集まるということ
スピカの予想通り、メルダースが用意していたのは魚料理だった。メインは塩と醤油で薄味にソテーしたスズキの切り身、全粒粉のブール、キャベツとニンジンのスープ、卵とマカロニのサラダ、ダイコンのラペ、デザートにレアチーズケーキがついていた。
ひとつひとつは健康的だけど、カイの持っているタールベルグ的価値観から言えば圧倒的な品数だった。ダイニングいっぱいに置かれたテーブルが4人分の皿でぎゅうぎゅうで、見ているだけで満腹になりそうだった。
「ああ、チーズケーキ」スピカは半円形の蓋を取って中身を確認したあと、テーブルの上に身を乗り出して胸いっぱいに匂いを吸い込んだ。
メルダース家では毎日こんな食事なのだろうか、と思ったけど、彼女の反応からしてチーズケーキだけはお客のために特別に作ってくれたもののようだ。ありがたいやらなんとやら。
「おいしそうだけど、食べきれるか……」カイは言った。
「食べないと強くなれないよ」とクローディア。メルダースがエプロンを外す姿に釘付けになっている。
「重くなるのは困るよ」
「そう?」とスピカ
「飛行に響く」
「天使みたいなこと言うのね」
「ああ、レース機のことか」とメルダース。「アネモスなら50キロも100キロも変わらないんだが」
「エンジンパワーが違うでしょう。ざっと2,30倍。体重の影響は20~30分の1だ」
「乗ってみるかい?」
「操縦させてもらえますか」
「それは軍人の特権だなあ。体験搭乗なら方々でやってるが」
そうだ、戦闘機の扱い方ならプロのメルダースに教えてもらえばいいじゃないか、と思ったけど、さすがにきっちりした人間だ。カイは決してエトルキアという国家を守るための存在になりたいわけではなかった。
幸いソテーは美味しかったし、サラダも器が小さいので食べきることができた。ケーキもできるだけ薄く切ってもらった。そして最後に余りのパンとサラダはスピカが食べきって、その間、空いた器からメルダースがどんどん流しに運んで洗っていった。
「あなたも魔術を使えるんですよね?」カイは訊いた。
「素朴な疑問だね」メルダースは答えた。「もちろん使えるとも。この国の軍人は操縦と同じくらい触媒の扱いを叩き込まれる。それで使えるようにならないのは魔素を持たない天使と人間のハーフくらいだ」
「あなたが杖を持ってるところを見たことがないと思って」
「この国の社会は杖なしで十分成り立つようにできているんだ。触媒というのは究極の万能道具だよ。でもその反面細やかな操作には向かない。ものを動かしたいなら手で持って置いた方が早いし正確だ。触媒ではない他の道具を使った方が早くて正確だ、という作業は他にもたくさんあって、『ただそれだけのための道具』が結局は重宝される。『触媒でしかできない作業』を駆逐してきたことで今日の生活があるんだ」
「触媒なしで成り立つ生活の方が高度だと」
「高度かどうかはわからない。ただ、豊かなのかは確かだ。まだ甲板のないシェルターだった極限環境の塔の中で発達してきたのが魔術だからね」
「武器のように思えるのも、平時には必要ないから、ですか」
メルダースは頷いた。
「確かに、魔術院を除いて最も魔術に長けているのが軍であることを考えると、それは否定できない」
部屋の中が暑いと感じたのか、スピカがベランダのガラス戸を開けた。
集合住宅なので近隣の物音が上下左右から聞こえるのだけど、それとは別に上層の甲板から何か降り注いでくる音があった。ベイロンのレース会場で聞いた歓声に似ていた。カイはベランダに出て上を見た。
「ああ、デモの音ね」とスピカ。
「デモ?」カイは訊き返した。
「スローンの崩落、それからアークエンジェルを取り逃したこと」
「ああ……」
「あら、やけに気負った顔するじゃないの」
「そうでしょうか」
「どう考えたって君たちは巻き込まれただけよ。逃げたのも、スローンを壊したのも、原因はあの天使たちの方なんだから」
「……?」
「何?」
「意外でした。てっきり天使の肩を持ってるのかと」
「彼がそういう立場だから?」スピカはメルダースの方を半分だけ振り返った。
「それもありますけど」
「同じ天使だから同族意識が働く、か。そういう天使もいるだろうし、そうじゃない天使もいる。人間と同じよ。人間だからってみんながみんな同じ立場じゃない。でしょ?」
「はい」
「私は捕虜でもないし、ブンドの会員でもない。軍人だわ」スピカはそこで少しカイの表情を窺った。「もちろん君の気持ちも理解できる。エトルキアは人間の国で、だから天使のようなマイノリティは身を守るためにブンドのように集まって暮らすのが自然だって。でも私の解釈は少し違う。生き物は自分が思う『正常な状態』を自力では手に入れられないと思った時に訴える相手と仲間とを求めるのよ。それが集まるということ。この国ではもとより天使の方が冷遇されているから、『集まらなければいけない』のボーダーが天使にとってより低くなっているだけ。あのデモも同じ。力の面では人間はアークエンジェルに及ばなくて、いくら魔術が使えたって、1人じゃアークエンジェルは捕まえられないし、どこかに閉じ込めておくこともできない。コントロールできない。その憤懣のかわいそうな捌け口が市政だったんだわ」
「市政?」
「ああ、ニュース見てないか。あのデモ、市庁舎の前でしょう」
「市に対する抗議? 軍じゃなくてですか」
「軍がアークエンジェルを捕らえていることに対する反対意見は前々からあって、あれはそれとはまた別の層なの。軍の発表で捕物の時に行動を制限されたと言っていたから、もしそれがなかったらスローンも無事だったんじゃないかと思っている人たちね」
「そう都合よくは……」
「でしょうね。でも市はそれを無視するわけにはいかない。あの中の一握りは過激な実力行使に出るかもしれない」
「触媒を持っているから」
スピカは頷いた。
「それで政治が動くなら、デモなんか」
「必要なのよ、それが。市はその実力行使の背後に何パーセントの民意が背負われているのか、民主主義的な有効性を吟味する。もしそれが1人の狂人の異端思想なら、耳を貸さずに取り締まる方が安上がりなんだわ。なんで集まるかって、わかる気がするでしょ」
「触媒を規制する方向にはならなかったんでしょうか」
「魔術によって天使の支配を打破したというのがこの国の歴史なのよ。もちろんそういう動きがなかったわけじゃない。天使の影響力を排除した時点で一度は触媒を登録制にしてね、魔術教育も大学に絞って、使える人口を1割以下に抑えたの。でも、それから何十年か経って、サンバレノが建国する時にかなりいいように領域を奪われてね、たくさん難民が出て、逃げる術もなくて、それはもう王室がひっくり返るくらいの惨事になった。その時の反動が300年以上経った今でも続いてるんだ」
カイは手摺りに身を乗り出して上空を覗いた。ベランダが甲板の外周向きなので上層は見えない。声とぼんやりした光だけが周りの空まで回り込んでいた。
そういえば星の見えない空だった。曇っているわけではない。昼間からそのまま晴れていた。夜だというのにどことなく白っぽくて透明感がない。しばらく考えてレゼや周りの島々の光が大気を照らしているからだ、と思い当たった。やっぱり人が多い。
メルダース夫妻は寝室のダブルベッドを与えてくれた。リビングのソファがちょうど2台あるからホストはそちらで構わない、という。家の中のどこかに簡易のベッドを置こうにもスペースが余っていないのだ。
シーツはよく整えられていて、撫でるとシュルシュルと音がした。毛布も掛け布団も洗いたての匂いだった。
「気持ちいい」
クローディアはシーツの上にうつ伏せになって手足をワイパーのように動かした。それからカイが寝転がるのを待って顔を近づけた。さほど密閉力のない引き戸だから、すごく小声で喋らないと筒抜けになってしまいそうだった。「でも、なんだか落ち着かない」
「自分の布団でもなく、公共の布団でもなく、他人の布団だ」
「普段は2人が使ってるのね。そしてそれを隠している」
「隠さないっていうのも、それはそれでなかなかラフな気がするけど」
2人はなんとなく耳を澄ませた。家と家の間の壁はかなり防音を考えた構造のようだけど、それでも時折振動や軋みが伝わってきた。他人の気配に囲まれていた。
「ねえ、カイ、あなたは天使がどうやって子供を産むのか知っているの?」クローディアはこちらに顔を向けた。いささか眠そうだった。
「知ってる」
「私、教えてないでしょ?」
「キアラが言ってたんだ」
「いつ?」
「ネーブルハイムで攫われて、アイゼンにいた時」
「そんな話をする関係だったの?」
「一方的に聞かされたようなもんだよ。なんで君と一緒にいるのかって訊かれて」
「それだけ?」
「それだけ。おちょくられたんだ。いやがらせだよ」
どうしてそんなに突っかかるのだろう、とカイは思った。自分は天使の性について無知である方がよかったのだろうか。
「全然動じないのね」とクローディアは言った。
動じない?
そうか、自分は動じていないんだ、とカイは思った。知識や経験の問題じゃないのだ。クローディアは彼女自身に対して何か恥じらいのようなものを感じてほしかったのだ。
そう思ってみると、彼女の奇跡のすごさとか、黒羽の特別さとか、そういった壮大なイメージを突き抜けて1人の歳下の女の子が目の前に降ってきたみたいな感じがした。
彼女を買いかぶりすぎていたとは思わない。でもそれは本質の全てではなかった。自分が誰ともつながっていない状態なのが不安なのだろう。カイとの約束は果たしてしまったし、血縁のギネイスも死んでしまった。お気に入りのメルダースにもスピカがいる。
地上にいた頃の彼女ならそんな孤独は当然のもので、気にするほどのことではなかったのかもしれない。でも今は壁に隔てられているとはいえ大勢の人間に囲まれていているのだ。唯一同じ空間にいるカイにその不安を預けたくなるのはもっともすぎるほどもっともなことだった。
カイは足元にあった布団を自分とクローディアの体に均等にかかるように広げた。そうすると右手は自然と彼女の背中に置かれるような形になった。
彼女の肌に手が触れた時、「でも、何のために?」という疑問が頭の中を走った。今まで感じたことのないためらいだった。
「人は目的がないと関係を持てないんだろうか」カイは呟いた。
「何?」とクローディア。
「デモも目的だ。夫婦だって目的だ」
「そんなきちんとした関係ばかりじゃないと思うけど」
「でもたぶん長続きしない。君の不安はそのせいなんじゃないかな。終わりも見えないけど、続くかもわからない」
クローディアはそれ以上何も言わなかった。




