グリフォンの巣
グリフォンにビビるなんて、それこそ人間じみた反応だろう。アークエンジェルなら堂々と向き合ってなんぼのはずだ。ラウラはネロに目を向けた。
「触ってみますか?」とキアラ。
「触らせてくれる性格なら触ってみたいね」ラウラは答えた。半分は強がりだ。
キアラは早足でネロの方へ歩いていって嘴を撫で、頭を下げさせた。
ネロは「キュイ」と小声で鳴いた。
「だめだよ」とキアラ。
「なんて?」ラウラは訊いた。
「ええと……」
「何か良くない鳴き方?」
「時々天使を食べたがることがあって……。食べたことはないですけど」
なるほど、つまりネロは「たべてもいい?」と訊いたのだ。
ラウラは目が回りそうになるのを感じた。冷たい汗がツーっと背中を走る。ぐっと堪えて嘴に手を伸ばす。分厚いプラスチックのような感触だ。爪のように表面に筋が入っている。先端は鉤状になって鋭く尖り、上下の縁はやや擦り減っている。その削れ方で積層構造になっているのが窺えた。
ネロは嫌がらない。ラウラはキアラに促されて顎の下に手を伸ばした。
羽根は1枚1枚が板のように大きく、固くしっかりとしている。撫でるとブラシのような感触だ。ただ根本の方に指を差し込むと柔らかい羽毛があって、作り物でも何でもなく、れっきとした生き物だというのが否応なく理解できた。そして日向のような埃っぽい匂いがした。建屋の開口部で日光浴しているから常に干された状態なのだろう。
撫でている間ネロは少し目を細めていて、時々半透明の瞬膜が眼球を半分くらい覆っていた。
案外なかなかかわいいものだ、と思ったその時、嘴が開いて視界を覆っていた。全身黒い羽だけど、舌も真っ黒なのだ。
食われる?
ラウラは意識が遠のくのを感じた。が、気を失えばスペルの持続がどうなるかわからない。正体がバレるのはまずいという気力が上回った。
ラウラは背中に力を入れて翼をバタバタ動かした。ネロの方も本気で食べようとしたわけではなく、じゃれついたつもりなのだろう。ラウラが暴れるとすぐに嘴を開いた。
「キアラ」と後ろからジリファが声をかけた。
「お怪我は、ありませんか」キアラはとりあえず嘴を押さえながら聞いた。ラウラの血の気が引いたのは言わずもがな、キアラも顔を真っ青にしていた。位上の天使においたをして粛清されてしまったグリフォンが少なくないのかもしれない。
「なかなか可愛い性格だね」ラウラも動転したままとにかく答えた。依然いつ貧血で倒れてもおかしくない感じだった。
ラウラが怒っているわけではないとわかって安心したのだろう、キアラは気を取り直してネロの嘴の縁を掴んだ。噛み合わせの具合でちょうど手が挟まれない位置だ。
「おいで、ネロ」キアラは引きつった顔でそう言ってネロを隣の部屋に引っ張っていった。
しばらくすると何かをしたたかに叩きつける音が響いてきた。壁が真っ平らなので音がよく響く。それが何度か続いたあと、「キャウン」と明らかに怯えた鳴き声が聞こえた。
「舌まで真っ黒だったね」ラウラは呟いた。なんとなく口をついたのがその言葉だった。
「あれはキアラのグリフォンだけです。突然変異で黒い色素が多いのです。ゆえに隔離されている、『キアラのもの』なのです。この国では黒は嫌われますが、あなたはその文化にはない」とジリファ。
「むろんだよ。ジリファも噛まれたことがあるのかい?」
「いいえ、私はありません。距離を取るようにしているので。恐いので」
ああ、それは素直に言ってもいいことだったのか。ラウラは溜息をついた。安堵とも拍子抜けともつかない溜息だった。
キアラとネロが戻ってくる。ネロは尾羽を下げ、全身の羽を体に沿わせてすっかり細くなっていた。
「躾がなっていなくて、すみません」キアラは頭を下げた。
「しばらく離れ離れだったんだろう。仕方ないよ」
「巣箱に下りましょうか」とジリファ。
「ネロ、案内してくるから少し1人で待っていな」
キアラの指示にネロは頷いた。言葉はわかるようだ。それか、わからないにしても飼い主の指示口調には頷くように覚えているのだろう。
キアラは開口部の外に出て周りを確認してから飛び出した。ラウラも続く。ジリファが最後尾だ。
中層まで1500mほどの高度差だが、幸いキアラは垂直降下はやらなかった。塔から100mほど距離をとって螺旋状に緩降下していく。
途中、家々の小さな桟橋から他の天使が出入りしている様子が見えた。外壁すれすれを高速移動すると出会い頭で衝突するおそれがある。だから塔から離れて飛ぶのだ。
「エトルキアじゃなかなか見ない外壁の質感だね」ラウラは言った。
「軽量セラミックです。雨はけがよく、耐候性が高い。金属系の外板と違って腐食しないし、水質・土壌汚染も起こしません。靭性は低いですが」とジリファ。
「この地域じゃ致命的じゃないのかい。地震は多いはずだ」
「塔の構造を持たせているのは内部骨格だと聞いています。外壁だけなら割れても貼り替えればいい」
そうか、とラウラは思った。天使にとって塔外作業は危険を伴う行為ではないのだ。高所もフラムも天使には何の害もない。セラミックの原料も塔の採掘機能に任せずとも、自ら地上に下りて産地を探し当てればいいのだ。
「セラミックだと滑るので水平面はテラコッタです。汚れるし水を吸うと重くなるので外壁には使いません」
「どちらにしても焼き物というわけだ」
「もとは違った素材だったようですが、張り直したのです。黙示録には人の塔からのリフォーム記があります」
「……そうか、不勉強でね」
「ああ、エトルキアでは半ば禁書でしたね」
ラウラは耳抜きをして中層の気圧に合わせる。話している間に巨大な建屋の屋上に到着した。下の広い甲板では1頭のグリフォンを数人の天使が囲んで縄で引いていた。調教にも時間がかかるのだろう。グリフォンは翼を広げた状態で時々羽ばたいて反抗していた。
ペントハウスから建屋の中に入ると、鳥小屋のような独特の匂いが鼻をついた。特に刺激臭でもないし、何の匂いなのかよくわからないのも鳥小屋と同じだった。
とにかくとてつもなく広い空間だった。内部構造はまさに鶏舎で、塔の直径方向に長い吹き抜けが通り、床は5層に分けられ、グリフォン用の大きな檻が吹き抜けに面して並んでいた。翼長20mを超えるグリフォンが悠々翼を広げられる檻が横並びに5つ。それが各層向かい合って50頭。天井はロタの聖堂よりも高いかもしれない。壮観だ。外壁に設けられた無数の窓から光が差し込んでいた
3人はキャットウォークと階段を伝って下りていく。グリフォンたちは床で爪を研いだり、大木のような檻の柱を蹴って飛び跳ねたり、甲高い声で鳴いたりしていた。さながら工事現場のような騒音だった。
「壮観だね。すごい数だ」
「これでも成体の頭数はオルメト戦役前に比べれば半分以下です」
「減らしたのかい」
「増えないのです。生き物頼みの軍隊は再生に時間がかかる宿命にありますから」
上の層に入っているグリフォンはどうやら幼体で、ネロに比べると体もまだ二回りほど小さく、動きに落ち着きがなかった。幼体の羽の色は黒っぽく、嘴が黄色いだけでネロとの違いはあまり感じられなかったが、対して下の層にいる成獣は全身鳶色か頭だけが白く、嘴はやはり黄色いままでネロとは明らかに違っていた。これだけ数がいればネロの方が異端だというのも納得できる話だった。
「この厩舎は生後8ヶ月から3年までのグリフォンのものです。そのあとは訓練室に移して集団生活に慣らし、指示を聞いて行動できるように教育します」キアラが声を張って説明した。
「訓練を終えると全部軍務に就くのかい?」
「そうです。といっても動員がかかっていない間はこの塔に留まりますが」
「軍務以外に使われる子は」
「民生での仕事には退役後のものがあたります。体力は衰えていますが細やかな作業は得意ですから。どの塔にも2,3頭はグリフォンがいます」
「そうか、グリフォンにも現役という考え方があるわけだね」
檻の前を通るとやはり迫力がすごい。檻の柱は一本一本が人間よりも太いのだが、グリフォンが頭突きをしたりすると音叉のようにぶるぶると震え、その振動が足元にまで伝わってくるのだ。
あまり恵まれた労働環境とは言えそうもないが、水を替えたり、フォークで干し草を積んだり、檻の前でグリフォンの世話にあたっているのはやはり天使ばかりだった。
「ジリファ、本来ならばグリフォンの厩舎より天使街の方が上層に来るべきだと言ったね?」ラウラは訊いた。
「はい」
「階級意識がそこに働いているわけだね」
「ええ。そのように思います」
「グリフォンよりワイバーンが上層なのは単に適応高度の問題もあります」とキアラ。
「人間の生理機能を考えるならどの層でも構わないはずだけど、そうはなってないわけだね。グリフォンの世話は人間にはやらせない、天使がやる、というのもある意味では階級意識の表れだろうか」
「教会の戒律でも何でもありませんが、その方が感覚に合っているのでしょう。アークエンジェルが上にいて、その似姿であるエンジェル、奇跡と翼を持つクレアトゥーラが続き、その両方を持たない人間などの古い動物が下に置かれる、というのは」ジリファが答えた。
一行は建屋の1階まで下り、吹き抜けの下を通って外甲板に出た。日差しが降り注いでいる。建屋の垂直の壁が鏡のように輝いていた。
「世話をする、か」ラウラは呟いた。「世話をするのと、世話をされるのと、実際どちらが偉いんだろうね」




