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ヒーロー

 前に会った時、アブラーム・メルダースはフォート・ネーブルハイムの副司令だった。シャトー・ルナールはネーブルハイムから数千キロも離れている。それに軍装でもなかった。彼はカーキのモッズコートを着ていた。

「メルダース。ここは魔術院だよ。軍人がのさばる場所ではない。協定を忘れたのかね」メル・ベルノルスはあくまで権威的な態度を崩さなかった。

「見てわからないか。任務ではない」とメルダース。

 騒ぎを聞きつけた学生たちが側廊や2階の手摺に集まりつつあった。

「……まあいい」メルは杖をホルダーに戻した。

 メルダースもサーベルを横へ放った。サーベルはブーメランのように回転しながら放物線を描き、壁の前に立っていた甲冑の脇にすぽんと飛び込む。もともとそこに差さっていたものを持ち出してきたのかもしれない。というかすごいコントロールだ。カイは感心した。

「魔術院には民間人を拘束する権利は与えられていない。それも協定の中の1項目だ」とメルダース。

「天使はどうかな?」

 メルダースは振り返って手を広げた。察しをつけたクローディアは小走りに近づいていって彼の腕にポンと飛び込んだ。

「クローディアは私の庇護下にある。不当な扱いは罪に問うことができる」

「なるほど。しかし、その言葉の意味がわかっているのかな。仮にその天使がサンバレノに加担していた場合、その責は君が負うことになる」

「構わない」

 メルは溜息をついて手を後ろで組み直した。

「ならば好きにしろ。もとより私が命じるようなことでもないが、せいぜい周りに噛みつかないように手懐けておくことだな」

 メルダースも息をついてクローディアを放した。

「クローディアは本当に奇跡を取り戻しただけだよ。彼女がどれほど力を必要としているか、私はよく理解している。安心しろ、メルヒオール」

 メル・ベルノルスはさらに癪に触ったような顔で少し俯いてから、それ以上何も言わず、とても模範的な回れ右をして建物の奥へ歩いていった。


 クローディアは改めてメルダースに抱きついた。「嬉しい。エトルキアで一番信用できる人間があなただと思ってたの」

 ネーブルハイムでも感じたことだけど、クローディアはメルダースのことがかなり気に入っているみたいだ。

「……庇護下云々というのは方便だよ。私の考え方にはそぐわない」メルダースはクローディアの肩を軽く撫でた。「持ち物は?」

「何も持ってきていないから――」クローディアはメルダースから離れて拳銃を拾った。「これだけ。ヴィカに借りたの。きちんと返さなきゃ。あとは全部病院の方に置いたまま」

「ならまず中下層に下りよう」

「あっ、ラウラは」とカイ。

「彼女も魔術院の人間だ。心配ない、上手くやるだろう」


 砕けた内装パネルを踏み越えて中庭に出る。一度閉じた扉も鍵がかけられたわけでもなかった。扉を押せばきちんと開いた。

「そうだ、ケガは」日当たりに出たところでメルダースは膝をついてクローディアの脛を見た。出血こそしていないが赤く擦り傷になっている。

「大したことない」

「そこに座って」

 と言われた通りクローディアは階段の一番上の段に座った。

 メルダースは自販機で水を買って薄いハンカチに水を含ませ、よく絞ってから広げて傷の上に被せた。

「冷たい……」

 しばらく待ってまたハンカチを濡らし、もう一度傷に被せる。気化熱で患部を冷やしているのだ。

「カイ、肩は?」メルダースは訊いた。

 カイは右腕を動かす。きちんと上がるけどぐるぐる回すと上を通る時に鋭い痛みを感じる。

「腕を出して」

 カイはジャンパーを脱いでクローディアに預ける。メルダースは肘を持って上腕を押さえたり引いたりする。

「痛むか?」

「大丈夫」

 メルダースは肩の周りを指で押さえて触診した。「ここか。少し腫れているね。折れてはいないが、欠けているかもしれない。きちんと見てもらった方がいい」

「病院ですか」

「しかし、よく我慢したね」メルダースはジャンパーを着るように手で示しながら言った。

「大した痛みじゃありませんよ。振り回された時は死ぬかと思ったけど」

「魔術は使ったが、メルヒオールに向かっては撃たなかった」

「わかりますか」

「ああ、堪えていた」

「違います。撃てなかったんだ。仕返しが恐かっただけで」

「それでもいい。結果的には撃たなくて正解だった。もっと肯定的に捉えていい」

 メルダースはそう言ってカイの表情を確かめてから歩き出した。たぶん訊く前から彼は本心を読んでいたのだろう。見透かされたみたいで情けなかった。


 側廊からドーム校舎の脇を抜けて塔に向かう。やはり見かけだけは立派な建物だ。外壁から張り出した柱がスーッと伸びて背の高いアーチをなし、それが狭い間隔で並んでいる。要は縦縞だ。

「でも、見ていたならどうしてもう少し早く助けてくれなかったの?」クローディアはエレベーターのケージの中で訊いた。

 それはカイも感じていたことだった。でもメルとまともにやりあえていたなら助けなんかいらなかったはずで、自分の弱さを棚に上げるような感じがして言い出せなかった。

「すまない。少しタイミングを見誤ったよ。でも早すぎるわけにもいかなかった。それでは魔術院にとって不当な介入になる」

「協定というやつ?」

 メルダースは頷く。

「ん……?」とクローディア。

「?」

「あなた、話し方変わった?」

「ああ、それか。これは仕事ではなくプライベートだから」

「そういう……」

「敬語の方が落ち着きますか?」とメルダース。

「いいえ、別にそのままで構わない」

「キアラの襲撃以来、長めの休暇でね、今はレゼにいる」

「2ヶ月くらい? 軍人でもそんなに長く休めるのね」

「軍人だから、ではないかな。出る時は出ずっぱりだから、オン・オフのスパンが長い」

「でも、あなたがネーブルハイムにいるのって左遷みたいなものじゃなかった?」

「どうもそうらしい。それでも結局失態をやらかしたんだ。上も手に負えなくなっているのかもしれない」

「レゼに連れて行ってもらえると思っていいのね?」

「もとよりそのつもりだよ。君はここにいるべきではない。風の噂で君たちがインレに来ていると聞いて、さらにルナールに移ったというから居ても立ってもいられなくなってしまった」


 中下層に下りるとメルダースは病院の窓口に行ってX線検査の予約を取った。待ち時間はほんの20分程度だった。その間メルダースはクローディアにコートを貸し、脛の擦り傷に貼るためのきちんとした湿布と包帯をもらってきてハンカチと取り替えた。空軍医科大学附属病院というだけあって軍人は顔が利くのかもしれない。

 X線写真は一応整形外科の先生に見てもらったけど、骨は大丈夫なので打撲だろうということだった。こちらも湿布をもらった。

「請求書はあの人に送っておいて」とクローディア。

「ああ、診察料と処方箋はメルヒオール・ベルノルス宛で頼みます」

「それはいい。軍の負担分も上乗せしておこうかな」メルダースが言うと医師も呼応した。2人は馴染みのようだ。

「ところで、君たちはもう1人一緒じゃなかったかな」医師が訊いた。

「ラウラ・クレスティス」とメルダース。

「ああ、やっぱり魔術師か」

「陰気な魔女みたいなナリだけど私たちの味方なの。あとで戻ってきたらレゼに行ってるって伝えてもらえないかしら」とクローディア。

「構わないよ。私のことを信用してくれるといいんだが」


 病室で荷物をまとめたのち、3人はエレベーターで最下層へ下りてトラムで空港へ向かった。最下層中心部は繁華街になっていたけど、半分から外縁は中下層と同様のキャンパス区画になっていた。よく見ると校舎と集合住宅が混在している。通勤通学にエレベーターを使わないシステムになっているのだろう。エネルギー需給的には合理的な都市計画だ。

 メルダースはターミナルでレゼ行きシャトルバスの切符を3枚買った。バスといってもものはヘリコプターで、レゼ=ルナール線だと機種は輸送ヘリとしても最大級のミラン・ペルラン。それが日に5便は飛んでいた。病院に通っている人間が多いのだろう。他の衛星島との往来もあって、ラウンジから見える駐機場では常に1、2機はローターを回していた。

「次の便は14時だな」メルダースは掲示板を確認した。

「1時間20分」カイは時計を確認した。

「お腹減った」とクローディア。

「何が食べたい?」

 ラウンジの周りには飲食店のカウンターが並んでいる。デザートでも食べながら帰りの便を待つ客が多いのだろう。今は昼過ぎなのでテーブルをとってがっつり食事している客が多い。カイは子供の頃に父に連れられてフーブロンの空港まで渡ったことがあったのを思い出した。テレビでしか見たことのなかった都会の景色がそこにはあった。大勢の人間たちが大勢の人間を気にも留めずに自分の時間を送っている。それがなんだか不思議な光景に見えた。まるで水槽のガラスの向こうにある景色みたいだ。

 でも、水槽の中にいるのは彼らなのだろうか、それとも自分なのだろうか。

 眠いな、と思う。朝からルナールとインレの間を行ったり来たりしているのだ。肩は痛むけど、それ以上に疲れを感じた。

 クローディアは長いこと周りを眺めていたが、ふとメルダースの方を振り返って「あれがいい」と指を差した。ファストフードだ。

「どうする?」メルダースはカイに訊いた。

 カイは頷いた。そういえばフーブロンで食べたのもハンバーガーだったな、と思った。



…………


 ぽた、ぽた、ぽた……。

 水滴が滴り、まるでノックのように水面を叩いている。

 一度零れた意識の水が肉体の器の中に再び満ち、やがて器の縁を乗り越えようとする。覚醒は近い。


 ディアナ・ベルノルスは自分の瞼を意識した。瞬きをする。暗い。何かが覆いかぶさっている。

 そこから自分の頬に水が滴っている。でも、なんだろう、この水滴は妙にとろっとしていて生温かい。

 知っている感触――そう、血液だ。

 そう気づいた途端、自分の上にシピが覆いかぶさって崩落する上階の瓦礫から守ってくれているのだという状況が猛然と認識のテーブルに上ってきた。血は頭皮から髪の毛先を伝って滴っていた。

 ディアナは飛び起きようとした。が、広がった髪の上に瓦礫が乗っていて首が動かない。

「お気づきですね」シピはそう言ってがっくり落としていた首を(もた)げた。鼻筋を伝って一気に数滴の血が滴り、またディアナの頬に落ちた。

 そしてシピのもっと向こう、鉄筋にぶら下がったコンクリートの塊がずり落ちてきて空中に放り出され、反応する間もなくシピの背中にぶつかった。

 シピは受けた衝撃で背中を反らせ、ぐっと目を瞑って顔をしかめた。弾かれた塊がすでに降り積もった瓦礫の隙間に落ち込み、コン、コン、ガコンと音を立てる。吹き抜けの方からガランガランと聞こえてくるのは全部コンクリートの破片が落ちる音なのだ。キアラのカルテルスに切断された上階のベランダ部分は一部の崩落のせいで根元まで引っ張られて歪み、コンクリートが剥離して非常に不安定な状態になっているらしかった。

 ディアナは慌ててガントレットに指を滑らせる。まず形状変化を使って最寄の棘にアクセス、それから棘を適当な大きさのシェルターに整形する。整形パターンはプリセットからの疑似ボタンによる選択、シェルターの大きさは疑似スライダーで調節する設定。所々破けているが、信号はガントレットを織りなす繊維化魔素全体を伝わるので問題ない。白い繭状のシェルターがシピの背後を覆う。シピが四つん這いになって翼を丸く広げているのがよくわかった。

「すみません、服をだめにしてしまいました」とシピ。

「なぜ? 引き摺ってでも外周の通路の方へ移してくれれば……」ディアナは自分の言いたいことを言った。

「私の力では無理です。殊にあなたは首を負傷していました。無理に動かせば脊髄を傷めてしまう」

 ディアナは左右を見た。自分の体がちょっとした窪みに落ち込んでいるのを理解した。動かすには持ち上げなければならない。引き摺ろうとすれば瓦礫の角に首を引っ掛けたり頭をぶつけたりすることになる。

「助けを求めればよかったのかもしれません。でも呼びに行っている間にあなたが傷ついていたかもしれない」

「叩き起こしてくれればよかったのよ」

 シピは首を振った。

「私はあなたに殉じます。さっき言った通り。それは本心です。大丈夫、私が死んでも次にあなたに仕えるべき天使はいます。私を選んだ時と同じ。そうでしょう?」

 ディアナは頭の周りに散らばった瓦礫をどけ、それでもどこか引っかかって仕方がなかったので棘をナイフにして髪の方を切った。上体を持ち上げてシピを抱き止める。頭はべったりと血で塗れていて、首筋の後ろにも深い切り傷があるのがわかった。

「バカね。私は本当にあなたのことが可愛いのよ。死なれたら嫌なのよ」

 シピはそれを聞いて微笑のような表情を浮かびかけながら完全に気絶した。もともと朦朧としていたのだ。ディアナはその体を抱え上げて外周通路に運び込んだ。シピの体は妙にぐにゃぐにゃしていた。あちこち骨折しているとしか思えない。背中や腕はゴツゴツした瓦礫がぶつかった跡でいっぱいだった。切られるのとも引き裂かれるのとも違う。擦り切れるようなひどい破れ方をしているのだ。天使の骨は人間の骨より遥かに軽量で脆い。当たった形跡のあるところは全部骨折していると見てもいいくらいだ。

 ディアナはシピを床に横たえた。青白い照明に傷の具合が鮮明に照らし出される。一番大きいのは背中だ。着物が破れて抉れた皮膚の中に白い骨が覗いていた。左の上腕も明らかに折れて変な曲がり方をしている。手の甲も押し潰されたのか青黒く変色して、薬指と小指は根元の関節が外れて手のひらの方へすっかり折り畳まれている。首と頭にも大きな傷がある。翼は骨はしっかりしているが、羽根には瓦礫が当たったようで折れたり千切れたりしていた。衣服の下に隠れている傷もたくさんあるだろう。でもわざわざ探ってそれを確かめる気にはなれなかった。なぜ呻きの1つも漏らさずに耐えていられたのか理解できなかった。

 しゃがんで口の前に手を翳す。浅いがきちんと息をしている。生きている。細い首筋が鼓動の度にかすかに動いている。傷から血が流れ出る。

 あれほどの死闘を経てなお元気に逃げ出していく天使がいる。だというのに、1人を守るためだけに死んでもおかしくないほどの重傷を負ってしまう天使がいる。

 その2者を分けたのは間違いなく奇跡の存在だ。いかに奇跡が天使の命に強靭性を与えているか……。

 天使は――命は本来これほどまでに脆い。

 救うべきものを救って満足したのか、シピは徐々に苦痛を表に出し始めていた。瞼の下が黒くくすみ、額に汗が浮いてくる。

 ディアナはガントレットに指を滑らせる。

 この首を折って死なせることは簡単だ。その方がずっと楽になれる。

「ああ、ここにいた」ヴィカが吹き抜けの方に姿を見せた。足元を確かめながら進んでくる。「豪語しておいて、ほら、結局止められなかっただろ。酷いもんだな、これ、やったのはキアラか」

「ヴィカ、手伝ってくれる?」ディアナはシピの首から手を引いた。そうだ、まだ生かせるはずだ。

「シピがやられた?」とヴィカ。

「1人じゃ運べない」

「おいおい、マジになってるのか。ダイ、おまえなァ、今までさんざん天使を痛めつけておいて――」

「わかってる。でも今は茶化さないで」

 ようやく冗談の言える状況じゃないと理解したのか、ヴィカは口を閉じた。

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