アーク・エンジェル
前にアーヴィング・フェアチャイルドを見たのはエトルキアの闇市場、レコール=ハウの盗掘遺物オークションだった。後に値段がつけられないほどの価値を見出されるような遺物でもせいぜい古物商の収入半年分程度で取引されるような場末の競り場だったが、どこから情報を仕入れたのかフェアチャイルドは自ら出向いてきて競りに加わっていた。
その時クローディアは「揺り籠」の付属品として出品されていた。遺物だけを扱うオークションだから人売りをするのは規則に反する。しかしあくまで人ではなくオマケ、あるいは内容物だということにしておけば抵触しない。そんな屁理屈による搦め手だった。そこまでしてでも出品業者は自分を金にしたかったのだろう。
むろんそれを許せばただの人身売買だっていくらでもまかり通ってしまう。人間の方を手枷足枷のオマケだと言ってしまえばいい。特例として認めた主催側もグルだった。黒羽の天使なんて珍品なら確実に高値がつく。厖大なマージンに目が眩んだのだ、とクローディアは理解した。下見会の陳列の前に念入りに羽根の脱色を試されたのを憶えていた。主催側もただの天使の翼を黒く染めただけではないかと疑っていたのだ。だがどんな薬品を使っても黒は薄まらなかった。
「揺り籠」というのは要はヒーリングカプセルのことで、富裕層にはそれなりの需要があったが、さほど希少なものでもなく、したがってオークションで高値がつくこともまずなかった。クローディアは蓋を開いたカプセルの中にまるで貝殻の妖精みたいにちょこんと座っていた。
舞台は強く照明が当てられていて、手を翳して目を細めても客席に座った人間たちの顔は上手く見えなかった。どうやら2人の客が互いに何度も手を上げて自分の値段を吊り上げているようだった。
異様に長い競りだった。手前の方の1人はあるところまで来ると満足そうに席を立った。おそらく出品業者か主催が仕込んだサクラ入札だったのだろう。
ところが2人とはまた別の――おそらく軍人だろう――女が入ってきて司会のところにまっすぐ歩いていき、2分ほど小声で話し合った。
そのあと司会はマイクを取ると、今の競りの落札者に落札資格がなかったこと、特定文化財のため商品は軍が押収することなどを説明した。
そこで競りに加わった2人目が後ろの席から降りてきて司会の前に立った。それがフェアチャイルドだった。彼ら3人はさらに5分以上話し込んでいたが、特に誰も声を荒げることなく一見穏便に解散した。
フェアチャイルドは少しの間その場に立ち止まり、「揺り籠」の上にいるクローディアを見上げた。好青年がそのまま歳を取ったような60がらみの男だった。司会者を照らす明かりの中で彼もまた目を細めていたが、その目にははっきりと欲望の光が宿っていた。
―――――
エヴァレット・クリュストは駐機場に戻ってくるとクローディアを連れてロープウェイの駅に入り、ゴンドラを1つ貸切にした。50人くらいは乗れそうな大きなゴンドラだったが、一緒に乗ったのはクローディアとエヴァレットの他に副官の男だけだった。ヒンターラントという利発そうな男だ。顔立ちに似合わず体が大きく、歳はエヴァレットよりいくつか上に見えた。
島の外縁向きの窓からは空港の滑走路様子がよく見えた。大きな旅客機がせわしなく発着していた。それからゴンドラが上っていくにつれて最下層甲板の向こうに雲海が見えてきた。フラムスフィアに煽られた低い雲が赤やオレンジに染まっていた。幻想的な景色だった。上から見るとこんなふうなのだ。人間に捕まってからというもの、ほとんど景色という景色を見ていなかったことにクローディアは気づいた。
ゴンドラの逆側に回って上を見ると上層甲板いっぱいに建てられた城のような建物が見えた。
「あれが君の新しい家だ。塔には本来あのような重々しい建築はふさわしくないのだが、この島はかなり積載量に余裕があるのでね。古典主義建築家たちのカタルシスを具現化したのがあの塔だよ」エヴァレットは言った。
「あそこにフェアチャイルドがいるのね」
「ああ」
「ねえ」クローディアは呼びかけた。「あなたたちはルフトの軍人なのよね。でも私を捕まえて来いっていうのはフェアチャイルド個人の命令だかお願いなんでしょう?」
「命令だ」
「それで勝手にエトルキアとドンパチしてルフトは怒らないの?」
「怒らない。要因は2つある。まず、我々は都市近衛大隊という領主直轄の部隊で、ただの駐屯部隊とは異なり、ルフト軍の指揮系統から切り離されている。ある程度私兵的行動、人選が可能というわけだ」
エヴァレットはそこまで言うと襟につけたベイロンのエンブレムに触れて話を続けた。
「2つ、たとえ今回のような衝突があったからといってそれを口実に宣戦するほどエトルキアもルフトも戦争に飢えていない。もしエトルキアが我々と君のことを真剣に由々しく捉えているのだとしたら、ルフトではなくベイロンに直接宣戦するだろうし、ルフトもそれを傍観するだろう。近衛隊を動かすというのは、その目的にあたってルフトの後ろ盾から離れることをも意味しているのさ」
「つまり」とクローディア。
「つまり?」
「バカなことをしてるってことね」
軍人2人はムスッとして何も言わなかった。
中層についたところで塔のエレベーターに乗り換えた。これまた大きなケージで、柱には装飾が施され、壁には金糸で模様を織り込んだ壁紙が貼られていた。
揺れどころか加速度も作動音も感じない快適なエレベーターだった。
ドアが開くとそこはもう城の中だった。
2人の衛兵が控える前室を抜けて豪奢な執務室に入ると、奥のガラス戸を背にしてアーヴィング・フェアチャイルドが座っていた。机に片肘を置き、人差し指の付け根を顎に当てていた。
広い部屋だった。彼の机から部屋の入口までは10m以上距離があり、龍の姿を描いたカーペットが敷かれていた。
机の横には女が立っていた。というか天使だ。肩の後ろに畳んだ白い翼が見えた。長めのショートに揃えた髪は白く、着物の袖をすっぱり落としたような服とアームカバーもやはり白が基調で、中の襦袢や帯紐などに差し色の黒と赤を使っていた。
しかし翼や髪の色より目を引くのは彼女の胸元だった。それはもう牛みたいに巨大なおっぱいで、そのふくらみは着物の前合わせを真ん中まで押し広げ、腰高に締めた帯の上にこれでもかというほど乗り出して溢れんばかりだった。
クローディアは少しぽーっとしたが、彼女が蔑むような目を向けているのに気づいて我に返った。
見覚えがあるな、とクローディアは彼女の顔を見て思った。
会ったことがある?
ああ、違う。テレビだ。
アルルの家のテレビで見たエアレースの表彰式の映像に映っていたんだ。シャンパンをかけられていたレースクイーンたちではない。その少し前、選手たちにトロフィーを渡していたのが彼女だ。
クローディアがエヴァレットと並んで部屋の真ん中で立ち止まると、フェアチャイルドも立ち上がって机の前に立った。彼の服はやや赤みがかった紺色のダブルのスーツで、ネクタイなしの開襟だった。
「下がっていい、エヴァレット」
「はっ」
エヴァレットはフェアチャイルドの指示に頭を下げ、クローディアのジャンパーを後ろから脱がせた。
クローディアはジャンパーから右腕を抜いてすぐにセーターの中に隠していた拳銃を構え、フェアチャイルドを狙って撃った。
そう、タールベルグの上層から降りるエレベーターの出口で工員のおやじたちが殴り倒したベイロン兵から奪い取ったものだった。
連射。
ウルトサラン精工製プーリアン銃は薬室とマガジン内の16発のうち5発まではフルオートで撃ち出したが、そこで止まった。故障ではない。使用者の指が引き金から離れたせいだ。
クローディアの撃ち出した最初の1発がフェアチャイルドの体に達するより早く、その間の空間に金色に光る半透明の障壁が出現して銃弾を受け止め、障壁にヒビが入って割れると同時に銃弾もまたエネルギーを喪失して落下した。
三角形の障壁は矢継ぎ早に出現して銃弾を止めると同時に、射線よりやや低く、前方に積み重なるように何枚も出現して石鎚のような形状を作り出し、その部分が急加速してクローディアに激突、運動エネルギーでもって彼女を弾き飛ばした。
クローディアはものすごい勢いで真後ろに吹っ飛ばされ、そのまま部屋の扉に叩きつけられた。
最初の1発からここまでほとんど1秒に満たない瞬間の出来事だった。
クローディアは背中の傷を守ろうと体を捻ったが、そのせいで左腕を固定していたフレームタイプのギプスが真っ先にぶつかってはずみでバンドが外れ、折れている上腕骨にもろに衝撃が加わった。
上腕が骨折部を境に再びぐにゃりと折れ曲がり、意識が飛びそうになるほどの痛みが突き抜けた。
クローディアは反射的に絶叫していた。かといってその叫びが痛みを遮断してくれるわけでもなく、左腕を押さえてカーペットの上をのた打ち回った。
「ギグリ、今のはさすがに可哀そうじゃないか」フェアチャイルドはまるで動じずにそう言って足元に落ちた銃弾をひとつ拾い上げた。9mmのフルメタルジャケット弾は頭から潰れて小さなどら焼きのような形に変わっていた。
「ごめんなさい。少々ジェラシーを感じていたのかもしれません。私というものがありながら、なぜアーヴィング様はこのような娘をお求めになるのか、と」白ずくめの天使――ギグリは少し可笑しそうに小首を傾げて答えた。
それからクローディアの方へ歩み寄り、横に屈んで黒い翼を手の甲で逆撫でした。「薄汚い黒羽、醜いエンジェル。あなた自分のケガを直す力もないのね」
クローディアにはまだ答える余力などなかった。貶されたのはわかっていたから何か言い返したかったが、何も言葉が浮かばなかった。
「仕方ないわね」ギグリはそう言ってクローディアの肩に手を翳した。
クローディアはどうにか耐えていた痛みが霧を吹いたように消えるのを感じた。
叫びが消え、荒い吐息だけが後に残っていた。どうにか自分の意志で息を抑えられるようになるのを待って唾を飲んだ。
それからセーターを肩まで捲って左腕を触り、骨は折れたまま痛みだけが消えているのを確かめた。適当に位置を決めていいものかわからなかったが、とりあえずギプスを直してバンドを締め直した。
ギグリはそこまではやってくれなかった。立ち上がって見下ろしているだけだった。
そう、今の鎮痛が奇跡だ。あの金色の障壁、光の鎚も彼女の奇跡だったわけだ。
「エヴァレット、いくら賓客でも銃を持たせたまま通すなんて。あなたはいつも詰めが甘いのよ」
「申し訳ございません。私の手落ちです」エヴァレットはフェアチャイルドとギグリに頭を下げ、床に転がったプーリアンを拾って懐に仕舞った。
「だが君も大変な任務のあとで疲れているだろう。責めるのは気が進まない。それよりギグリ、いい反応をしてくれた。やはり私の盾はおまえでなければ」フェアチャイルドは2人の間を取り持った。
「ありがとうございます」とギグリ。
エヴァレットはそれからクローディアに向き直り、「悪いが一度服を脱いでもらおう。これが最後の一手という確証もなくなってしまったからな」と言った。
「あなたが脱がせるの?」ギグリは軽蔑の目でエヴァレットを見た。そして溜息をついた。「いいわよ。私が見るから、さあ、頼みなさい」
「すみません、ギグリ様。お願いいたします」エヴァレットは再び頭を下げた。先ほどより浅い礼だった。
ギグリはフェアチャイルドにアイコンタクトを取ってから翼を広げた。
クローディアは驚いた。
……大きい。
ギグリの翼はまっすぐ広げると部屋の両壁に触れる程度、長さにして6m以上あるように見えた。自分の翼はせいぜい4m、普通の天使ならその程度だろうとクローディアは思っていた。
ギグリはその純白の大きな翼でフェアチャイルドとエヴァレットの視線を遮った。やや折り曲げて縦に長さをとるとほとんど壁のようだった。
「こんなことのためにアークエンジェルを使役させるなんて、本当に無礼な娘。さあ、早く脱ぎなさい」
そうは言われたもののクローディアは左手が使えなかった。セーターはいいがジーンズのボタンを外すのに手間取った。
ギグリはそれでも手を出さずに待ち、セーターを振って裏返し、ジーンズが脱げるとポケット1つ1つに手を入れて漁り、尻ポケットの裏地からナイフを見つけてエヴァレットの方へ後ろ投げに放り投げた。
エヴァレットはきちんとキャッチしたようだ。一応鞘がついていたので手を切るようなものではない。
スポーツブラとショーツに関しては身につけたまま手を差し込んだだけだった。ギグリは背も高かったがさほど大きな手ではなかった。
「貧相な体ね。って、何よこのパンツ」ギグリはショーツのウエストを後ろで詰めていた安全ピンに気づいた。
「借りものなの」
「呆れるほどの貧乏くささだわ……」
クローディアが服を着終えると、ギグリは気怠そうに何度か羽ばたいてから翼を畳んだ。それだけで遠く離れたフェアチャイルドの机の上にあった書類が飛ぶほどの風が起きた。
クローディアはひらひらと舞い降る白い羽根をひとつ捕まえた。毛並みは整っているが風切り羽ほど長さはない。雨覆い羽だ。指で回してみると単なる白というより銀色の光沢があるのがわかった。
綺麗だ。そう思った。
ギグリが机の横に、クローディアが部屋の真ん中に戻ると、フェアチャイルドは時間潰しに咥えていた葉巻を灰皿に置き、後ろに手を組んでクローディアの目の前に立った。
「さて、烏羽の天使よ。君の名前を教えてもらわなければ」
「クローディア」
「いい名だ。恐がることはない。ここでの最高の暮らしを約束しよう」
「私はいい暮らしより自由が欲しいの」
「私は君が私のものであるという名目を手にしたいだけさ。月に数回レースに付き合ってくれればあとは自由にして構わない」
「レースクイーンにするの?」
「そう。君はもっと美しくなれる。大勢が君の美しさを賛美するようになるだろう」
クローディアは俯いた。
また見せ物にされるのか。
「どうか私のものになってくれ」フェアチャイルドはそう言って両手を軽く差し出した。ハグの催促に見えなくもなかったが、クローディアはもちろん無視した。
「嫌だといってもそうするのでしょう。誰も私の気持ちなんて尊重してくれないのよ」
フェアチャイルドは手を下ろした。
「ギグリ、部屋に案内してケガを治してやりなさい」
「かしこまりました」
ギグリは部屋の扉を開け、「来なさい」とクローディアを呼んだ。
「ああそうだ」フェアチャイルドが呼び止めた。「夕食は何がいい? 今日は君の好きなものを作らせよう」
「魚がいいわ。ただしマスのムニエル以外」
「いいだろう。考えておくよ」
ひとくち設定11:ウルトサラン・プーリアン
ルフト空軍の制式自動拳銃。装弾数は弾倉16発、薬室1発でフルート射撃が可能。重量の割に銃身が頑丈で信頼性が高いが、スライド部分が重く、特にバースト射撃で命中精度を出すのは至難の技。
使用弾薬:9mm
全長:180mm
重量:780g
作動方式:ダブルアクション/ショートリコイル




