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サンバレノ神話

 夕食はサケのレモンバターソテーに白パンとクリームスープだった。フェアチャイルドには専属の料理人と給仕(2人とも女だ)がいて、一流レストランのような内装の食堂に丸いテーブルが置いてあった。同席はクローディアとギグリだけで、クローディアは他の2人の手元を見ながら見よう見まねでフォークとナイフを使った。テーブルマナーなんか知らなかったからだ。

 ギグリはどうもその様子を見て余計に取り澄まして姿勢よく食べていて、クローディアも少し余計にみじめな気持ちだった。

 フェアチャイルドはむしろそんな野蛮な姿を見られるのも今のうちだけだと思っているのか、興味深そうなねっとりした目で見ていた。クローディアはどちらかというとフェアチャイルドの視線の方が嫌だった。

 

 左翼のボルトを外したのは夕食のあとだった。ギグリは治癒はお手の物だが、天使には必要のないボルトの扱いには慣れていなかった。こんなもの引っこ抜けばいいんでしょ、という感じだったけれど、プレートとボルトはビスで留められているし、外す順番を考えないとあちこち引っかかってうまく抜けないのだ。

「何よこれ、全然抜けないじゃない。骨が食っちゃってるんじゃないの?」

 試行錯誤を繰り返すうちに骨をぐりぐりといじられている感触が鎮痛アナージェスの神経ブロックを突き抜けてきてだんだん痛みに変わってきた。拷問を受けている気分だった。

 ボルトを全部抜き終わって骨の穴を塞ぐために再び再生促進コーゴの術式をかける頃には顔の下に敷いていた枕に涙の丸いシミが広がっていた。

 た、助けてアルル。

 こんなことなら人間の医療の方がマシじゃないかとクローディアは思った。

 ギグリが外したボルトとプレートをとりあえずガーゼに包んでどう処分するか思案していたので、クローディアは「それは捨てないでおいて」と頼んだ。

「なんに使うの?」

「使わないけど、返したいの。不便な人間の医療なりにできる限りの手で助けてくれようとしてくれたものだから」

「返す、いつ返すの?」ギグリはちょっと険しい顔をした。「逃げるつもりなのね」

「いつかよ、いつか」


 浴場は石造りの浴槽の縁にライオンの彫刻が置いてあって、その像が口から湯を吐き戻しているというロクでもないデザインだった。

 天使の翼は髪と同じで乾かすのが大変なので体ほどしょっちゅう濡らしたりシャンプーしたりするものではないのだけど、アルルに血を落とすだけ落としてもらったあとでちょっとギシギシしていたので洗い直すことにした。

 浴槽はうつ伏せで翼を全部浸せるくらい広くて、そうしていると1分くらいで羽根の根元までお湯が浸透してきた。

 手でシャンプーを延ばして翼同士をこすり合わせ、羽根の根元は指を通して洗う。リンスを塗り込みながら毛並みを整え、シャワーで泡を落とす。これだけでもう艶が違うのだ。鏡に映すと乾いている時よりいっそう黒くなった羽根がぴかぴかしていた。満足して水気を払おうと羽ばたくと例によって左翼に痛みが走った。

「いてて」

 ボルトも包帯も外した上に鎮痛もかけているので、ちょっと気を抜くとケガのことを忘れてしまうのだ。


 部屋の明かりを消すと丸い天井に点々と星が映った。蛍光塗料らしい。まるで子供部屋だ。しかもベッドに屋根がついているのできちんとした姿勢で眠ろうとするとその星々は全然見えないのだった。不思議な部屋だ。

 ギグリは夜になっても部屋を出ていかなかった。クローディアの翼を治してしまったからさすがに逃げ出さないか心配なのだろう。

 ギグリはベッドに横になって翼で体を覆った。クローディアは乾かした翼にトリートメントを行き渡らせて毛並みを整えていた。

「ねえ、なぜ黒羽は嫌われているの?」クローディアは訊いた。

「本当に何も教えてもらえなかったのね」ギグリはそう言ってむしろ愛おしそうにクローディアの羽根を撫でた。

「サンバレノにはそんなコモンセンスがあるのよ。聖書にそう書いてあるのよ。黒い羽根は悪しき堕天使の翼。忌避すべき原罪の象徴」

「サンバレノ神話?」

「名前だけは知っている、ということかしら」

「中身は知らない」

「創世記第1章1節、

 原始に闇ありき。

 神光あれと言いたまいければ光ありき。

 光と闇分かたれたるにすなわち昼と夜なり。

 神蒼穹を作りたまいて蒼穹の上を天、蒼穹の下を雲と名付けたまえり。

 神雲の下に地を作りたまいて雲くぐるを禁忌としたまえり。

 神その像のごとくに2体の天使を創造たまいて天に住まわせたまえり。

 神白き翼の天使に昼の風を司らせたまいてアルバと名づけ、神黒き翼の天使に夜の星を司らせたまいてゼタと名づけたり。

 アルバその羽根をもって諸々の鳥をつくりぬ。鳥ゼタの星読みに導かれてあまねく天に至りぬ。

 烏ありき。白く澄みたる賢鳥なり。

 ゼタ烏を雲に導きたりて烏問いけるは雲の下に何やありける。

 ゼタ答いけるは地あらん。

 烏言いけるは地あらばいずくにか降り立ち翼休ません

 しかれども神汝雲くぐるべからず而して汝死にたらんと言いたまいてゼタこれを拒みぬ。

 烏言いけるは汝雲くぐるあたわん。

 ゼタがえんぜず。

 烏言いけるは吾雲くぐりて地見たり。

 ゼタ地を見んがためについに烏を追いて雲くぐりぬ。

 夜、星導き失いて乱れて地に落ちたるに神問いてゼタ曰く吾烏に誘われり。

 神烏に言いたまいけるはゼタを唆したるによって汝はその黒き羽を負い、その賢智を狡智と称すべし。

 神オムに言いたまいけるは禁忌を破りたるによって呪われたる汝は翼を失い地を這うべし。

 神アルバに言いけるは烏に戒律を守らせざるによって呪われたる汝は永遠の命を失うべし」

 ギグリは目を瞑って淀みなくそこまで語った。

「つまりね、神話の中の原始世界には地面のない世界に楽園があって、そこに生み出された2人の天使は永遠の命を持っていたのに、カラスに唆されて雲を抜けた黒羽の片割れのせいで地面と人間が生まれ、白い翼の天使も人間と交わらなければ命をつなぐことができなくなってしまったのよ」

「でもそれは神とかいうやつが決めたことだし、だいたいその話自体サンバレノの誰かが昔に考えた作り話に過ぎないんでしょう?」

「そうね。その考え方ってすごくルフト的。でも神話の内容には実際の歴史上の出来事が影響を与えていることが少なくないのよ。歴史というか、アルバの風というのは奇跡のこと、オムの星というのは文明・科学のこと、つまり天使と人間の起源でしょう。風がフラムを運んでこなければ奇跡は使えないし、星というのは必ずしも夜空のことではない」

「オムの堕天にも元ネタがあるの?」

「ええ。それも今はもう伝説の類らしいけれど……」ギグリは眠そうだった。

 それもそうだ。3ヶ所も治癒のフィルをやったのだ。その手の奇跡を極めた天使でもなければ疲れるだろう。

 クローディアは訊くのをやめ、上にしている左翼を慎重に動かしてその下に隠すように脚を抱き込んだ。

 するとギグリはクローディアの方ににじり寄って翼と肩の間に腕を差し込み、クローディアの体を丸ごと右翼で覆った。

「そんなに心配しなくてもいいのに」

「醜い娘」ギグリはそう言いつつクローディアの額に唇をつけた。

 柔らかい唇だった。

 もし自分が普通の天使だったなら母親だってこんなふうに抱きしめてくれただろうか、とクローディアは思った。

 今まで出会った天使は誰もこんなに優しくしてくれなかった。故郷を追われてから出くわしたためしがないわけじゃない。でも彼女たちは自分を捕えようとするか殺そうとしするか、そのどちらかでしかなかった。

 彼女たちはきっと神話に《《毒されていた》》のだ。

 その点、この島はーー少なくともギグリはそんな迷信から距離を置いている。

 ここで暮らすことに何の不満があるのだろう、とクローディアは考えた。

 最高の生活を、とフェアチャイルドは言った。確かにその通りかもしれない。

 でもフェアチャイルドのものになってはいけないという直感はまだ残っていた。

 自分が欲しいのはただ単に豊かな生活ではなくて自由なのだ。

 ギグリとも争わなければいけないかもしれない。

 でも、それでも……。

 クローディアはとにかく回復のための眠りについた。

2020.5.24:神話中の名前「オム」を「ゼタ」に置換。

奇跡の名称をラテン語ベースにしているため、ギリシャ語由来の名前よりラテン語由来の名前の方が自然と判断しました。



ひとくち設定15:サンバレノ神話


 サンバレノに伝わり、初等教育に組み込まれている創世神話および叙事詩。旧文明のアーカイブを確立しているエトルキアおよびルフトではこれがキリスト教聖書を下敷きにしたものであることは広く理解されている。

 神が自らの似姿を与えた対象は天使であり、人間は原罪により翼を落とされた天使の末裔であるとしている。

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