擂り鉢
頭に血が上る感覚で目が覚めた。重力の方向は体の正面にあった。四つん這いになっているのだ。手足が固定されていて、立ち上がるどころか姿勢さえ変えられなかった。手は例のホットサンドメーカーのような金具にガッチリ挟まれていて、身動きすればするほど締めつけがキツくなっていくような感じがした。
単に体勢を変えられただけかと思ったが、違った。明らかに今までとは別の部屋だった。物音の響き方からしてもっと広い。匂いも油臭さは感じなかった。なんだろう、消毒液……いや、洗剤の匂いか。
精密機械のある部屋に動物を放つわけにもいかない。場所を移したのは理解できる。
「起きました」と天使の声。
「始めて構わない」男が答えた。
天使は背後にいるようだが、男の声はやや遠かった。天使同士で甚振っている様を見物するつもりのようだ。あまりいい趣味とは思えなかった。
「これから種牡を放しますよ」天使はキアラの首筋に顔を近づけた。
「放しただけで私に向かってくると思ってるの?」
「思うも何も、これから試してみればわかるでしょう?」
「動物は同種のメスをきちんと見分ける。誰に教えられなくたって自然とそれを知っているんだ。種牡ならなおさら、慣れているはずだ。天使に興味を持つはずがない」
「その言葉、待ってました」
なにか冷たいものが腰に触れた。体の芯がきゅっと寒くなった。
「あなたの言うとおりでしょう。でも私も色々考えました。今塗ったのは水溶きしたメスのフェロモンです。メスが交尾できる状態かどうか、オスが匂いで判断する種が多い。そうでしょ?」
そうか、刷毛の感触だ。確かにそういう匂いがした。決して気持ちのいい匂いではなかった。
「それから、種牡には精力剤を投与してあげましょう。これでガンギマリのギンギン間違いなしです。もうすぐあなたの体しか見えなくなってくる」
「自然な交配を試したいんじゃなかったの? 薬漬けで自然な状況なんて」
キアラが言い返すと男が答えた。
「仮説に則って考えれば、おそらく天使からアプローチすることで交配が成立するのだ。しかし君は必ずしも積極的とは言えない。あるいは何らかの要因によって天使全般が自らのその機能を忘れてしまったのかもしれない。天使が排他的な共同体を形成して他の動物を卑下するなら、そのノウハウの断絶は必然だろう」
天使が種牡に注射したようだ。短い呻き声のあと、鉄パイプを打ち合わせるような甲高い音が何度か響いた。どこにいるのかわからなかったけど、まだ檻に入れられているらしい。それもかなり小さい檻だ。暴れると注射の時に針が折れるから、体を挟むくらいの幅しかないはずだった。
「じゃあ、あとは種牡が大人しくなるまであなたに任せるわ」
天使は羽ばたいた。吹き抜けになっているのか、階上があるようだ。そういえば男の声も上から聞こえたような気がした。
檻の錠が外れた。
檻を押し開く暴力的な物音。荒々しい息遣い。まずはヒツジという話だったが、とてもそんなふうには思えなかった。何かもっと巨大でおぞましい怪物が近づいてくるような感じがした。キアラにはそれを確かめる術はなかったし、身構えることさえ許されなかった。無知で無防備なまま何か得体の知れないものが体の中に入って来るのを待つしかなかった。
キアラはそのときになってようやく麻酔の効果が切れていたことに気づいた。
長い間他人のもののように思えていた肉体の苦痛がなだれ込むように自分の中に戻ってくるのを感じた。
キアラはそこで写実的に記憶を辿るのをやめた。視界を塞がれている間の記憶を順序立てて言葉にするのはただでさえ大変だった。でもそれ以降の出来事はもはや記憶というよりも印象に過ぎなかった。五感各々の捉えた情報が細かい断片になって暗い地面の上に散らばっているだけだった。拾い上げることはできても、どう繋ぎ合わせればいいのか全くわからなかった。
キアラはペトラルカの部屋にいた。一番奥のベッドルームで、ベッドの窓側に座ってヘッドボードに背中を預け、枕を抱いていた。縦長の窓から真っ白な光が降り注いでいて、肌が少し熱かった。そのうち体全体が蒸発してしまうんじゃないかという気がした。
ペトラルカは化粧台の丸椅子に座ってじっと話を聞いていた。魔術院での体験を話してほしいと頼まれていたのだが、その時キアラはサンバレノに戻ってきたばかりでまだ気持ちの整理がついていなかった。いや、気持ちももちろんだけど、それ以上に記憶の整理がついていなかったのだ。
キアラは続けた。
「いくら発情していても牛や馬が天使に欲情することはない。そう思うでしょう。私もそう思ってました。動物には慣れていたし、自分がその対象になるなんて思ってもみなかった。想像がつかなかった。でも実際は違っていた。薬物によって極度に興奮させられた動物はそういった分別を完全に失ってしまうんです。彼らだって決して望んでそうするわけではない。ただ膨らんだ水風船のようになって、水は絶えず増え続けていて、破裂を避けるためにはどこかへ中身を吐き出さなければならなくて、その場で捌け口になりそうなものは私の体の他には何もなかった。彼らだって他にどうしようもなかった。そうするしかなかった。そういう状況に追い込まれていた。すり鉢に落とされたビー玉がどれだけ時間をかけようと最後は真ん中の穴に落ちるしかないのと同じ。それはすり鉢に落とされた時点で決まっている。彼らにとっては交尾というよりも自慰行為に近いものだったように思えます。それくらい暴力的で容赦がなかった。……恐い。そう感じていました。それはおそらく、彼らが力加減を知らない動物だからではなく、その暴力性に意図がなかったからです。もしあの男が天使に対する征服感を味わうために私を犯していたとしても、私は我慢できたと思います。でももし他の動物たちと同じくらいただ猛り狂っただけの人間に突っ込まれていたら、やはり恐かっただろうと。だから、私が煉獄に落とされてから憂さ晴らしのために下りてきた人間たちはある意味まともで、取るに足らないものでした」
何かストーリーを仕立てようとしているのだとキアラは自覚した。筋道をつければその体験が受け入れられるものになると信じているのだ。その愚かさと健気さも自覚していた。こじつけなのもわかっていた。ただそうしないわけにはいかなかった。一度思い出したからには片付けなければならなかった。
「私はあの男の『仮説』に毒されている。それをわかった上で訊きます」
「いいわ」とペトラルカ。
「教会は人間との婚姻を認めている」
「ええ」
「他の動物はどうなのです?」
「特に規定していない。教義上、天使、人間、それ以外の動物は三者各々が明確に区別されているように見える。形態や言語の共通性による、かなり素朴な区別でしょう」
「それはただ近縁だからなのか、どちらかが合わせているのか」
「どちらとも言える。天使と人間がかつて同種だったことは認めているし、また天使の優位性も説いている」
「生殖可能なのは人間とだけですか」
ペトラルカは頷いた。
「人間以外の動物との間に子供が生まれたということは、私の知る限り、ない。あなたを含めて、ない」
キアラが不安だったのはどちらかといえば煉獄に叩き込まれてからのレイプによる妊娠だったが、帰国してからの検査で無事が確認できた。カルテルスで子宮を傷つけたのだ。当然といえば当然だった。
「誰も試さなかったのか、それとも試した結果不可能だとわかったのか」
「前者でしょうね。もし試していたなら、もっと明確に否定する記録が出てきたはず」
ペトラルカも調べてくれたのだ。ということは、こうやって話すより先にことのあらましを聞いていたのだ、とキアラは気づいた。とすれば情報源はジリファか。彼女は煉獄を破る前にインレや魔術院に潜入していた。
ペトラルカはおもむろに腰を上げ、キアラの前に立って肩を抱き寄せた。キルトの柔らかい布地に頬が押し当てられた。
「なるほど」とペトラルカ。
「?」キアラは何のことかよくわからなかった。
ペトラルカはまたおもむろにリビング側の扉を開けて小姓を呼んだ。時々この部屋にいる髪のツヤツヤした小さい男子だ。詰め襟の白いシャツを着ていた。
「ちょっと彼女に抱きついてみなさい」
「はい」
小姓はキアラの前に歩いてきて「いいですか?」と訊いた。
キアラは一度ペトラルカに目をやってから頷いた。
小姓はベッドに飛び乗ってキアラの胸の下に頭を押し当てた。シャンプーか服の洗剤か、ちょっと甘い匂いが立ち上ってきた。
「もういいよ」とペトラルカ。
小姓は起き上がってキアラの服を直した。
「人間には抵抗があるようだね」
「そんな」
「ほんの少しだけ嫌悪感が表れた。私の時にはなかった反応だ」
つまり、キアラの反応を比べるためにまず自分で抱きついたのだ。
「男だから、なんでしょうか……」
「この状況なら有意な差だ。君を癒やすには男の天使が必要かもしれない」
男の天使など存在しない。要は癒やしようがないという意味だ。
「……なぜ存在しないんでしょう」
「男の天使が?」
キアラは頷いた。
「それについては私たちの聖書は特に言及していない。ただアンジェリカンの創世記には人間その他の生き物が男女を持つのは地上の環境とともに移り変わる存在であることを定められたからだと書いてある。つまり、進化論だよ。生態系の遷移や感染症の流行に従って淘汰され、かつ世代交代によって身体の傾向を変化させていくものと定めている。その摂理から外れたものとして天使を位置づけようとしている」
「不変の、神に近い存在だと?」
ペトラルカは頷いた。
「それは、でも、解釈であって因果ではないですね」
「男の天使が存在しない意味はわかる。しかしなぜ存在しないのか、理由にはならない、か」
「はい」
「それについては私は決して人間たちの意見を否定しない」
「……」
「幻滅した?」
「いいえ」
「神学はかつて宇宙の理の全てを解き明かそうとする総合学問だった。やがてその厖大な情報量はあらゆる自然科学に分割されていった。我々宗教というのはその残滓だよ。科学的説明を求めるなら、私にはエトルキア以上のものは用意できない。エトルキアは強く大きい。根拠のないものを信じるのは難しい時代になってしまった。それでもなお宗教に役目があるとすれば、根拠のないもの・ことに対して再び不安を抱くようになった君たちに安堵を与えることだろう。死後なり異次元なり、知覚しようのない世界に対してある種の確信を抱かせることにある。不可知に意味を与えるのはそのためだ。その意味を信じることを祈りと言い換えてもいい。例えば、奇跡は説明できない。しかし素晴らしいものだ」
何か同じようなことをあの男とも話したな、とキアラは思った。
「サンバレノの価値観が科学的ではないとあの男も言っていました」
「我々が知るべきは『なぜ男の天使が存在しないのか』ではなく、『男の天使は本当に存在しえないのか』かもしれない」
ペトラルカは化粧台の椅子からベッドの縁に移って座り直した。
「そうか、そこには思い至らなかったな」ペトラルカは続けた。
「私の幼年期はおそらく君のものとは真逆に等しいものだったよ」
「真逆」
「物心ついてからこの地位に至るまで、私は天使以外の動物と全く接することがなかった。人間も、グリフォンも、窓の外を飛ぶ鳥さえ見たことがなかった。生き物に性別があるなんてことは全く意識していなかった。だから、初めて他の人間を見た時、要するに、とても怖かったのよ。なんで翼のない天使のような姿をしているのだろう? 性別と呼ばれるものによって大きく姿が異なるのはなぜなのだろう? そもそも性別とは何なのだろう? そうして最初に抱いた理解は『彼らは私たちとは全く異なる摂理に従って生きている生き物なんだ』だった。『天使が他の生き物とは違う』ではなく、『他の生き物が天使とは違う』だった。天使が基準なんだ。当時は生き物に厖大な種があるということも知らなかったから。正直なところ、おそらく今でもその考え方は根本的には変化していない。あるいは私の価値観はアンジェリカンの幹部たちより天使中心的かもしれない。言ってしまえば、他の生き物のことが少し気持ち悪いのよ。それは、可愛くないとか、触りたくないとか、そういうんじゃない。ただ、触っているとよくわからなくなるのよ。この生き物は何なんだろうって、何か得体の知れないものに思えてくる。これ以上自分の内側に近づけたくないという気持ちが湧いてくる。表に出すほどの強さではないけど、天聖教会の司教としてこの感情は余計なものだと私は思っている」
「一種の偏見だと?」
「完璧に無垢な価値観というのも存在しないのだろうけどね。ただ、1つ言っておこう。私はエトルキアで飲まされた『毒』なるものに君がこれからも自覚的であることを願わずにはいられない」
その言葉が「憎しみは抱くな、平等であれ」という意味ではないのはすぐに理解できた。相対的でいいから自分の価値観を位置づけろと言っているのだ。要するにそれはエトルキアでの経験を忘れるなということだったし、何ならことある度に思い出せということだった。
ペトラルカは窓の前に立って風に膨らむカーテンを押さえた。
「オルメトに行こう。いい気晴らしになる。不器用で悪いけど、君にはこの聖堂の中で安易な慰めを与えたくない」
「なぜオルメトなんです?」
「君たちには、と言った方がよかったかな?」




