サイレント・ジャイアント
タールベルグ飛行場の管理事務所は中層甲板の南面にあって、島で唯一の商店街はその建物と塔本体を結ぶ通路沿いに広がっていた。島の外から来た貨物機のパイロットたちが立ち寄るとすればせいぜいそのエリアに限られるからだ。業種的にも店頭で軽食や飲み物を売る店が多かった。あとは料理屋と服屋、床屋、日用品店、それでも全業種合わせて10店舗余りに過ぎない。
工場の食堂も商店街に面したところにあって、実質公共の定食屋として機能していた。
クローディアは券売機で食券を買ってカウンターに持っていった。昼休み明けなのでホールはガラガラ、厨房の中も休憩ムードだった。
「やあ、来てくれたんだ」モルが出てきて大きな寸胴鍋からスープを注いだ。それからパン、オムレツ、サラダ。
「お疲れ様」とクローディアも答える。
「モル、ご飯にしちゃいなよ」奥で同僚のおばさんが言った。厨房はいつも5,6人で切り盛りしていた。
クローディアが席について待っていると、モルも自分のトレーに料理を盛り付けてエプロンを外して向かいの席に持ってきた。
モルことモルガン・キルティス。カイの友人の妹、14歳。工場の食堂で働く料理上手な女の子だ。少し癖のあるブロンドの髪をアップにまとめて赤いキャップを被っていた。
「あれ、上手く行ったの?」モルはとりあえずコップの水を飲んでから訊いた。
「あれ?」とクローディア。
「カイの飛行機」
「ああ、知ってたんだ」
「だって大急ぎでご飯食べてくから、なんでって訊いたの」
「なるほど」
オムレツとパンをスープで流し込んでいるカイを想像してみるとちょっと面白かった。
「それで、クローディアも見てきたんでしょ?」とモル。
「うん、どうにか持ってきたよ。1回下の甲板にぶつけてたけど」
「えっ」
「いや、ワイヤーだけ。飛行機は大丈夫」
「あー、そういうこと。その甲板ってどの辺?」
「中層の下の、上から数えて10枚目くらいかな。ちょっと出っ張ったところ」
「北東向きでしょ。……うん、ああ、そこなら人いないはずだからいいんじゃないかなあ」
「直さないの?」
「いや、直すと思うけど、まあね、今日明日じゃなくても。――ねえ、さっきから時々変な顔してるけど……?」
「あ、してた?」
「うん」
クレーンのワイヤーのせいだ。食べようと手を口の前に持っていく度にクリーナーの匂いが鼻をついた。無意識に顔をしかめていたのかもしれない。
「油がついたからクリーナーで手を洗ったんだけど」クローディアはそう言いながらモルに手を差し出した。
モルはクローディアの手に顔を近づけて鼻から一息吸い込んだ。
そして「う゛ぉえ」と噎せ返った。
クローディアは苦笑いした。
「よくそれで食べれるよ」
「そう。これってそういう顔なの」
「鼻つまんで食べなよ」
「もうできるだけ鼻で息しないように食べてるしなあ……」
とにかくスープ、パン、オムレツ、パンの順で食べ進める。サラダが最後だ。べつにポリシーでもなんでもなくて、温かいもの、冷めやすいものから先に食べたかった。
サラダはキャベツとミズナがベースだった。
「ん、これリンゴ?」クローディアはシャリっとした食感に驚いた。
「あ、まずかった?」
「いや、でも新鮮」
「まずくないならいいや」
「おいしいよ」
ヴィカに切ってもらったリンゴと同じ木から取ったリンゴなのかもしれない、とクローディアは思った。そんな食感だった。
上層で収穫された作物はある程度量をまとめて箱詰めで各層に送られるはずだ。もちろんあのリンゴ畑もわざわざ上層まで足を運んだ観光客のためだけに設けられているわけじゃない。あれで島の人口を賄っているのだ。
「こういう料理って全部厨房で作ってるのよね?」クローディアは訊いた。
「そうだね。外から仕入れたレトルトを使うこともあるけど、特にこういう生ものはこの塔の」モルはそう言って軽く上を指差した。上層の農業区画を示しているのだ。
「この商店街には他にも食べ物屋さんがあるけど」
「同じようなもんでしょう。塔から出てくる材料でなんやかんや作ってるんだよ」
「……食材が作れるんだから、どうせなら調理済みのものを出してくれって思わない?」
「うーん、調理済みのものもあるよ。非常食は塔が作ってるんだ。乾パンとかスープとかね」
「じゃあやっぱり作れないわけじゃないんだ」
「でも、うん、確かに普通の料理って塔に注文できないわね。野菜は野菜、肉は肉だから」
「なんでそんなことになってるのかしら」
「なんで?」モルは訊き返した。
「なんというか、つまり、塔の機能は人間を食料生産の役務から解放した。でも料理からは解放しなかった」
モルはしばらく考えながら食べ進めた。
「旧文明の人たちは料理を楽しんでたんじゃないかな。与えられるものだけを食べて何も創作しないのは面白くないって思ったんだよ」
「だとしたらかなりポジティブだね」
「レシピが決まってたらサラダにリンゴ入れようとか思わないでしょ」
「レシピ考えるのって大変?」
「まあね。私なんか時々だけど、メインで考えてる人たちは結構大変かな」モルは厨房にちょっと視線を送った。
「調理までやろうと思ったら機材の汚れが手に負えないとか、そういう問題かと思ったけど、あくまで塩梅なのかな」とクローディア。
「アンバイ?」
「自動にする部分と手動にする部分と、塔を造った人間がどこかで線引きをしたんだ。差し迫った状況でなければ人間は料理をするべきだって」
モルはまたしばらく食べ進めた。
「確かに、塔の食材ってそのままじゃ食べれないんだよね。じゃがいもは芽を取らないといけないし、肉は焼かないといけないし。皮の剥き方や肉の焼き方を知らない人は大変な思いをすることになるね」
「肉の焼き方くらい……」
「いや、それがわりといるのよ。豚肉と牛肉の違いがわからなくて、豚肉でレアをやっちゃう人とか」
「そうなの……」
「だいたい、牛と豚が別の生き物だってわかってないんじゃないかな」
「うそぉ」
「塔のカリキュラムに農業区画の見学をするっていうのがあるんだけど、強制じゃないから。知らない人は知らないかもね」
「カリキュラムって、料理のカリキュラム?」
「それもあるし、色々。……ああ、そうか、あのビデオも旧文明のやつだし、農場を作ったのと同じ人が考えたのかな。うん、同じ人じゃないかもしれないけど、誰かがそういうふうに決めたんだね、きっと」
「モルは農場の見学したの?」
「したよ。勉強はちゃんとしておけってアルルが言うから」
「マジメなのね」
「誰が?」
「モルが」
「そうなの。結構ちゃんとしてるでしょ?」モルはそう言ってウィンクした。。
トレーを片付けたあと、モルはダウンコートを着て食堂の裏手から荷車を引いてきた。2輪だけどリアカーというにはいささか小さい。半分くらいの大きさだ。商店街といっても道幅は4mくらいなのであまり大きいと邪魔になるのだろう。大風に備えて食堂でも保存食を作っておくので、その材料を取りに行くのについてこないか、という話だった。
モルは荷車を引いて商店街を塔に向かって進み、エレベーターホールの前を右に進んだ。塔の外壁に開けっ放しのエアロックの扉が見えてくる。敷居の両側にはご丁寧に小さなスロープまでつけてあった。人の出入りが多いのでほとんど閉めることがないのだろう。中に入ると右手の壁に「食品庫」という古びた張り紙があった。
小部屋には食料・飲料用のカゴが雑然と積まれているだけだった。正面の壁にコンソールがあり、その横が腰高のハッチになっている。
先に予約しておいたのだろう、モルはコンソールのタッチパネルをぱぱっと叩いて履歴を呼び出した。すると壁の向こうでチェーンやベルトの回る音がして、カチッとハッチが開いた。オーブンみたいに下に開くハッチで、内側にレールがついていて奥のカゴを手前に引っ張り出すことができる構造だった。カゴの中身はじゃがいもとにんじんとたまねぎだった。
「ポトフ?」とクローディア。
「そうね。ポトフもやるし、カレーもやる」
「ああ、カレーか」
「ソーセージとベーコンは表の肉屋で買っていこうね」
「というか大口の受け取り口ってこんな感じなんだ」
「なかなか重労働でしょ?」
個人・家庭用の受け取り口は規模的にはさっきヴィカがリンゴを取り出したところに近いシステムになっている。たぶん奥に倉庫があって、注文したものをロボットアームがピックアップしてトレーに乗せてくれるのだろう。
ちょっと時間がかかるから、受取人の方を倉庫まで通してしまえばいいのに、とは思う。でもそうするといいものを選り好みしたり、他人の分をダメにしたりする人間が出てくるのかもしれない。要は人間を信用していないシステムだった。
カゴを傾けて中身を荷車に移し替えていく。冷凍されていたのか、じゃがいももにんじんもほんのりひんやりとしていた。どちらも髭根や茎が切ってあるだけで皮はそのまま、要はスーパーマーケットで売られているのと同じ状態だった。
私はこのじゃがいもに触れる最初の人間(天使)なんだろうな。
ふとそう思った。
それが全く人間の手を介さずに栽培されているのだと改めて考えるとやっぱり不思議な感じだ。
でも、人が食べるものを人が手作りするというのは当然のことなのだろうか。
農耕を始める以前、人間は狩猟採集で食いつないでいた。狩りの対象は誰かが人のために用意したものではない。あえて言うなら、それを生み出したのは自然だ。
塔は「自然」なのだろうか。
たぶん違う。
自然は人間の注文に応えて食材を与えたりはしない。塔はあくまで人の意図の産物なのだ。
根菜を積み終えて少し休む。ハッチを閉めるとまた中でがらごろと物音がした。じっとしていると塔の揺れを感じた。中層の中心部でも感じるくらいだ。かなり大きい揺れなのだろう。
揺れ動き、振動する。
なんだか塔がとてつもなく大きな生き物のように感じられた。
大きい生き物と小さい生き物では物理的に神経の長さが違うせいで時間が流れる速さの感じ方も違うというけど、もしもその差がとてつもなく大きかったら、お互いの言葉を聞き取れないくらい時間の速さが違ってしまうのかもしれない。そうしたらお互い相手が生き物なのかどうかさえわからなくなってしまうかもしれない。
確かに塔は人工物だ。でもエトルキアに言わせれば天使だって人造なのだ。
目を閉じると灰色の巨人が手のひらの上で何も知らずに生きている人間たちをそっと見下ろす姿が浮かんできた。




