に変色していた。両腕ほぼ左右対称、まるで腕章だった。
押すと痛むのか確かめようと手を当てた。妙にベタついているなとは思った。だから擦るのはやめておいたのだが、ただ手を離しただけで皮膚が剥がれるとは思わなかった。
見ればアザがあった部分だけ皮膚が一段低くなってピンク色の真皮が露わになり、剥がれた皮膚はそのまま手の方にくっついていた。
一瞬何が起きたのか理解できなかった。身構える間もなく数秒後には焼けるような激痛が襲いかかってきた。エドワードはうずくまって痛みに耐えた。傷口を押さえることはできない。力むだけで傷がつっぱる。わけもなく息が上がり、重たい冷や汗が全身に噴き出してきた。
最初に「うっ」と漏らした呻きを聞きつけてイーグレットが砲塔に上ってきた。カーライルはオートクルーズに入っている。放っておいても進路が逸れたり大岩に乗り上げたりすることはない。
イーグレットは「あっ」とも「ひっ」ともつかない悲鳴を上げて口を押さえた。本気で面食らったようだった。すぐに手に貼りついた皮膚の状態を確かめようとしたが、エドワードは「触るんじゃない」と止めた。
それで冷静になったらしく、「下へ」と指示したあと、兵員室の棚から救急箱を下ろしてヘロイン注射を取り出し、躊躇なくエドワードの肩に打った。
手首に水を垂らしながら皮膚を慎重に剥がし、腕の触覚が鈍ってきたのを確かめてから傷口に貼り直した。
傷口にものを押し当てられるのはまだ確かに痛かったが、そこにはもう鋭さはなかった。体温に馴染んでくると異物感すら消えそうだった。痛みが冷されて倦怠感に変わり、頭を起こしているのがしんどくなってきた。麻酔の効果だ。
「巻いたら二度と剥がせなくなるかもしれない」イーグレットが包帯のロールを解きながら訊いた。
「構わない。剥がれるよりマシだ」
エドワードは腕の力を抜いて額と首筋の汗を拭った。剥がれたのは左腕だが、右腕もいつ同じことになるかわからない。
「右も頼む」
イーグレットも呼吸を整えながら手当を進めた。右手に取り掛かる頃にはかなり落ち着きを取り戻していた。
「放射線がホメオスタシスを破壊するというのは、知ってはいましたけど、こういうことなのですね……」
「だろうな。新しい皮膚を作る細胞が壊されて、古い方は変わらず古くなっていくから、その間のつなぎが弱くなってごっそり剥がれたんだ。じきに全身こうなる。全身、だ。末端の方から少しずつ朽ちて、剥がれ、しまいには命の核だけがほんの短い間残るだろう」
「今朝、体調が悪かったのもやはり被曝のせいでしたか」
「ああ、地の底はまだひどく汚染されている。長く留まりすぎた」
イーグレットは包帯の端を金具で止め、上から手で撫でた。少し目が潤んでいた。
「傷ついていくものは美しいですね」
「……しかし、本当にいいんだな。インレで核爆発を起こすことの意味を本当に理解しているのか?」
「甲板高度まで吹き上がる放射性物質の量は健康に害を及ぼすレベルではありません。何度も試算しました」
「知識と実際は違う。いい実例だ」
「それでも、です」イーグレットの目は確かに潤んでいた。ただ揺らぐことはなかった。
「わかってるよ、そう簡単にくたばったりしない」
地図にプロットしたワジ(枯れ川)までは1時間半ほど。川床で待っていたのは初めて見るタイプの輸送機だった。エトルキアかルフトの新型だろうか。長さ100m以上ありそうな胴体は箱型で顎がやや上がった感じ、尾翼はT字。特徴はまず主翼前縁より前方に独立して担ぎ上げられた左右2基ずつのエンジン。滑走時に胴体が巻き上げる砂を吸わないための配置だろう。
次に胴体下面を覆う浮き輪のような物体、これは平坦な不整地で滑走するためのエアクッションだ。これが着陸脚の代わりになるのでタイヤは1つもついていない。
そして最後、何より不格好なのは主翼の長さがかくあるべしというイメージの1/3ほどしかないことだった。根本の前後長はきちんと長いのに、まだ先端に向かって細くなっていく手前くらいのところで切り落とされていた。厚さはともかく幅自体は尾翼と大差ない。翼端(と言っていいのか?)は地面に向かってほぼ垂直に伸び、その先はサスペンションのついた頑丈な橇になっていた。
塗装は全体に白っぽいカーキだが、エンジンポッド後部とその後方に位置する主翼前縁・上面は耐熱用のスチール外板が剥き出しだった。
「イドラです」とイーグレット。「私たちはそう呼んでいます」
「あの翼で飛べるのか?」
「いいえ、WIGです」
「ウィグ?」
「表面効果翼機。地表付近の分厚い空気の層に乗って高い揚力効果を得ようとする乗り物の総称です。『機』というので飛行機に思えますが構造的には足の速い船です。よほど気圧が高くなければ対地高度100メートルは超えられません。その代わり規模のわりに重い積み荷を運べるのが特徴です。例えば翼の長さはスフェンダムの1/4以下ですが、積載量は1/2を超えます」
ワジの自然堤防を慎重に下って川床に降りる。カーライルの収容のためか10人程度尾翼の下で待ち構えていたが、案外マスク姿が多い。つまり人間だ。
後部ランプが開き、1人が牽引用のワイヤーを引っ張ってきた。カーライルの自力で登れない傾斜ではないが、履帯が空転するとランプの床が傷つく。ただのスロープではないのだ。コンテナ用のレールなどが敷いてある。クラッチをニュートラルにしてウィンチに任せた。
胴が長いなとは思ったが、カーゴベイの中はカーライルがゆったり4両縦列に並べるほど奥行きのある空間だった。トラックなら2列にして10両は入るだろう。ただ、長期行動用の装備だろうか、前方は各種タンクや工作機械で埋められていた。カーライルは後端寄りに係止された。
エドワードは体を引っ張り上げるのが億劫だったので兵員室の後部ハッチをくぐって外に出た。左腕に麻酔がかかっていて力が入らないのはもちろんだが、妙に全身がぐったりしていた。麻酔というより麻薬だ。単純な眠気とは違う。
「これも遺物か。まともな現代人がこんな物好きな乗り物を作るとは思えない」エドワードは小さな窓に顔を寄せた。ガラスが傷だらけになっていて眺めはよくない。
ランプドアが閉まり、何ヶ所か頑丈なロックのかかる音が響いた。
自力で甲板に上がれないのだから地上だけで運用するしかない。盗掘家の領分だが、これだけ大きなものを動かす必要があるほど群れる盗掘家もない。ジャスパーでも手に余るだろう。
「船に乗ったことは?」イーグレットは訊いた。
「大型機のことか」
「本物の、水に浮く方の船です」
「いいや」
「水上移動がこの乗り物の本来の使い方です。飛行機では降りられない小さな島の中に残されていたそうです」
やはり遺物なのだ。
「そうか、天使なら可能か」
「本国とのトンネルを探してきた副産物です」
にわかにエンジン音が大きくなり、窓の外が砂に包まれた。エアクッションを膨らませているのだ。次第に横向きの加速度がかかり、やがて足元にあった震動が消えた。離昇したようだ。いささか壮大な離陸シーケンスに比べればその後の飛行は静かなものだった。
高度100mの制限ということは山や崖などの尖った地形は避けていくことになる。砂で姿を隠す必要もある。潜水艦のように、いわば抜け道を辿ってインレに向かうのだろう。
「スピードはどれくらい出る?」
「300キロ毎時は固いはずです」イーグレットは答えて荷室の中に目を向けた。
振り返ると人間たちもマスクを外していた。いつの間にか中の空気が入れ替わっていたようだ。エドワードもマスクを外した。
誰かが拍手を始めた。みんなが手を止めて10秒くらい拍手した。歓迎だろうか。賞賛だろうか。いずれにしても少し恐ろしい感じがした。宗教的だった。
人間のメカニックたちは仰々しい防護服をつけて核弾頭を下ろしにかかった。何のための工程なのか、1人がホワイトボードに絵を描いて説明してくれた。
核弾頭といっても信管が別になっているのでそのままではどうやっても起爆しない。なので爆圧を前方に集中させるためのケーシングに収め、落下点に対して最も破壊力が得られる距離で起爆するように先端に信管のついた長いプローブを取り付ける。弾頭1個単独の起爆になるので複雑な同期の必要はない。むろん、信管を真下にしてまっすぐ落下するようにバラストと安定翼を取り付ける。最終的には地殻貫通用の通常爆弾とほとんど変わらない見かけになる。投下機は2人で担げる大きさのものを用意してあるが、場合によってはカーライルの砲身に取り付けることもできるようにしておく。
話している後ろでは早くも弾頭の採寸が始まっていた。半分に割ったカプセルのようなものをかぶせる動きもあった。ある程度出来上がっているものを現物合わせで仕上げていくのだろう。荷室の工作機械はそのためのものだ。
イドラには医者もいた。天使だ。エドワードの腕は汗とは異なる体液が少しずつ滲み出してべたべたしてきていたが、医者が缶を振って何かパウダーをスプレーするととてもひんやりして肌がさらさらになった。その上から粘着力のないナイロンの包帯を巻いて腕を覆った。慣れた手付きだった。
「治るのか?」エドワードは訊いた。
「え?」医者は答えた。意外というより凄むような調子だった。見かけも言動もカミソリみたいなオバサンだった。
「いや、いい。訊いてみただけだ」
「ちょっと焼けているだけで綺麗に見えるかもしれないけどね、これでもう腐っているんだ。壊疽と見かけが違うのはただ時間をかけていないからさ。腐った肉でも、まだ行けそうなやつと完全にだめなやつと、明らかに違うだろう? それだよ。根本的な治療法はない。臓器という臓器、細胞という細胞が機能しなくなっていくのを見届けるしかない。最後は全部どろどろに溶けてタンパク質の塊になるんだ。ゆっくりと時間をかけてね」
「あっ、同じこと言われてる」とイーグレット。
「誰に?」
「彼、自分で言ってましたよ」
「なんだ。だったらこれもわかってると思うけどね、その呪いを止める方法は一つしかないよ」
「あるのか」エドワードは思わず反応した。
「あるとも言えるし、ないとも言える。――つまり、死ぬことだ。今、お前の体の中では正常な細胞を作る機能が失われて、肉体を解体する働きの方が優勢になっている。しかしそれもまた生命活動だ。エネルギー供給がなくなれば解体も止まる。それでフラムまみれの外に置いておけば体だけはきれいに残るよ。私はその方が手間が省けていいんだけどね」
「それじゃここに乗ってきた意味がないわ」とイーグレット。
「俺は別に生きたいわけでも体を残したいわけでもない」
「そうさ、だからこうして肌を巻いてやってるんだ」
医者は首にも包帯を巻いた。言葉とは裏腹にいたわりを感じる繊細な手付きだった。
イドラの荷室の上は天井の低いキャビンになっていて、不燃性のゴワゴワしたカーペットの上に横になって眠ることができた。しかもエンジンの騒音を傍らに感じることができる素敵な立地だった。分厚い翼の内側が燃料タンクになっているらしいけど、逆の方が快適だったんじゃないだろうか。
おかげで幻覚のようなひどい夢を見た。
かつて地上の森林が全て消失してからフラムが高度1000m以下の低空に落ち着くまでの数百年間、地球の大気は激しい対流のために荒れ狂い、その風の威力は生身で浴びれば吹き飛ばされる前に一瞬で全身が削られて塵に変わってしまうほどだったという。フラムの化学的な毒性よりもただ暴風のために人間は塔の外に出ることを許されなかった。いわゆる中世だ。
夢の中の世界はそんな時代に似ていた。視界は赤茶けた闇に覆われ、風の唸りと砂の擦れ合うが絶え間なく続いていた。
ただ風はもっと凶暴だった。砂をヤスリ代わりにして地表を削り取り、やがて露出した岩盤を次々に掘り起こし、浮かばせ、まるで氷を溶かすかのように削って砂に返していった。岩盤が崩れる度に耳の奥に耐え難い轟音が襲いかかった。
次第に砂は濃く、地盤は低くなり、星そのものが小さくなって最後には核すらも砂の中に消え、拠り所となる重力を失った風と砂は勢いのままに虚ろな宇宙に霧散していった。あとに残ったのは無あるいは空白だった。
それはこれから起こる核爆発のイメージのようであり、命が終わったあとに魂が行き着く場所のメタファーのようでもあった。




