代替案は選択しない
飛行機のエンジン音で目が覚めた。部屋の壁はあまり音を通す構造ではないはずだけど、でも空気を震わせるこの感じはレシプロのエンジン音だ、とカイは直感した。戦闘機や輸送機のジェットエンジンの音なら気にも留めなかっただろうけど、軍事島でレシプロというのは違和感があった。
小さな窓に顔を近づける。外側の曇りに朝日が反射してほとんど真っ白だったけれど、わずかに青さの残った端の方をしばらく見ていると何かがきらりと光るのがわかった。飛行機の翼だ。どうやら島の周りを周回しているらしい。
とりあえず顔を洗う。その間にクローディアが起きてきて「見に行ってみる?」と訊いた。気を遣ってくれたようだ。寝癖でくるんと円くなった髪が頭の上で揺れていた。
カイはベッドに座ってクローディアが着替えるのを待つつもりだったけれど、彼女は洗面所で髪を直して黒いドレスを着て出てきた。
「はい」と彼女。行きましょう、といった感じだ。
カイはカウンターの上に畳まれたままの軍服に目をやった。
「着ないの?」
「着ないことにしたの」
「それはすごく危ないことだってディアナは言っていたけど」
「確かに奇跡は使えないけど、でも奇跡だけで今まで生き延びてきたとは思ってないのよ?」
その言葉には何かとても強い意志を感じた。まるで全く当然のことを言っているみたいだった。何かそうしなければならない理由があるのだろう。カイはそれ以上口出ししないことにした。
「似合ってるよ」
「マグダに作ってもらったの。ただ送ってもらったんじゃなくて、彼女が仕立てたやつ。バトルドレスもいいけど、普段使いにはちょっとイカツイでしょって」
黒いドレスは本当によく似合っていた。薄い布地が2,3枚重ねてあって、丈は膝下、上半身はホルターネックで背中が大きく開いていた。背中から肩、腕までガラ開きなのだ。それで屋外に出るとなるとかなり寒そうだけど、天使は人間より寒さに強いから大丈夫なのだろう。天使であることをむしろ誇張する服装なのかもしれない。
それはそうと、出会った時よりかなり健康そうな体つきに見えた。細いのは細いのだけど、ギョッとするような細さではないのだ。モルの昼食がおいしいのか、何にしろタールベルグに来てからきちんと食べているのがいいのだろう。
クローディアはドレスに合わせるフラットシューズもきちんと持ってきていて、それを履いて部屋を出て、堂々と背筋を伸ばしてカイの前を先導して歩いた。そもそも人の少ない中層エリア、しかも早朝なので通路にはまるで人気がなくて、中層飛行場に出るまで誰とも会わなかったくらいだった。彼女は駐機場に出た時に溜息をついたけど、それは安堵というよりむしろ人間に出会わなかったことを残念がっているみたいな感じだった。
外界は屋内より遥かに明るく、寒く、空気が薄かった。空はなんて広いんだろうという感じがする。カイはフライトジャンパーの前をしっかりと閉めた。クローディアは平気そうだ。まったく、本当に空に適応した生き物だな。
金色に染まった薄雲の合間を2機の練習機が飛んでいた。たぶんプリムローズ初等練習機だろう。かなりのロングセラー機でタールベルグでもスクラップに運び込まれた機体を何度か見たことがある。低翼単葉。ベーシックなスタイルだがレース機ほどシェイプアップされていない。
レースではない。ドッグファイトでもない。適度に距離を保ったまま、曲技飛行をやる1機のあとに続いてその動きを真似るようにもう1機が飛んでいた。
スロットルの操作が激しいようで、エンジン音は消えかかったり吹き上がったりを繰り返していた。機体が軽量でエンジンも非力なのでひらりひらりと木の葉のような機動になる。
「なんだ、軍人だって遊びで飛ぶんじゃない」クローディアが呟いた。
確かにそれは不思議な光景だった。エトルキア軍はアイゼンの周りで飛んでいた我々を追い回していた。だから、軍にとっては空は交通路と戦場に過ぎないのだ、と思っていた。
エトルキア軍人も塔の周りで自由に飛ぶのだとしたら、なぜ我々は取り締まられなければならなかったのだろう。もし追いかけられていなかったらクローディアが奇跡を失うこともなかっただろう。俺と出会うこともなかっただろう……。カイは決して反感を抱いたわけではなかった。ただ複雑な気持ちになっただけだ。
「なぜこの国は天使を蔑むようになってしまったんだろう」カイは呟いた。「エトルキア人だって空を飛ぶことに自由を求めているはずなのに、なぜ飛べるものを大事にしようとしないんだ」
「幼稚なのよ。憧憬は容易く妬みに変化してしまう。人間の性。でも性を野放しにして、あまつさえアジテートする。程度の低い文化」
「そうだとして、この国の大人たちがそれを自分たちの意見として正当化できるのは――」
「権利。権利の引換え。生きる機能が天使の方が勝っているから、人間を弱者として扶助するために天使の権利を制限して、相対的に人間の権利を底上げしている。機能と権利を合計した平等」
「そんな論理が通るって本気で思っている人間がいるのかな」
「間違っていても、筋は通しているつもりなのでしょう」
「そう、でも、それだって天使を所有物のように奴隷的に行使している人間たちは意識していないのかもしれない」
「人間の心は法律ではなく文化なのよ。当たり前にしていることを間違っているとは思わない」
2機はアクロバットを続け、10分ほど経って着陸した。格納庫の前で片足ブレーキをかけてくるりと旋回、エンジン音が消えプロペラががくんと止まる。なんとなくそんな気はしていたけど、乗っていたのはヴィカとディアナだった。
クローディアはちょっと走って翼を広げ、すうっと滑空していって手前に止まった機体のボンネットに飛び乗った。ディアナの機体だ。その姿はなんとなく獲物を奪いに行くトビやワシを思わせた。
「エトルキア人だって飛行機に乗るんじゃないの」と突っかかる。
「それはそうよ。士官の嗜みだもの」ディアナは笑ってコクピットの縁に座り直した。まるで気圧されていない。彼女は作業着姿で髪をまとめていた。出会って1日だけどその格好は珍しい感じがした。似合っていないのだろうか。
「レースは取り締まるくせに」
「ああ、飛行機野郎のことか」と奥の機体からヴィカ。「あれはおまえたちがフライトプランを提出しないからさ。それがレーダーに映ると出処不明の不審機なんだよ。わかっていても見逃せないからスクランブルをかける。で、結局飛行機野郎だから、駆り出されたパイロットも無駄骨でムシャクシャして襲いかかる。道理だろ?」
「なんでムシャクシャが道理で通るのよ」クローディアはヴィカ機のボンネットに飛び移って話を続けた。
「変なところで律儀だな……」カイも言った。
「あのね、防空システムというのは地方行政とは違うんだ。全国の基地にあるレーダーをこの島で一元的に管理しているんだよ。スクランブルの指示を出して戦闘機が飛ばなかったら職務怠慢じゃないか。一発でバレるぞ」ヴィカは塔の上層を親指で指した。
「でもフライトプランってどこで誰に出せばいいのかわからないな。ボスに言えばいいの?」とカイ。
「基地と空港には申告端末がある」
「タールベルグにはどっちもないでしょ?」とクローディア。
「本拠か最寄りの無線局にかけて許可を取るものなんだよ。派遣部隊もそうやってる」
「そうやってるって、知らないほうが悪いみたいな論理が通るところじゃないでしょう、この国は」
「私がそれを作り上げたとでも?」
「その一部には変わりないわ」
「……まったく、それをクローディアに言われちゃ反論のしようがないな。――なあ、だから嫌だったんだよ。ダイ、聞いてるか?」
「何? 聞こえない」ディアナは翼の下に立って主脚の格納室をゴソゴソ漁っていた。
「勘弁してくれよ。こいつらが帰ったらいくらでも付き合ってやるから、ここ数日はフライトはお預けにしてくれって」
「いくらでも?」
「あー……、わかったよ、いいよ」
「約束ね」ディアナはとりあえず自分の機体の前輪に黄色い車輪止めを噛ませ、ヴィカの機体の下まで歩いてきて主翼の前縁を掴んだ。「ああ、さすがに目が回ってるわ。こんなにぐるぐる回ったのは久しぶり」
「おいおい、吐かないでくれよ」
「ところでクローディア、その恰好は?」ディアナは訊いた。
「変?」クローディアはボンネットの上に立ち上がり、両手で裾を少し広げて見せた。
「制服はどうしたの」
「着ないことにしたの」
「なぜ?」
「ディアナ、あなたはエトルキア軍では階級が全てだって言った」
「ええ」
「それってまるでサンバレノの天使が位階を絶対視しているのと同じみたいに思えるの。2つの国が同じロジックに従って、その位相差だけを巡って争っているのってとてもバカバカしいと思うの。その狭間に落ち込んだ捕虜というかわいそうな人たちをもっと苛むようなことをするのって、そのバカげた争いに加担するのと同じじゃない?」
ディアナは困った顔をした。
「それってすごく素朴で大雑把な意見だと思うけど、自覚はある?」
クローディアは頷いた。
「そうね。でも、感情はわかるわ。一応、1日は制服で歩き回っていたわけだし、それを見ていた人間はあなたをただの天使としては扱わないでしょう」
クローディアはまた頷いた。
「何となく答えを言っていたような気がするんだけど、手術を受けるかどうか、決心はつけたの?」
「受けるわ」クローディアは即答した。
「あら、思っていたのと違う答え……」ディアナは目をパチパチした。
「ただし条件がある」
「うん?」
「手術室のそばに高濃度フラム環境を用意して。それから、ギネイスに輸血可能な天使を集めて。エンジェルでいい。血液型が同じってくらいのレベルで構わない。私の血は魔素に汚染されているから使えない。でも10人くらいなら余裕で集められるでしょ?」
「複数人からの大量輸血は現実的じゃないって、話したわよね?」
「ええ、聞いた。でもそれは魔術しか使えない国の医療レベルの話でしょ? 奇跡を使おうなんて考慮に入れていない。でも奇跡の使える天使ならここにいるわ。本来なら、ね。だから――これが最後の条件だけど――手術が済んだらなるはやで私を覚醒させて。多少の免疫系の不具合くらい、私が奇跡で抑えてみせる。彼女は死なせない」
「免疫系に効く奇跡?」ディアナは目をキラキラさせながら訊いた。
「自慢できるようなことじゃないけど、私もサンバレノの天使に襲われて何度か死にかけてるの。相手の血を奪ってどうにか生き延びたことだってある」
「……あなたに奇跡が戻らない可能性だってあるって、わかっているのよね?」
「わかってる。でも私は自分の奇跡も捨てきれないし、私のために彼女を死なせたくもない。間を取るにはこれしかないの」
「まさか、本気で救うつもりなのね」
クローディアは頷く。
「エトルキアだってみすみすアークエンジェルを失いたくはないでしょう?」
ディアナはゴクリと息を呑んだ。それから自分の肩を抱いて何度か腕をさすった。
「面白いわ。ワクワクする」
そのいささかマッドな反応が気に食わなかったのか、ヴィカは機体の翼から降りてくるなりディアナの後頭部をペシーンと平手で叩いた。




