別の生き物だから傷つけられるのか?
「直接傷つけたわけじゃないけど、私のせいでああなったのよ。そういうのって本当にしんどいのね」ディアナは言った。
シピとクローディアを待っている間、カイは廊下でディアナと2人きりだった。
「わかるけど……」
「けど?」
「あなたにもそういう呵責があるんだ、と思って」
「悲しいわね、信じてもらえないって」
カイは答えようとしたが言葉にならなかった。監獄の景色を思い出したからだ。溜息が出た。
「まだわからないかもしれないけど、私はあの子のことを本当に大事にしているのよ」
「エトルキアのイデオロギーの内側からそう言われても、響きませんよ」
クローディアがディアナを呼びに廊下へ出てきた。
「背骨の金具を抜きたいの。手を貸して」
「先に外したら変な形でくっつくわよ」ディアナは腕を組んだまま答えた。
「だからって最後まで刺しておいたらそこだけ穴になっちゃうでしょ」
ディアナは頷いた。
「いいタイミングで抜けってことね。いいわ、手術室に移しましょう。シーツを汚したくない」
ディアナは内線電話で手術室が空いているか問い合わせ、部屋の隅に置いてあったストレッチャーをベッドの横まで滑らせてシピをその上に移した。シピは始終うつ伏せのまま翼と左の肘で体を支えようとしていた。体幹に負荷がかかると痛みを感じるようだ。
が、ストレッチャーから手術台に移される時は力んでいなかったし、どう見たってもっと痛そうなボルトを引っこ抜く作業の間もむしろ平然としていた。
「痛くないの?」カイは顔を近づけて訊いてみた。
「痛くないです」シピは得体の知れない食べ物を口に入れたみたいな神妙な表情をしていた。「見えないところで変な感触がするのは気持ち悪いですけど」
たぶん搬送の途中でクローディアが鎮痛の奇跡をかけたのだろう。もしかするとじたばた暴れるのを押さえつけておかなきゃならないかもしれない、と思っていたのでちょっと拍子抜けだった。
「もっと痛そうな感じになるかと思ってたよ」カイは手術台の前にしゃがんだ。
「その方がよかったですか?」
「いや、痛くない方がいい。こういう奇跡は初めて?」
「アークエンジェルはエンジェルを救ったりしないてすから」
「サンバレノの?」
「はい。あと、エトルキアの監獄でも。メイドになってからは他の天使とは会っていません。妹だけです」
「妹がいるんだ」
「はい。ディアナ様の兄君に仕えています」
「それって魔術院の?」
「はい」
「なんだかすごく酷い扱いを受けてるんじゃないかという気がするけど……」
「そんなことはありません。妹は素直に言います」
「大丈夫よ。私がお目付け役なの」とディアナ。
「あなただって大概怪しいじゃない」クローディアが言い返した。
「あのね、私はいい子にはとことん優しいのよ」
「はい」とシピ。
「ほら、言わされてる」
ボルトを回すラチェットレンチがカチカチと鳴き、ステンレスのトレーにボルトやプレートを置く時にカチンという音が響いた。
それが微妙なリズムになって1時間ほど続いた。
骨が露出するほど抉れた腰の傷もクローディアの手の下でゆっくりと塞がっていった。まず分厚いかさぶたのようなものが傷全体を覆って膿を押し出し、その下で皮膚が再生していくにつれて次第に厚みが増していった。やがて外周からかさぶたが剥がれ落ち、新しい薄い肌が姿を現した。その赤っぽい白さといかにも弱々しい質感は周りの肌とは違っていたし、肉付きにしてももう片側の腰に比べるとかなり削がれた状態なのは明らかだったけど、ともかく傷は塞がっていた。
慢性的な痛みから解放されたせいだろう、治療が終わった時シピは眠っていた。
「どう、あなたの見立てでは」ディアナが訊いた。ボルトを洗ったシンクに寄りかかっている。
「何日かすれば骨の強度は出ると思う。でも神経の方はリハビリが必要でしょう。歩けるようになるかどうか」クローディアは傷を確かめながら答えた。
ディアナは黙って頷いた。
「天使が足の麻痺で不自由する、か。羽も切ってある。翼は無事なのに、不便ね」
「天使は飛ぶ時にも足でバランスを取るのよ。そうでしょ?」
「そうね。わかってる。足が動かなければ着地も決まらないし、かといってずっと飛んでいるわけにもいかない。ツバメやアジサシじゃないんだし」クローディアは言った。「もう役に立たない」
「役に立ってほしくて飼ってるんじゃないのよ。仕事を覚えてくれて便利なのは確かだけど、それはその子たちが自分でやっていることだから」
「なぜ彼女を選んだの?」
「選んだ?」
「捕虜だったんでしょ」
「ああ、そうね。エンジェルたちの中で一番衰弱していたのがその子だったの。病院に移して治療して、それで、この子は最後まで面倒を見ようと思ったのよ。その気持ちは今も変わらない」
「『この子は』?」
ディアナは一瞬だけ険しい顔をして、それ以上は何も答えなかった。その反応でやっと判断がついたけど、最後まで面倒を見る、というのは真剣な言葉だったようだ。
シピを病室に戻したあと、クローディアは廊下のベンチに倒れ込んだ。
「疲れたぁ」
「かなり力を使ったね」
カイも隣のベンチに腰を下ろしてハの字に脚を伸ばした。
クローディアはシピの傷を直しながら鎮痛もかけていた。治療箇所は全身に及んでいたし、何より午前中にはラークスパーで実験をやったのだ。奇跡は体力に直結するという。
「気疲れだよ。もう、肩がガチガチ。力はまだ平気」
「シピは全然痛がってなかった」
「ああいうのは得意なの。やっつけた天使をちょっとだけ治して、聞きたいことを聞き出したりしていたから」
「カッコいいな……」
「そう?」
「いや、よく考えたらすごく殺伐とした景色だ」
「サツバツ」クローディアは少し面白そうに繰り返した。
「血みどろの君をアルルのところに運び込んだ時のことを思い出したよ」
「私はギグリに治してもらったのを思い出したな」
「そうか、金具を外してもらったから」
クローディアは頷いた。
「ああ、こういう気持ちだったのかな、って。いや、違うか。べつに私はシピにわだかまりを抱いてるわけじゃないし……。とにかく、治すべくして治したのはほとんど初めてだったから」
クローディアは一度息をついた。
「本当に、ちょっと疲れているだけなの。自分で思っていたよりもずっと使えてる。ギネイスがこれだけ潤沢なイドを与えてくれたんだ。感謝しなきゃ」
「やあ、ディアナの頼みとやらは解決したのかい?」
通路の曲がり角からスピカが出てきて声をかけた。ラークスパーからインレまでは同じ飛行機だったが、着陸後は別行動だった。実験のことを報告しに行っていたんだろうか。ダークグレーの軍服姿だった。
カイはクローディアに顔を向けて答えを譲った。
「終わったわ。私ができることはもうない」
「じゃあ行きましょう。夫が夕食作って待ってるわ」
「メルダースって料理もするのね」とクローディア。
スピカは頷いた。
「彼に任せるとだいたい魚料理になるの」
「どうして?」
「さあ。好きなのか、私の料理に不満があるのか……。とにかく、ディアナに断ってくるわ」
スピカは病室に入ってほんの20秒くらいで出てきた。
「あとでうちに連絡くれるって。スローンを見にいくんでしょ」
「そう言ってました」
「うん、あとは大丈夫だから」
インレとレゼの民間定期便は1日2本だけ残っていた。朝と夕方、といっても郵便貨物便で、料金は格安の代わりに座席は輸送機と同等、運行も随時、アナウンスの類も一切なしだった。レゼは軍用機や私用機の乗り入れを制限しているし、チャーターでは高くつく。他の軍事島を経由するのも面倒だ。妥当な線だった。
機体はATPとかいう愛称のない中型双発ターボプロップ機だった。要は固定翼機だ。近場ならヘリコプターの方が便利だという話じゃなかったのか、と思ったけど、小回りより積載量が重視される業種なのだろう。同等の機体規模とエンジンパワーならヘリより固定翼の方が圧倒的に機体重量を大きくできる。
駐機場で郵便袋の積み込みを待って搭乗したのが16時40分、それから待ち時間なしで離陸して、旅客機ではありえない角度で上昇、近距離路線に乗ってレゼの着陸待ちの列に加わり、着陸して貨物ターミナルで放り出されたのがだいたい17時20分だった。
スピカは荷物用のリュックサックとは別にトートバッグを手に提げていて、中はチョチョコレート菓子やクッキーの袋でいっぱいにふくれていた。スピカはまるでヘビースモーカーがタバコでも吸うみたいにその封を開けてひっきりなしに食べていた。さっき夕食の話をしたばかりなのに、よくそんなに食べれるものだ。太るために食べている、という話は聞いていたけど、それにしては結構幸せそうに食べていた。最初はカイとクローディアも勧められたけど、カイはウェハース入りのチョコレートを1つ、クローディアもクッキーをもう何枚かもらっただけだ。
レゼの主塔エレベーターのケージは空港に置いてあるコンテナみたいな大きさなのだけど、それでも夕方の人の動きで混雑していて、一番奥に乗ってしまったせいで目当ての階で降りられるのか心配なくらいだった。
クローディアは赤いウールのコートの下で畳んだ翼を背中にぴったり引きつけていた。壁を背中にしてしかも両側をカイとスピカで挟んでいたので周りの人間には翼があるなんて全くわからなかっただろう。問題は降りる時だけど、それとなく背中に手を回してコートのシワの入り方をごまかしておいた。
「あの子もあれで真面目な性格だからね」スピカは呟いた。ようやく3人きりになったタイミングで言ったようだ。
「あの子って、シピ?」
「いや、ディアナのこと。彼女にとってはそのシピの存在が気休めなんだろうなって思ったのよ」
「というと?」
「看守として時に天使を傷つけなければならない。天使のことを自分たち人間とは別の動物だって思っていても、やっぱりストレスなんでしょ。シピを大事にすることでその代償を――許しを求めているんだわ」
「案外彼女の肩を持つんですね」カイは言った。同化志向とはいえ、天使であるスピカがディアナに親しみを示すのは少し意外だった。
「まあね。体制派の天使といえば私、みたいなところもあるし、あの子はあの子の立場だし、なんだかんだ長い付き合いなの。翼のことも頼んだって、確か話したでしょ?」
「はい」
「だから、肩を持つってほどでもないけど……、そうね、難しいわね」スピカはそこまで言ってクローディアにじっと目を向けた。「何か癪に障った?」
「いや、あなたのことじゃないの。ただ、人間って必要以上に他の生き物を傷つけない生き物なんじゃないかって思ったの」クローディアは少し俯いたまま歩いていた。
「ああ、私が言ったことね。天使を人間とは別の動物だと思っていても傷つけるのはストレスだって」
「うん。でも狩人や料理人は必要以上の殺生はしないし、密猟人にだって毛皮や角を奪うっていう目的があった。虐待をしていたのは一部の精神異常者だけでしょ」
スピカは黙って頷いた。
「罰だとか、気に食わないからとか、そういう理由で傷つけるのって、むしろ人間同士が――同じ種類の生き物同士がすることのように思えるの。同種だからこそ同じ利害を奪い合って喧嘩をするし、戒めることで学習させ、改めさせることができると信じられるのよ。そうよ、なぜ彼女たちが歪に思えるのかわかったわ。差別主義者は自分の理念の逆を常に体現してしまっているのよ」




