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モグラ穴

 首の後ろに血が流れてきた時、あまりに暑くて汗が頭皮を伝っているのだと思った。実際、額や腕の表面はじっとりしていた。ただ首の方は汗にしては感触が重すぎた。

 ソファに背中を預けたまま寝落ちしていたみたいだ。少年が纏っている眠気に誘われたのかもしれない。


 そうだ、少年。

 振り返ると、彼は目を閉じ、半開きになった唇の端から血を流していた。クローディアは飛び起きて呼吸を確かめた。息をしていない。脈もなかった。血が気管に入って窒息しているのだろうか?

「おい!」体を揺すりかけたが躊躇った。血が黒い。内臓が傷ついて出血しているのだとしたら衝撃を与えるべきではない。

 もう手遅れかもしれない。

 泡が消えていく。無数の泡が水面で弾け、空に還っていく。

 なぜ泡の話なんて聞いてしまったんだろう。聞かなければ消えることもなかったのに。


 突然体が浮き上がった。後ろ襟を掴まれたのだと理解した時には頭を下にして空中に投げ出されていた。このままでは肩から棚にぶつかる。翼を開いて重心をずらし、足を突き出して棚の枠に合わせる。

 置いてあるだけの薄い棚は勢いで向こう側に倒れ、クローディアはそのまま投げ出されて口の開いたコンテナの上を転がった。戦闘服を着込んでいなかったら全身切り傷まみれになっていただろう。幸い大した痛みはない。

 盗掘家は息子を抱え上げて肩に乗せ、背中を叩いて血を吐かせた。それから床に寝かせて人工呼吸で息を吹き込み、両手を組んで心臓マッサージをした。

 クローディアはその場に突っ立ってその様子を見守っていた。投げられたのはほんの5m程度だったけど、すごく遠くの景色を見ているみたいに思えた。向こうの部屋には明かりが落ちていて、こちら側は暗かった。

 親っていうのはたぶんこういうものなんだろうな。子供が死にかけていたら全力で救おうとするものなんだろうな。手段とか可能性は二の次なんだ。


 それからふと気づいた。

 たぶん、看護兵が渡したのは毒薬だったんだ。

 核実験場に近づかれるのも、核実験の影響を知られるのも、軍にとっては都合が悪い。それに盗掘家なら1人2人いなくなっても加入組織以外誰も気にしない。その組織も基本的には緩いつながりしか持たない。連帯意識は希薄だ。

 ならば適当に理由をつけて追い返すよりも始末してしまった方が手っ取り早い。1人1人の人生がどうとか、そういうことを重んじる国じゃない。だってエトルキアだ。ほとんど道楽で飛行機少年たちを追い回してカイの友達を殺した連中だ。そもそも、天使大隊の任務からして単なる地上探査ではなく、処刑任務を帯びているのかもしれない。スピカやヴィカの個人的価値観というより文化や社会システムがそれを要請し、肯定している。

 だけど、なぜ私は少年を助けようとしていたのだろう、とクローディアは思った。

 盗掘家とは因縁がある。何なら消えてくれた方が快適だと思っている。どう考えても自分の立場は天使大隊側だ。私個人の価値観はエトルキアの文化や社会システムを否定できるようなものなんだろうか?

 少年は死んだ。盗掘家が汗だくになってもう10分以上頑張っているが、戻ってくる兆しはない。いっそここで2人とも死んでしまった方が幸福なんじゃないか。

 盗掘家が大きく声を上げた。言葉ではなかった。口と喉を開放して、ただ出せる限りの声量で、最も出しやすい音を発した。そう、声というよりも音だった。耳がびりびりして鳩尾から空気の震動が入ってきた。正直ビビった。

 盗掘家の手は止まっていた。息子の死を認めたのだ。諦めたからこそ取り返しのつかない気持ちが行き場を失って声になったのだろう。

 蘇生は終わる。少年の体は雑巾みたいに薄っぺらく見えた。

 もう十分だろう。

 クローディアは盗掘家の首を狙うことにした。上着は硬そうだし、頭は手の次に動く部位だ。狙いづらい。

「呆気ないもんだな。今まで、弱々しくともここまで生きてきたってのに」盗掘家は背中を向けたまま言った。「なぜ飲ませた。除けてあっただろ」

「ごめんなさい、あなたには申し訳ないことをした」クローディアは目を離さずに答えた。薬を飲ませたことに対する謝罪ではない。息子の方を先に殺してしまったことに対する謝罪だ。

 盗掘家は暗がりの下へ歩きながら自分を律した。息を吐く。「いや、一瞬でも薬のことを忘れていた俺の方が悪いんだ」

「気づいてたの?」

「いや、疑ってはいた」

 本当にそうなの?

 疑っていただけ?

 あなただって終わらせたかったんじゃないの? その子の世話も、あなたの人生も。だから薬をもっと奥に隠しておかなかった。だから外に捨ててしまおうともしなかった。

「お前を責めても仕方がない。ただ、殺しは殺しだ。ケジメはつけなきゃならない。そういうシビアさを先に示したのはそっちだ。そうだろう?」

 盗掘家は棚にかけてあったマスクをつけ、ツルハシを担ぎ上げた。

 クローディアはその様子をじっくりと見守った。ある意味、盗掘家の覚悟を待つための時間だった。不意打ちはフェアじゃない。

 盗掘家がクローディアに視線を据える。クローディアはしっかりと右手を前に出して構えた。

 クローディアの攻撃奇跡は大まかに3段階の規模に分けられる。最も小さいのはビームのようなもので、出が早く、光束は細く、照射時間によって貫通力が変わる。体内のエネルギーを使うので威力は環境に依存しない。中間は周囲の光を曲げて集束するもので、当たるとか貫くというより「蒸発させる」に近い。屈折点を増やすことで光束を形成することもできるけど、そうすると空気が抵抗になって威力が減衰する。一番威力があるのは原理的には中間と同じで、使い勝手が違うので呼び分けているに過ぎない。周囲の光をすべて集めてしまうせいで視界が失われる上にその前後で景色が歪むので照準が難しい。便宜的にそれぞれパルス、ホーン、エクリプスと呼んでいる。いずれにしてもあえて手や指を標的に向ける必要はない。ただその方が狙いをつけやすいのは確かだ。警告、あるいはブラフとしても使える。

「やれよ、奇跡が使えるんだろ?」

 クローディアは盗掘家の首に指先を合わせてパルスを撃った。

 集束した光は指向性を持つ。指向性を持った光それ自体は進路上でしか観測できない。周りから弾道が見えるのは光に接した空気がプラズマ化して発光しているからだ。空気が熱するのにかかる時間の分だけその光は遅れる。

 にも関わらず盗掘家は最小限の動きで光を弾いた。パルスはコートの襟に当たって軌道を変えた。コートの表面はまるで光を吸い込むかのように波打った。物理的な動きではなかった。光の波紋が着弾点を中心に布地の上を走った。遺物か?

 ともかく彼が見ていたのは弾道じゃない。クローディアの指の向きだ。光は光、撃ってから避けられる弾速ではない。撃つ前に避けていたなら盗掘家の動きに合わせて狙いをずらせたはず。……いや、そんな間はなかった。こちらが念じてから実際に光が放たれるまでの微妙な間に合わせたのか。

 2撃目は顎の前に構えたナイフに弾かれた。

 なるほど、マグレじゃない。

 軍にいたと言っていたけど、まさか陸戦部隊だったのか。得物も思わせぶりなツルハシではなくナイフ。閉所での格闘に慣れている。

 弾かれた光はシェルターの天井に突き刺さり、コンクリートの破片を降らせた。思ったほどの威力はない。太陽光の届かない地下では自分のラディックスが頼みだ。影響の少ないパルスでも十分違いが感じられる。

 盗掘家はナイフを構え直したが、刃の中間が溶けて抉れているのを見て躊躇なく捨てた。姿勢を低く、コンテナの蓋を盾にツルハシを抜く。先端を開いていないのでバットのような形だ。いずれにしても殴られれば痛い。

 クローディアが後ろに飛んで距離をとると、盗掘家は壁に向かって走り、何かレバーを引いて照明を落とした。

 クローディアはすかさず部屋全体に光源を生み出した。目が痛いほど明るくなる。

 が、視界は回復しなかった。煙だ。厚い雲の中にいるのとほとんど同じだった。

 逃げるつもりか? クローディアは記憶を頼りにエアロックを目指した。

 目の前で気流が動き、黒い影が現れた。体当たりで突き飛ばされる。が、空中だ。立て直せる。着地して影が抜けた方へ当てずっぽうにパルスを撃つ。相手は赤外線でも見えているのか? だいたい、パワーといい、身のこなしといい、人間というよりグリズリーと闘ってるみたいだ。本物のグリズリーを見たことなんかないけどさ。

「光か」盗掘家の声が聞こえた。思ったより部屋の奥だ。あくまで戦うつもりか。

「最初のを避けたね」

「あくまで体を通さないと撃てないんだろ。いくら上等な奇跡でも意思がそのまま空間に出てくるわけじゃあない」

 やはり思ったとおりだ。

「私が奇跡を使うって知ってた?」

「天使ってのはな、普通はもっと人間を警戒するものだ。それがないのは自信があったからだろ?」

 クローディアはエアロックの扉を探り当てた。

「もう逃げられない」

「それはどうかな」

 そのあと何か思い切り金属同士で殴り合ったような音が響いた。シェルターの中で淀んでいた空気が動き始める。

 どこかから空気が抜けている? 別の逃げ道を用意していたのか。だとしてもこの煙じゃ内側から探すのは時間がかかりすぎる。

 クローディアはエアロックを緊急開放して羽ばたきながら階段を駆け上がった。


 翼を広げていなかったら撃たれていたかもしれない。シェルターの入り口を大隊の天使たちが囲んでライフルを構えていた。各々瓦礫を遮蔽に使っていたし、正面に夕日があって前景が影に沈んでいた。危うく見落とすところだった。

「あの男は?」スピカが訊いた。1人だけ立ち上がったシルエットがオレンジの背景に浮かんでいた。

 さっき天井に当たったパルスの衝撃が上まで伝わっていたのか、すでに敵対しているのは自明の認識だった。

「ここからは出てこない。抜け道を用意してたみたい」

「エコー、クリアリングを兼ねて内部捜索」

 スピカが指示すると戦列の後ろから天使が3人飛び出した。

「……いや、待った。3時間後でいい。それまでここで待機、監視」

 エコー班は各々クローディアに一瞥して階段に飛び込んで行こうとしたが、ほとんどスライディングで足を止めた。

「なんで」

「抜け道を用意しておくような奴だよ。シェルターを誰かに渡すくらいなら崩してしまおうって考えててもおかしくない」

「了解」エコーたちは納得した。

「捜索しよう。南面はブラボーに任せていいね。チャーリーは北西の丘に登って北側と西側の監視、東側はデルタに任せる。まだ街中にはいるはずだ、廃墟より外側、高いところに陣を張って、2人で2方向、残りは交代で上空から捜索。抜け道の出口が街の外まで伸びている可能性も頭に入れておけ」

 集まっていた天使たちはエコー班を残して街の外縁に向かって飛び立っていく。

「ブラボー、そうだ、彼の車があったはずだ。今のうちに押さえておこう」

〈それなら昼前に動かしてましたよ〉

「あれ、どっちに動かしていたかわかる?」

〈東、かな〉

「デルタ、聞こえてる?」

〈コピー〉

「各班、車の位置は当てにならない。先入観なしに探せ」

 スピカはインカムで話しながら下りてきてクローディアの様子を確かめた。

「大丈夫?」

「あちこち殴られたけど、平気」なんだか脇腹とか太腿がズキズキしてきた。クローディアは一度その場にうずくまった。アドレナリンが切れてきた。徐々にひどくなってくるタイプの痛みだ。でもこの程度なら自分で治せる。跡形もなく綺麗に治せる。

「あのガタイの男だ。天使の肋骨なんて簡単に砕けるからね」とスピカ。

「ごめんなさい。流れ弾が怖くてあんまり派手なやつは撃てなかった。みんながどこにいるかわからなかったから」

「いいね、立派な気遣い天使だ。――彼は息子を連れて逃げたの?」

「ううん。子供の方は死んじゃった。毒なら毒って、言ってくれればよかったのに」

「もう一度ここへ来るなんて思わなかったのよ」

「それに、毒なんて回りくどい」

「そう? 盗掘家なんてモグラみたいなものでさ、不利を悟った途端に跡形もなく姿を消しちゃうんだから。地面の上と下に関しては天使よりも詳しいくらいよ」

「警戒されないのが一番合理的?」

「そういうこと。その点、軍人兵士は初手から大きなディスアドバンテージを抱えている」

 そうか、それでスピカは盗掘家への接触を全然止めなかったんだ。クローディアは自分が上手く使われていたことに気づいた。

 なんだか癪だけど、それより感心が上回った。

「放っておいたってあの盗掘家はフラムに侵されて死ぬわ」クローディアは言った。言い返せるのはそれくらいだった。

「その前にラークスパーのことを喋られると大問題なのよ」


 スピカは街中を見渡せる高さまでセンタービルに登って指揮を執った。それからきっかり3時間、エコー班がシェルターに入るまで状況は何も変わらなかった。シェルターが爆破されることもなかったし、盗掘家のピックアップトラックからも手がかりらしい手がかりは見つからなかった。

 刻々と日が落ちて夜が空を覆い、薄い月光にかろうじて輪郭だけ照らされた街はそれ自体が複雑な洞窟のように思えた。

〈エコーよりアルファ、時間になった。ここから先は電波切れる〉

「任せるよ」

 それからまた30分ほど沈黙が続き、そして出し抜けに明瞭な声が入った。

〈……にあった。アルファ、こちらエコー、繰り返す、地下鉄の駅だ。地下に逃げ道があった〉

 ちょうど割れた窓から真下を見ていたクローディアはセンタービルの1階からエコー班の3人が出てくるのを見つけた。

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