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死神

 ホールを出てラウンジのカウンターに向かっていくと、声をかけるまでもなくコンシェルが鍵を差し出した。エドワードの顔を記憶していたようだ。

「201号室。2階の西側、角部屋です」

「食事は」

「レストランでご用意します」

 レストランはラウンジの右手にある。コンシェルはその方向と鍵に順番に視線を送った。キーホルダーがゲストカード代わりらしい。

 やけに感じのいい応対のせいで勘違いしそうになったが、ポーターはつかなかった。ホテルではないのだ。エドワードは背嚢を担いで階段を登った。


 201号室は広い部屋だった。壁も天井もアイボリー色の石で覆われていた。その質感はなんとなくチョコレートコーティングを思わせた。触ると冷たくて、当然全く溶けなかった。チョコレートではなかった。

 エドワードはとりあえずベッドに倒れ込み、2,3度深く息をしてから思い出してマイクやカメラがないか探した。あからさまなものはない。無線で傍受できるものもない。

 言われたとおりベランダのガラス戸を開けておくと、5分ほどしてイーグレットが入ってきた。

 槍のように飛び込んできてバッと翼を広げ、風圧を押して減速しながら向かいの壁に足をついてようやく勢いを殺した。羽ばたきに煽られてカーテンやテーブルクロスやとにかく布製のものがことごとく舞い上がった。

「もう少し静かに入ってこれないのか」エドワードはテーブルの上に置いてあったグラスを押さえながら言った。

「もたもたしていると人目につきます」

「そんなに人目があるとは思えん」

「ないから目立つのです」イーグレットは壁を蹴って床に降り、脱いでいたヒールを履き直した。


 場所を移そうと言ったのはイーグレットだ。ホールで長く話しすぎた。

 イーグレットは本題に入る前に盗聴器のクリアリングをした。特にコンセントに耳を近づけて何かを聞いていた。音で何かわかるのだろうか。

「あまり気にするな」

 エドワードはテーブルにアンチ・スキマーを置いて電源を入れた。聞かせた音の逆位相を出力して話し声などを無音化する遺物だ。その場にいる人間の耳には正位相の音だけが入るようになっている。そのあたりは現代技術では再現できない高度なアルゴリズムだ。頭を動かすと一瞬だけ音が遠くなるので生音でないのがわかる。接地面の振動を防ぐための足とスピーカー代わりの羽がついていて、手乗りサイズなのを除けば見かけはスズムシによく似ていた。

「かわいいですね」

「それで」

 エドワードが促すとイーグレットはアームチェアに座り、翼を膝の前に出して前屈みになった。ディープブルーのドレスの胸元が弛んだ。谷間こそなかったが、丸みを帯びた膨らみの柔らかさはむしろそのせいでリアルに感じられた。ものではない。人工の造形ではない。下着は見えなかった。

「カーライルの査定を待ちます。早ければ今晩……でもおそらく明日でしょう」イーグレットはどうやら男の視線が自分の目に戻ってくるのを待っていた。

「泊めてくれるわけだからな」

「ええ。そしてジャスパーはミサイルを売らない」

「必要ないんだろ」

「はい。私たちとしてもそれで構わない。ミサイルも運搬車も特に必要ありません。あなたはカーライルを引き取ってサロンを出る」

「足はどうする。線路自体は東海岸まで伸びてるが、それでも自走するとなれば……、そうだな、5回以上は給油が必要だ」

「それに時間もかかりすぎます。コースも固定ですから、他に誰かが線路のことを知っていたら簡単に先回りされてしまう。飛行機を使いましょう」

「ブンドの?」

「はい。完全なる身内です」

「地上につけるのか」

「ここから50キロほど東へ行ったところにワジ(涸れ川)があります。河床は平坦ですし、窪地になっているのでレーダー波も遮ってくれる」

「そんな格好の場所じゃ目をつけられる」

「つけられても、砂の中なら見つけることはできない」

「追われるとなれば相手もプロの盗掘家だが」

「盗掘家の目から天使を守るのもブンドの役目の1つですよ。それに、あなたも同じプロです。目の避け方は知っている」

「……まあいい。自信があるのはわかった」

「十分に韜晦(とうかい)すればあとは貨物路線でインレに向かえるはずです。目的が悟られない限り足止めされることはないでしょう」

「弾頭は剥き身で持っていくのか」

「いえ、カーライルを鉄棺として使います。もちろん十分に偽装を施して」

「インレでは他の天使の手引が受けられると思っていいんだな」

「はい。弾頭の信管もこちらで用意します。仮にインレに直接降りられなくても地上から接近してカーライルの主砲で最下層のエアロックを破壊すれば侵入できるでしょう」

「軍はどの程度動いてくると思う?」

「天使大隊の権限を考えれば、管区を出るまで他部隊の協力は仰がないでしょう。首都に近づいたことが知られるまでは大隊の戦力だけを頭に入れておけばいいと思います」

「インレの根拠地部隊は」

「戦力になるのは50人程度でしょう」

「非特殊部隊、非魔術師の第二線級の戦力と思っていいか」

「憲兵の管轄なので戦闘魔術は普通に使います」

「そういうのは第一線だ。見つかったら上手く行くかわからないぞ」

「捕虜の暴動を起こして足止めさせます」

「足止めをやれと言って素直に団体行動ができる連中ならいいが」

「捕虜ですから団体行動はいいとして、ブンドに従うかどうか――」

「天使の間にも相容れない派閥があるってのはよく知ってるよ」

「そういうことなら単独で忍び込むのはやめましょう。きちんと人手を用意します。あなたにとっての不安要素はできる限り排除したい」


 イーグレットは腰を上げた。一通り説明は終わった。

「紅茶とコーヒー、どちらがいいですか」

「紅茶……いや、俺の部屋だ。気を遣うんじゃない」

「そういうわけにはいきません。――ところであなたは魔術を使わないのですか」

「あまりな。現役の時にもらった携杖なら持ってるが」

「意外ですね」

「何が」

「盗掘家は遺物を使うものでしょう?」

「俺も遺物は使う。このアンチ・スキマーも、あのツルハシも遺物だ」

 エドワードはアンチ・スキマーの電源を切った。もう必要な話題ではないだろう。

「ツルハシもですか」

「思い切り握ったまま振っても手が痺れない」

「微妙に軟らかいのですね」

「いや、それだと振りにくい。中で吸収してるんだ。目に見えるレベルで機械的な仕組みではないんだが……」

「魔素」

「おそらく」

 遺物でいう魔素は基本的にエネルギー変換器のことだ。意図的に衝撃エネルギーを収斂させて熱や光に変えているのだろう。

「しかし、遺物の触媒というのはあまり聞かないな」

「そういえばオークションにも出ませんね」

「別に盗掘家が自分で囲ってるわけじゃない。そもそもものが少ないんだ。今で言う触媒と呼べるレベルのものが出るとすれば、せいぜい塔の周りか、あとは塔の中だ」

 イーグレットは少し集中して茶葉に湯を注いだ。キチネットが壁付きなので彼女は背を向けていた。翼を通す必要があるとはいえ背中の開いたドレスだった。翼を支える隆々とした脇腹の下で腰は細くくびれていた。何かそうあらねばならないという執念のようなものを感じる細さだった。腰より下はきちんと隠されていたが、動きや姿勢によっては細い下着の線が浮き出ることがあった。

「だとしたら、触媒は中世以降に生み出された。まるで旧文明には触媒が存在しなかったかのようですね」イーグレットはトレイに一式乗せてテーブルに運び、今度はエドワードの隣に座った。

「現代の触媒は小さくて多機能だ。何より自らエネルギーを放出する。人間の意図する機能が触媒で完結してるんだよ。他に道具や装置を必要としない」

「ええ」

「逆に言えば、旧文明人はそういった完結性を求めていなかった」

「完結性……。1つの道具で色々できるのは時代を問わず便利だと思いますけど」

「それはそうだ。ただ旧文明人は詰め込むことはしなかった。ネットワークや他の道具や、とにかく環境が整っていたから、それらにアクセスできるなら無理に単体で完結させようとするのは非効率なだけだったのさ」

「システム全体であらゆる機能が担保できればいいと」

「人間の生活空間を包括する規模のシステム全体で、だ。旧文明で触媒の地位を占めていたのは、言ってみればリモコンだ。エアコンがいい例だ。操作するのはリモコンだが、リモコンから冷たい風が出てくるわけじゃない。それはエアコン本体の役割だ。本体が消費するエネルギーもリモコンから供給しているわけじゃない。本体が自分で取り入れているものだ」

「確かにリモコン単体では何の機能も果たしませんね。完結していない」

「遺物として発掘される時のことを考えてみるといい。エアコンのリモコンくらいならまだわかりやすくていい。文字も書いてあるしな。だが旧文明のことだ。構造的に機械なのはわかるがボタンも画面もない、というようなものが結構出てくるんだ。リモコン単体ではそれが何なのかわからない。どんな機能を持った他の装置とリンクしていたのか見当がつかないんだ」

「ああ、道理ですね。旧文明の『触媒』は出土しないのではなく認識されないのですね」

「認識されたからといって価値がつくわけでもない。わかったところで使い道がないのでは置物と同じだ」

「使えれば大変な価値になるのでしょうね」

「使えればな」

「面白いですね。フラムを期に触媒という言葉の意味するものが変化したというのは。ええ、もちろん実際には言葉が変化したのではなく、塔の中の限られた環境が触媒そのものに機能を求めるようになったというのは理解していますけど」

「他の盗掘家には聞かなかったのか」

「いいえ。盗掘家だからといって全員が旧文明の触媒に気づいているわけではないのでしょう?」

「さあ。あまり絡まないからな」

 イーグレットは紅茶の用意を済ませたところでポシェットからごく短銃身の拳銃のようなものを取り出して膝の上で握った。親指側に小さな液晶とテンキーがついていた。文字を打ち込めるようになっている?

「通信機です」

「レーザーか」

「はい。ガラス張りの上にこの辺りは天気もいい。レーザー通信にはうってつけの条件です」

「外に仲間がいるのか」

「正午前に送ります」


 エドワードはふと立ち上がってカーテンの隙間から外を覗いた。欄干の隙間から庭の芝生の上に座っている人影が見えた。

 ――人影?

 あくびでもしたのか翼が1本伸び上がるのが見えた。片翼……そうだ、競りにかけられていた片翼の天使だ。横にいるのは買った人間か。だが2人ともやけにくつろいでいる。

「あの天使……」

「天使?」イーグレットが首を伸ばした。「ああ」

「競りかけられていた」

「彼女はブンドが買いました。彼女だけではなく、開始価格ならブンドが入札します。売れ残れば売れ残るほど待遇は悪くなっていく一方ですから」

「大した心がけだがな、足元を見られるんじゃないのか。売れるのがわかっているなら開始価格でふっかけてもいいわけだろう?」

「それはオークションにとってもメリットにならないと思いますよ」

「そうか」

「買う気がない商品でも、ものの価値がわかるオークションなのかどうか、売る気があるのかどうか、価格設定で推し量るものです。1つ割高だと、他の価格が適正でも高く思える」

「道理だ。一理ある」

「彼女もきっと私たちの力になってくれるでしょう」

 片翼の天使は芝生に寝転がっていた。どんな人間に買われるのか、買われずに処分されてしまうのか、不安だっただろう。安堵でいっぱいの姿だった。エドワードはそれを覗き見てなぜだか自分が救われたような気持ちになった。


 イーグレットはポットの蓋を外して中を覗き込んだ。空だ。トレイを持って洗いに行く。

「さて、次は何をしましょう」

「好きにすればいい」

「好きに、なんでも?」

「明日の話をしに来たんだ。用は済んだだろう?」

 イーグレットはポットを洗い終えてその場でエドワードに向き直り、両手を軽く広げてみせた。

「奉仕すると言いました」

「指図するのは嫌いだ」

「では……」彼女はほんの少し首を傾げた。「洗濯しましょう。いい匂いのする服を着ると気持ちがいいですよ」

 エドワードは自分の襟に鼻を近づけた。

「シャワーを浴びてくる」

「バスローブを用意しておきます」


 シャワーを浴びると頬や腕の肌が痛んだ。井戸の底で高温に晒され続けたせいだろうか。空気の熱そのものではなく、熱伝導率の高い汗などの水分を介して熱を浴びたのだというのはわかる。だが同じような環境になるサウナではこんなに万遍なく火傷を負うことはない。単に時間が長かったからか、それともすぐに体を冷やさなかったからだろうか。

「入っても?」扉の向こうから声が聞こえた。イーグレットだ。

「ああ」

 エドワードはシャワーを緩めた。振り返りはしなかったが、曇った鏡に映った影で浴衣を着ているのはわかった。

「背中を流します」

「頼むから首と腕には触らないでくれ。ひどく焼けてる」

「はい」

 イーグレットは背中に寄りかかった。

 案外面積の広い柔らかい胸の感触と硬い肋の感触を同時に感じた。

「すみません。あまり柔らかくなくて」

 そう思うなら、なぜこんなことをするのだろうか。意外だった。自信があってやってるんじゃないのか。

「何が面白い?」エドワードは訊いた。

「こんな臭くて汚い中年男に好んで寄りつく理由がないだろう、と?」

「……わかっててもストレートに言われるのはしんどい」

「でも格好はいいのですよ」

「?」

「私はどうやら傷ついたものや歪んだものに惹かれてしまうようです。その姿に至った経緯と数奇を愛するのです。でも決して不幸になってほしいわけではない」

「死ぬのが嫌になったらどうする」

「それならそれで構いません。死はあなたにとって救済ではなくなったのです。戦車を売ってゾーイを弔えばいい」

「生が救済ならば俺はすでに救われている。そういうことだな」

「ええ。あなたは死んでいない。生きている」

 つまり彼女の「奉仕」は死を覚悟した者にだけ与えられるものなのだ。

「歪んだ奉仕欲だ」

「天使の本能に刻まれた使命ではないですか」

 イーグレットはボディソープをとって手のひらで背中に広げた。

 泡が流れないようにシャワーを止める。浴室から音がなくなった。

 肌がヒリヒリするのは本当に火傷なのだろうか。放射線の影響ではないのか。

 エドワードは自分の最後を想像した。弾頭は即発信管だ。井戸の底に落着してからでは姿勢が安定しない。それは基底層から落とそうが上層から落とそうが十分な退避時間が得られないということを意味している。直接投下する限り必ず巻き込まれる。体が蒸発していく。骨も残らない。消滅。それはすなわち意識の終点なのだろうか。それともゾーイや妻の霊と会えるのだろうか。

 エドワードはふと自分の肩に手をかけた。ちょうどイーグレットの指先とぶつかった。互いにそのまま手を引かなかった。

「ゾーイが死んで俺が一番ショックだったのは、ゾーイの死に対して俺自身が思ったほどショックを受けなかったことなんだよ。もし何かあって俺だけが生き残ったら、きっとひどく取り乱すだろうと思っていた。……だが実際には俺は冷静だった。頭で考えて悲しがろうとしていただけだ。そうでなかったらこんなに上手く逃げられるわけがない。いったい、何なんだろうな、この無感動は」

「ようやく話してくれましたね」イーグレットはまた顔を近づけた。左耳が好きなのだろうか。

「きっと今まで吐露する相手がいなかったのです。感情は言葉です。語って初めて感じることもあるでしょう」


 脱衣所には白いバスローブが置いてあった。脱いだ服はなくなっていた。

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