ランデブー
ケネシス中層の滑走路は広い甲板の端にあって、格納庫から離陸滑走位置まで2km以上誘導路を走っていかなければならなかった。制限速度100km/hの黄色い看板がぽつぽつと道端に置いてあって、それが計器盤の下のディスプレイに映っていた。前方モニターだ。地上姿勢がやや上向きになる尾輪式の飛行機は走行時の前方視界が悪い。ないといってもいい。事故を防ぐための装備だろう。レーダー式の追突防止警報までついていた。
タキシングはじれったいけど、かといって誘導路から離陸するわけにもいかない。頭上をコースが通っていて他の飛行機とぶつかるおそれがあった。
待ち時間が長い代わりに他の飛行機の飛行はよく見えた。離れて飛んでいるな、という印象だった。複数機が同時にコース内に入らないという決まりになっているのかもしれない。どうも無線を聞いたところそんな感じだ。ミスター〇〇、ミズ〇〇、と順番に呼び出している。タールベルグやベイロンの感覚から言えばそんなことじゃレースにならないと思うわけだけど、あくまでタイムで競うのがこっちの大陸の文化なのだろう。向こうの常識が通用すると思うのは間違いだ。
コースは4つ。「プライマリー」と「アドバンス」が中層甲板をほぼ1:2で分割する平面サーキット、「アンダーヤード」は中下層以下の構造を活かした立体ロングコース、「オーバル」は中層甲板の周囲半径5kmに設定された高速サーキットで、オーバルと甲板の間が待機場になっていた。他に「スペース」というのが訓練空域側にあって、自由にアクロバットをやってよろしいという具合だった。通年でこれだけの設備が使えるのだからある意味ベイロンより贅沢かもしれない。
ディアナはまずプライマリーの順番待ちに名前を入れた。カイは待機場からそのトライアルを見ていた。スピードもある。バンクも鋭い。でもあまり攻めた飛び方ではなかった。ゲートは真ん中を通るし、旋回も大回りだ。
ウォーミングアップかと思ったけど、2周目も、アドバンスでも同じような飛び方だった。レールの上を走る感じ、というのだろうか。優雅といえば確かにそうだ。でも悪い言い方をすればノロい飛び方だった。ディアナだけじゃない。他の飛行機も同じだった。下手な飛行機は確かに遅い。でも上手い方はどれも模範的で、タイム的には頭打ちだった。格納庫の上に巨大な電光掲示板があって、各コースのストップウォッチを表示しているのだ。
カイも1本目は乗っているシアンの癖を確かめるつもりでかつちり回ったが、2周目からはスロットルを開きっぱなしにして思い切り機体を滑らせながら飛んだ。
見ろ、これが本当のレースだ。
シアンは普段乗っているレース機の倍以上のエンジンパワーを持っている。加速は暴力的で、旋回は重く、空気に乗っているというより空気を腕力で押さえつけながら飛んでいるイメージだった。勝手が違うな、とは思った。でもタイムは他の飛行機よりもずっと速かった。
コースを抜けたところで管制から〈素晴らしい。今日の一番です〉と声がかかったが、あまり褒めている感じではなかった。客に失礼のないように抑えているのか、それとも、ここではタイムを追求するのは「行儀の悪い飛び方」ということになるのかもしれない。後者の方が腑に落ちる感触だった。
アンダーヤードのコースはよかった。倉庫などの開口を突っ切る区間がきちんとあってスリリングだったし、どことなくアイゼンを思い出すレイアウトだった。1周目はコースを覚えるために流して、2周目から飛ばした。
3周目を抜けたところでディアナが横に並び、キャノピーの中で「スペース」の方を指差した。
カイはその誘いに乗ることにした。ラジエーターフラップを開き、エンジンを冷やしながらゆっくり飛んだ。ディアナ機の側面はたった15分ほどの飛行で黒く煤けていた。やっぱり汚れるんじゃないか。
ふと横から聞こえるエンジン音が大きくなり、まるで落ち葉が風に煽られるようにディアナ機がふわりと機首を上げた。そのまま真っ直ぐに空を上る。腹下を太陽に輝かせながら右ロール。トルクロールだ。
失速してくるりと反転、機首を下にする。
カイもスロットルを上げ、ループに入って旋回の最高点で操縦桿を強く引いて機首を下に向けた。
その時ディアナはほぼ真下にいて、カイの正面から頭上の方へ抜けていこうとしていた。こちらの背後に回ろうとする動き、要するに空中戦の真似事だ、とカイは理解した。
受けて立とうじゃないか。
2人はそのまま何周かループを続けた。天地が回り、何度も翼が光った。ディアナ機の紡錘形の翼平面形が印象的だった。シアンの矩形テーパー翼よりずっと優雅だ。ハンドメイドに違いない。でも素人には無理な造形だ。
ループの輪は次第に小さくなり、ほとんどすれ違うような距離になる。そこでディアナは下に抜けた。
切り返して追っていくと左右に激しくロールを打ち、フェイントを入れてから右に旋回、ブレーキをかけたように浮かび上がった。
カイもすかさず操縦桿を引く。真下に潜り込むような位置についた。
が、ディアナはさらに右へスライドして旋回の軸をずらしながら、突然こちらにロールして機首の下に消えた。カイは左バンクに切り替えたが下を覗き込んでもディアナはいなかった。ハッとしてそのまま背面になると頭上後方に白い機影があるのがわかった。減速して後ろについていたのだ。
それから何度かドッグファイトを続けた。カイにもディアナの後ろを取る瞬間はあったが、追い続けることはできなかった。いつももう少しというところでディアナは死角に潜り込んでするりと逃げ去ってしまうのだ。至近距離でかくかくとはためく舵、刃先のような翼端、白い飛行機雲が目に焼き付いていた。
ひとつわかったのは彼女の操縦がとても上手いということだ。それはレース的な機動ではないし、もしかするとジェット機の空戦でもナンセンスなものかもしれない。だとしてもこの手のレシプロ機による舞踏としては間違いなく一級品だった。舌を巻いた、といっていい。
それでも彼女も目が回ってきたのか、背中から被さるようにして背後につき、その後のロールにも食らいついて5秒ほど絶好の位置を維持できた。
そのあとディアナはスンとして水平飛行になり、翼を振った。帰ろう、という意味だ。カイは親指を立てて返事をした。
レースで慣れた左右、下方向だけではなく、前後を含めてあらゆる方向に体が揺さぶられた。Gで息が上がり、暑くもないのに額から汗が垂れていた。肉体的にも精神的にも全力で飛んでいたことを自覚した。
着陸、甲板の感触が振動になってシートに伝わってくる。その震えが体の中で妙に響いた。まるで上から甲板に向かって押し付けられているみたいだ。飛ぶ前よりずっと体が重く感じられた。シートに体を沈め、モニターを見て誘導路を進む。
久しぶりに思い切り飛んだな、とカイは思った。
俺はレースのために生きてきた。飛ぶことが人生だった。それを人生の目的とか、生き甲斐とか、そんなふうに考えたことはなかった。当たり前のことだったからだ。それを忘れていたのかもしれない。しばらくの間クローディアのこと、アルルとの約束で頭がいっぱいだった。
複雑だな、と思う。たぶん「カイ・エバートがどんな人間なのか」を考えてしまったからだろう。違う生き方を知ったことで人間としての選択肢を与えられて、カイ・エバートという人間をあえて定義しなければならなくなった。たとえ以前の通りの生き方を選び取ったとしても、もとより自明のものとして存在していた自分には戻れない。
人間は負荷逆だ。成長するし、老けるし、死んでいく。自分にもその変化がやってきただけ、なのだろう。
嬉しいとか悲しいとか、そういう感情ではない。
ただ、複雑だな、と思う。
でも、思い出せてよかった。それだけは確かだ。
顔を上げる。誘導路はまだ半ばだった。やはり、長い。きっとこうやって高揚した気分を鎮めるための距離なのだろう。
カイはシアンから降りてディアナ機の翼の下まで歩いた。ディアナはコクピットの縁に座り、シートの方へ足を置いて涼んでいた。
「あの飛び方、誰かに習ったんですか」カイは訊いた。
「あの?」
「綺麗だった」
「そう。あなたは?」
「久しぶりに思い切り飛べました」
ディアナは満足そうに2度頷いた。
「よくついてきたわね」
「いや、何度も負けてる」
「反応も早い、判断にも迷いがない。センスがある、と私が言ったのはそういうところ。当たってたわね。エネルギー管理をきちんとやればもっと早く回れるようになる」
「エネルギー管理?」
「その飛行機が得意な速度帯を維持して飛ぶの」
「ああ」
「小さく旋回すれば機首は相手の方に向くけど、スピードが落ちてそのあと動きが鈍くなる。相手の方がスピードが残っていてばいい位置を取られることになるし、こっちは逃げられない」
「わかります。勉強になった」
「シアンに慣れてないだけか。とにかく、私も楽しかったわ」ディアナは足を抜いて翼の上に立った。「ところで、お腹空かない?」
上層のエントランスにはラウンジも併設されていて、飲み物のほか食事も用意されていた。ガラスケースの中にデザートが並んでいた。
ディアナは温かいコーヒーを2つと小さなホールのケーキを1つ頼んだ。
ケーキは手のひらくらいの大きさで、背の低い円柱形にきっちりと白いクリームが塗り固められ、上から半透明の赤いソースがかけられていた。つややかな飴状になった天面に四角いチョコレートが刺してあった。
ディアナはそのチョコレートを一度皿の縁に置き、ナイフでケーキを半円形に切り分けた。切れ味のいいナイフだった。ケーキはほとんど形を変えなかった。ナイフに触れた部分がほんの少し沈み込んだ程度だ。
ディアナはフォークとナイフだけで器用に持ち上げてケーキの半分を取り皿に移し、その上にチョコレートをまるまる乗せてカイの方へ差し出した。
断面を見るとパウンドはココア色で、間にソースの挟まった3層構造になっていた。カイはフォークを通して一口大の楔形に切り出し、口に運んだ。口当たりはしっとりしていて、中のパウンドは程よく重量感があって濡れた感じのしないぎりぎり。軽さはむしろ外装のクリームに委ねられている。
クリームと表面のベリーソースが混ざることで甘酸っぱい風味が口の中に広がり、そこに内側のチョコレートソースが加わって深い甘みとコクを与えてくれる。甘酸っぱさの上滑りを防ぐとともに奥深い余韻を生み出している。要するに素晴らしい美味しさだった。
ディアナはフォークを置いたまま手の甲に顎を乗せてカイを眺めていた。
カイはすかさずもう一切れ行こうとしていたのを我慢して手を止めた。
「おいしい」
「ここのケーキは私がプロデュースしたの」ディアナはそこでようやくフォークを取った。カイと同じように切り出して口に入れる。
「うん、おいしい」とディアナ。
「これ、何味ですか」カイももう一口食べながら訊いた。
「フランボワーズ・ショコラ」
「フランボワーズ?」
「またの名をラズベリー」
「ああ、あの、桑の実みたいな」
「そうね、見かけは」ディアナは頷いた。
ラウンジのテーブルは中庭のような温室に面したガラス壁に横づけされていて、太陽や雲の具合によって差し込む光が変化していた。温室に植えられた植物の照り返しで光は時々少し緑色だった。
そのゆらぎに合わせてディアナの顔の陰影や目に入る光の形も変化していた。それがわかるくらいお互いじっとしていたということかもしれない。
綺麗な人だな、とカイはふと思った。
それからなんとなく着替えの時に目に入った下着姿を思い出した。白くて刺繍のついた高級そうな下着だった。
たぶん誘惑なのだろう。ディアナが本当に見ているのは俺じゃない。クローディアだ。クローディアをこの国に繋ぎ留めて、できるだけ思い通りに扱いたい。俺を手懐けておけばいい材料になる。そう思っているのだろう。
だとして、距離を置くべきなのだろうか。
確かに、ディアナやエトルキアの思惑がクローディアの意向に反するならそうだろう。でも今はまだ明確な齟齬は表れていない。もしそれで恩恵を得られるなら、関係を保っておいた方がいいじゃないか。相手がこちらを利用するなら、こちらも相手を利用したっていいはずだ。
カイは先ほどより大きめにケーキを切り出し、四角いチョコレートを乗せて口に運んだ。
おいしい。裏表のない甘さだ。
思惑には思惑を、か。自分でも邪な発想だと思う。ただディアナの好意を素直に受け取るのはなんとなく恐かった。
「ディアナ」カイは口の中が空になったところで呼んだ。
「ん?」
「俺にアネモスの扱い方を教えてくれませんか」
「どうして、アネモス?」ディアナはキョトンとした。
「キアラたちがスローンから逃げようとした時、戦闘機で上に待機していれば頭を押さえられたかもしれない。でも俺にはそれを言い出せるだけの自信がなかった。操縦桿を握って飛べるってだけじゃ戦いにはならない。結局、甲板の端にいただけで何もできなかった」
「実際、そうしてたのよ。あの時スローンは待ち伏せの戦闘機が囲んでいた。でもシルルスの加速が速すぎてミサイルが当たらなかった。ジャミングのせいもあっただろうけど、ただの一発も。あなたはできる限りのことはやっていた」
「それでも、何かできたんじゃないかって後から思いたくはありません」
「メルダースは? 私よりそれらしいポジションにいるでしょ」
「訊きました。軍人になれば乗れるって」
「彼らしいわね」
「正論です。でも権力の端末になるのは違う。本末転倒だ」
「ふうん。私はあなた言う権力ではないの?」
そのとおりだ、とカイは思った。何も言わず、ディアナを見返すことしかできなかった。
ディアナは一度ゆっくりと瞬きをした。
「まあ、いいわ。手配してあげる。でも数日ちょうだい。予定通りに故郷へ帰るのは無理かもしれない。それでもいい?」
「大丈夫です」正直それでいいのかわからなかったが、カイは毅然と答えた。
ケンダルスヒルでスピカと合流して定期便でレゼに飛び、メルダースの家に戻ったのは17時過ぎだった。スピカはリビングのソファに倒れ込んだ。ラークスパーの時よりハードだったようだ。
「もうニュースになっていたよ」とメルダース。
「実験結果を待たずにスローンの中枢化も決定でしょ。首都圏では核は使わないって決めてるんだ」
メルダースはソファに座っていた。夕食の支度をしているのはクローディアだった。食堂みたいな匂いがするなとは思っていたけど、本当に見覚えのあるシチューだった。キャベツとにんじん、グリーンピース、厚切りのサラミをトマトソースで煮込んだものだ。モルから作り方を教えてもらったのだろう。クローディアは上機嫌だった。
「ディアナにアネモスの乗り方を教えてもらうことになったよ」
「なんでアネモス?」最初の反応はディアナとほとんど同じだった。
「彼女の立場なら軍人でなくても戦闘機に乗せられる」
「乗りたいだけ?」
「それもある」カイはニッと歯を見せた。
クローディアは鍋の火を弱めてしばらくかき回した。事情を把握するために思考を巡らせている感じだった。
「それっていつ?」
「まだわからない。近日中としか」
「それはむしろいいかもしれない」
「何?」
「もう少し時間があるなら、私はラークスパーの地上を見てみたい。カイと一緒に行くのはリスキーだし」
クローディアはシチューを小皿に取ってカイに差し出した。
「おいしい?」
「うん」カイは答えた。
少し塩気がきついような気もしたけど、家庭的で間違いのない味だった。好き嫌いは別として、何か豪華で立派なものより、こういったものをきちんと作れる人の方が本質的には料理が上手いんじゃないかと思う。




